
先日大垣書店でベストセラー「京都ぎらい」のPOPに手書きで「本当は好きなくせに」と書いてあるのを見た。
「本当はすき」というのに妙に納得を覚えた感じがする。
その話をしたから、ではないが、実家の父が「『程』を知るってつくづく大事やし、難しいと思う」ということを言っていた。
「分を知る」というのは身の程をわきまえるということだが「程」というのは「程度」のこと。
物事は「有る程度」が大事なのであって、それを超えると「真逆の結果」を導くことがある、というのだ。
メーターが振り切ってしまうと、180度反転してしまう。
たとえば最近よくある、というかあってはいけないストーカー殺人。
あれなんて「大好き」が「大嫌い」に逆転した典型だ。ネガポジのように真っ白は一瞬にして真っ黒に変わりうる。
ストーカー殺人は極端な例にしても、恋愛でも結婚でも「大好き」が「大嫌い」に変わることがあるだろうし、
男女間だけでなく親子の確執とかだってそうだ。
ヤマアラシのジレンマのように、程よい距離感を保つというのが実はとても難しい。
父は今「保護観察司」という地域のご奉仕をさせて頂いており、罪を犯してしまい執行猶予中の若者などと面談しているのだが、中には「親にかわいがられすぎて」親に対する強い憎しみを持つようになり、それが自暴自棄につながって犯罪を犯してしまったという人もいたそうだ。
また、このほど世間をにぎわせ失脚した政治家も「極悪人」のような言われようをして引退している。
もともとは高い志があったかもしれない。でも「自分は偉くなった」という慢心におかされてしまい、分を超えてしまう。
極端に政治を私物化した結果、世間に顔向けできない形でやめていく。
残念だけれど、最近の「あるある」だ。
そして最近、怖いのは「極端な」ことを言った人が「偉い」「よく言った」という方向に日本のみならず世界全体が動いているということ。
「トランプ」さんや、「麻薬犯は即銃殺」とした国など、極端なことを言ったりやったりすることへの賛辞が止まらない。
「程を知る」ということがなければ「激しい憎しみ」につながり、とんでもない方向に行きかねない、そういったことを父が言っていた。
続けて父はこういっていた。
「京都人の京都大好き」だって有る意味危ない。「京都ぎらい」のように反転することもあるし「京都だからなにしてもいい」という欺瞞と傲慢につながることだってある。
「京都人の京都賛美」は人によっては不愉快極まりないことになりかねない。
このところテレビでは「日本ってスゴイ」っていう番組が多いけれど、ああいう日本賛美の表れも同じ。
そんなのは欺瞞ですよ、ということは「堕落論」で坂口安吾が50年以上前に喝破している。
「白」と「黒」は反対のように思えて実は「表裏一体」でオセロのようにいつでも裏返しになる。
「白黒つけるのがニガテ」で「程を知る」ことが得意であったハズの日本人が今ゆらいでいる。
わたしだってあぶない。