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■程を知る、分を知るということ(駄文長文)■
「程」を知るということ_c0190486_22575045.jpg

先日大垣書店でベストセラー「京都ぎらい」のPOPに手書きで「本当は好きなくせに」と書いてあるのを見た。
「本当はすき」というのに妙に納得を覚えた感じがする。

その話をしたから、ではないが、実家の父が「『程』を知るってつくづく大事やし、難しいと思う」ということを言っていた。

「分を知る」というのは身の程をわきまえるということだが「程」というのは「程度」のこと。
物事は「有る程度」が大事なのであって、それを超えると「真逆の結果」を導くことがある、というのだ。
メーターが振り切ってしまうと、180度反転してしまう。

たとえば最近よくある、というかあってはいけないストーカー殺人。
あれなんて「大好き」が「大嫌い」に逆転した典型だ。ネガポジのように真っ白は一瞬にして真っ黒に変わりうる。

ストーカー殺人は極端な例にしても、恋愛でも結婚でも「大好き」が「大嫌い」に変わることがあるだろうし、
男女間だけでなく親子の確執とかだってそうだ。
ヤマアラシのジレンマのように、程よい距離感を保つというのが実はとても難しい。

父は今「保護観察司」という地域のご奉仕をさせて頂いており、罪を犯してしまい執行猶予中の若者などと面談しているのだが、中には「親にかわいがられすぎて」親に対する強い憎しみを持つようになり、それが自暴自棄につながって犯罪を犯してしまったという人もいたそうだ。

また、このほど世間をにぎわせ失脚した政治家も「極悪人」のような言われようをして引退している。
もともとは高い志があったかもしれない。でも「自分は偉くなった」という慢心におかされてしまい、分を超えてしまう。
極端に政治を私物化した結果、世間に顔向けできない形でやめていく。
残念だけれど、最近の「あるある」だ。

そして最近、怖いのは「極端な」ことを言った人が「偉い」「よく言った」という方向に日本のみならず世界全体が動いているということ。

「トランプ」さんや、「麻薬犯は即銃殺」とした国など、極端なことを言ったりやったりすることへの賛辞が止まらない。

「程を知る」ということがなければ「激しい憎しみ」につながり、とんでもない方向に行きかねない、そういったことを父が言っていた。


続けて父はこういっていた。
「京都人の京都大好き」だって有る意味危ない。「京都ぎらい」のように反転することもあるし「京都だからなにしてもいい」という欺瞞と傲慢につながることだってある。
「京都人の京都賛美」は人によっては不愉快極まりないことになりかねない。

このところテレビでは「日本ってスゴイ」っていう番組が多いけれど、ああいう日本賛美の表れも同じ。
そんなのは欺瞞ですよ、ということは「堕落論」で坂口安吾が50年以上前に喝破している。

「白」と「黒」は反対のように思えて実は「表裏一体」でオセロのようにいつでも裏返しになる。
「白黒つけるのがニガテ」で「程を知る」ことが得意であったハズの日本人が今ゆらいでいる。

わたしだってあぶない。
# by hito2653 | 2016-09-10 22:56 | 雑感。
第二次世界大戦④

東条英機内閣の次は小磯国昭内閣です。
この頃になると、米軍機による日本本土への空襲がはじまります。
絶対国防圏のサイパンが奪われてしまっては、もうどうにもなりません。
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米軍による空襲は、軍需施設の破壊が主な目的でした。しかし都市部では、一般住宅地まで無差別に爆撃されるようになりました。あちこちに防空壕が掘られ、児童たちは学童疎開するようになります。
1944年3月の東京大空襲では一晩で10万人以上の生命が犠牲になり、その後も全国各地で激しい空襲に見舞われます。
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物量まさるアメリカの攻撃はますます加速し、硫黄島の占領についで1945年(昭和20年)4月には沖縄本島にまで上陸してきました。
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日本の国内で本土決戦が叫ばれていたころ、すでに勝利を確信したアメリカやイギリス、ソ連、中華民国などは、終戦後のアジアをどうするか、たびたび会議を行っています。

たとえば、1943年のカイロ宣言では、日本が第一次世界大戦後に中国から奪った領土をすべて返還することが定められていました。1945年のヤルタ会談では、秘密裏にソ連の対日参戦も決められています。
そして1945年7月、ドイツのポツダムアメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の三人が日本に無条件克服を求める
「ポツダム宣言」を「採択」しています。

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この頃には、1943年のイタリアに続いて1945年5月にナチス・ドイツも降伏しています。だから「ポツダム宣言」の場所が「ドイツ」であってもおかしくないわけね。
しかし、、しかし、、日本の陸軍は相変わらず本土決戦を叫び、ポツダム宣言を受諾しない姿勢を取ります。
だって、戦争をやめてしまえば陸軍の責任も浮上するし、やめるにやめられなかったわけですよね。

そういうことをしているうちに、8月6日に広島、8月9日に長崎への原爆投下、となってしまうわけです・・・
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この間隙を縫うようにして8月8日にソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して対日参戦をしてきます!

2発の原爆、ソ連の参戦によって8月14日、とうとう日本はポツダム宣言受諾を決め、ようやく15年におよぶ戦争が終結することになりました。
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終戦の詔勅(しょうちょく)が出たのは、1945年(昭和20年)8月15日ではなく8月14日なのです。
それが翌8月15日正午に天皇の「玉音放送」によって告げられたので、国民もやっと敗戦をすることになったのでした。
第二次世界大戦③
東条内閣ができる際、右大臣だった木戸幸一は「ある条件」を出します。
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「とにかく日米交渉を続けてください。続かるならあなたを内閣総理大臣にしてもいい」
東条はその条件で総理大臣になったので、一応は対米交渉は続けます。

ただし硬化した態度は変わっていません。
最終的にアメリカは「ハル=ノート」というものを提示します。
アメリカ側の代表、米国国務長官「ハル」の名前を冠した文書です。
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「満州事変より前の状態に日本が戻るのであれば、アメリカは日本と仲良くしてあげます」
簡単に言えばそういう内容です。
具体的には中国・仏印からの日本軍の撤退、国民政府(蒋介石)以外の政府の否認(←実質的には国民政府を認める)、三国同盟の破棄など・・・

・・・・・・・こんなの容認できるワケないやろーーーー(―_―)!!
これまで日本は中国進出を国をあげて盛り上げてきたんだから。

・・・これはアメリカの最後通牒ととらえられました。031.gif

というわけで、1941年12月の御前会議において、アメリカ、イギリスとの開戦を決定。
12月8日、日本軍の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入していくことになるのです。

太平洋戦争の当初のうちは、ほとんどが奇襲攻撃であったこともあって、日本の思い通りに東南アジアの多くの部分を制圧。

ただ「大東亜共栄圏」の考え方を前面に押し立てて、
「米・英」VS「日・独」でなく、「米・英」VS「日本を含むアジア連合+ドイツ」という構図を考えていたのでしょう。

しかし日本に戦争に対する焦りがあったのだと思いますが、相手の了解も得ないまま
「あなたの国を救いに来ました」とずかずかと乗り込んでいったのですから、日本の行動に対してアジア各国がひとつになることなんて困難でした。

そうした状況の中、1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦での敗北をきっかけに、日本の戦況は悪化の一途をたどることになります。

ミットウェー開戦の2か月前・・・
開戦初期段階の1942年4月、東条内閣は衆議院を解散して総選挙を実施します。
この「翼賛選挙」では大政翼賛会の推薦候補ばかりが多数当選しました。そして当選した議員を中心に「翼賛政治会」が結社されました。

1943年(昭和18年)には大東亜共栄圏に賛同する東南アジア列強の代表を東京に集めて、大東亜会議が開かれます。
しかし戦況がどんどん悪化する中で、徴兵を猶予されていた男子学生までもが「学徒出陣」で戦争に駆り出されるようになります。
中学生以下の生徒まで「勤労動員」されて各地の軍需工場で働かされるようになりました。さらに女子までもが軍需産業の労働に駆り出されるようになります。(女子挺身隊

そしてついに・・・1944年(昭和19年)日本にとって「サイパン」は「絶対国防圏」でした。というのも、サイパンより遠いところからだと、当時のアメリカの飛行機でも日本本土まで飛んできて爆撃し、帰ってくるということができなかったのです。
ところが、その絶対国防圏をおかされてしまい、その責任をとるかたちで東条英機内閣は退陣します。
米内内閣の総辞職を受けた第二次近衛内閣は1940年(昭和15年)10月大政翼賛会を発足させました。
ヨーロッパで連戦連勝を続けるドイツを見習って日本も強い国を作ろうという新体制運動が起こります。この運動を実現させるための組織として作られたのが大政翼賛会で、
ドイツのファシズム政党ナチスの真似です。
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ドイツは1918年に第一次世界大戦によって国力はほぼ破壊されてしまいました。
猛烈なインフレが起こり、戦勝国から巨額の賠償金が課せられ、どうにも国が立ち行かなくなりますが、そうした危機が「全体主義」的なもので国力が回復します。

日本もドイツみたいなやり方を行えば、世界のトップになれるはずだ、そう考えたわけです。ただしアウシュビッツやユダヤ人迫害は戦後に明らかになった事実であって、単に日本は「あれだけボロボロになったドイツを蘇らえられたのはすごい」と考えたわけです。

そこですべての団体・組織を「大政翼賛会」のもとに一元化したわけです。
ざっくり言えば、経済は「財閥」政治は「軍部」がすでに牛耳っていたので、あとは「国民」をひとつにしようってわけです。

それが最終的には戦争遂行になっていったわけですけれども、例えば政府が「鉄が必要だ」といえば、津々浦々の団体が一致団結して鉄を集めることに邁進するわけです。

これに対してすべての政党も解散して合流していきました。労働組合、労働団体も解散し、大政翼賛会のもとに新たに「大日本産業報告会」がつくられ、こうして戦時下体制が完成していったのです。

日中戦争長期化の主な原因が「援蒋ルートである」と察知した日本軍はそれを遮断するため「南進政策」をとり、北部仏印(ベトナム北部)に進駐することになります。

連合軍側は日本に南進されるとお困りますから、アメリカ、イギリス、中国、オランダの各国が連携して日本に対する経済封鎖を強めます。
そう、これがABCD包囲陣ですね。
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その最初の動きが「日米通商航海条約」の廃棄通告です。
この通告について日本は「まさか廃棄なんてしないよね」と甘く考えていました。
ところが、結局条約は失効し、同時に他の国々も経済封鎖を強めてきたので、日本には資源が入ってこなくなります。( ̄□ ̄;)!!


特にオランダから入ってこなくなったは痛かった・・
なにしろオランダは石油やゴム、アルミニウムの原料となるボーキサイトなど天然資源が豊かな現在のインドネシアを占領していましたから。

アメリカは在米日本人の資産凍結、石油の日本への輸出禁止ということもやってきます。

そこで日本はこれらの資源を求めて、オランダがドイツに克服したスキをついて南進を展開していきます。

その一方で1940年9月、日独伊三国同盟が締結されます。これは仮想敵国をアメリカとする同盟です。この頃、日本にとってソ連は敵ではないのです。日本にとって迷惑なことをしているのは「援蒋ルート」をしているアメリカやイギリスですから。

そこで1941年、松岡洋右外務大臣によって
「日ソ中立条約」が締結されます。
日本はソ連とは戦争をしません、という条約です。しかし意外なことに松岡洋右と近衛首相は考えが違ったんです。松尾外相は「対米戦やむなし」、これに対し近衛首相は「アメリカには妥協」という立場でした。

この対立は近衛が松岡外相を更迭するということでいったんはおさまりますが、
その後、陸軍大臣の東条英機が対英米戦を要求します。
近衛は「まってくれ」と言うんですが、1941年9月「御前会議」で「帝国国策遂行要領」が決定。
これは「対米交渉がまとまらなければ、アメリカに対し戦争布告するよ」という内容です。

しかい、交渉はまとまりません。それは当然です。日本はアメリカに反発することばかりやっているので・・。結局対米交渉はまとまらないまま、近衛内閣はつぶれて、その後に
東条英機内閣ができました。

ここから「太平洋戦争」に入っていくので今回から太平洋戦争①とさせて頂きます。
太平洋戦争が始まったのは1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされています。
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この時の日本の内閣は誰?
阿部信行内閣です。
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「安倍晋三」とは字も違うし関係ないですよ。短命でもあるので知名度は低ですね。阿部首相は軍人出身だったのですが、世界大戦に対しては不介入の方針をとってドイツには追従しませんでした。ところが、この消極的対応に対する陸軍内部からの反発によって内閣は潰されてしまいました。
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次に成立したのが1940年1月(昭和15年)の米内光政内閣でしたが、今度は海軍からの総理でしたが、同様に世界大戦不介入の立場を継続・・。戦争反対!というより現在進行している中国との戦争が泥沼状態だったので、事実上不可能と考えたためでした。

1940年の3月、日本は国民政府の幹部で東亜秩序構想に賛同した汪兆銘(おうちょうめい)を中止陰とする南京新国民政府を作ります。
政府と言っても日本が各地につくった傀儡の寄せ集め的政権ですが、この新国民政府の理想は二つあって
・防共とアジアの独立
・ヨーロッパ列国支配からの解放

という(一見)崇高な目的でした。

このあたりが、崇高なのか傲慢なのか意見が分かれるところですが、ともあれヨーロッパ戦線ではドイツが破竹の勢いで進撃をつづけていましたから、日本でも軍部を中心に
日独伊三国軍事同盟の締結を求める動きが強くなりました。

もともと資源に乏しい日本は日中戦争が長期化するにつれ物資不足が深刻になっていました。米内内閣としては、三国同盟には消極的にならざるをえない状況だったのです。

結局のところは戦争を優先したがる軍部の圧力によって阿部内閣同様、米内内閣も潰されてしまいます。