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「他人の煩悩を自分の煩悩と錯覚する」
-手に入れたとたんゴミになる―

香山本と苫米地本に似たようなことが書いてあったので、またご紹介。066.gif
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「他人の煩悩を自分の煩悩と錯覚する」
人間は、自らの欲望を満たしてやることで成長する。
これは真理だと思います。
ところが、現実の世の中を眺めてみると、欲しいものを得たその結果に満足せず、成長もせず、不満と不安にさいなまれている人がなんと多いことでしょうか。

自分で重要度を高めているものが、自分の中にたくさんあり、しかもそれをひとつひとつ満たしているにもかかわらず、幸福になることもなく、目覚めもしないのです。

自分の煩悩でないものを誰かによって脳に刷り込まれ、それがさも自分の煩悩であるかのように勘違いさせられているからです。

他人の煩悩が刷り込まれているもっとも分かりやすい例が、テレビのCMです。

クルマのCMを例にとると、そこは一定の制作上の法則を見てとることができます。

CMでは車の形状をかっこよく見せたり、高性能をアピールしたりするのは当然ですが、その映像にはクルマとは関係のないいくつかの仕掛けが必ずくっついてきます。
たとえば、運転席の前に広がる美しい景色。助手席からこちらに、にこやかな笑顔を向ける美女。そして後部座席には立派なブランド犬のペット。

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視聴者はまるでそのクルマにのれば、そういう世界が手に入るかのように感じられますが、それが、新型車のCMのオーソドックスな訴求方法となっています。005.gif

現実には、視聴者が走るドライブコースには見事な景色はないし、美人のカミさんや恋人がいるわけでもないし、ブランド犬に釣り合う社会的地位もありません。048.gif

すると、何気なく新型車のCMを見ている視聴者は知らず知らずのうちに自分の現状に対して不満を募らせます。033.gif

「美人の彼女が欲しいなあ」「社会的地位が欲しい」
そのような「煩悩」はいつのまにか、CMをつくった企業や製作者の意図によって、新しいクルマがほしい、という煩悩にすり替えられてしまいます。

これが、他人の煩悩が刷り込まれる仕組みです。

しかし、他人の煩悩とはあなたの自我そのものであり、それがあなたを不幸にしているのです。
なぜ不幸にしているかといえば、自分で重要だと思っていることは実は他人の煩悩であり、そうそう手に入らないものだからです。
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香山リカの本でも、このように書いていました。

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精神分析学者の「ジャックラカン」は
「(自分の)無意識とは他者の欲望である」と言ったが、心の奥の奥、無意識が抱いている夢の多くは自分の意識ではなく他人の欲望を自分の欲望と信じているものが大半である。深層心理の中にある夢の中には「不老不死」などそもそも実現が不可能なものもあり、中には実現しない方が自分や回りのためによい、というものもある。
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このように、精神医学的には、夢は手放しに礼賛するべきものではなく、かなり厄介な存在だ。だから「私は自分の本当の夢を実現できるような仕事をしたいんです」などと安易に言うのは、精神科医から見たらとても危なっかしいことだ。

「これだ」と確信していたはずでも、人間の気持ちなど体調が悪かったり、ふと他人を見たりするだけで、簡単に変わってしまう。
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また、以前この苫米地本で、「煩悩」について芥川龍之介の「芋粥」という小説を紹介していましたね。
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たとえば、私が「煩悩」で思い出すのは芥川龍之介の「芋粥」という短編小説です。

子どものころから「赤鼻」と呼び捨てにされる平安時代のだらしがない侍が、当時のご馳走とされた芋粥をはらいっぱい食べたいと思います。
それを聞いた藤原利仁という武将が、望みをかなえてやろうということになりました。
招かれた先で、その侍の前に芋粥がこれでもかとばかりに提供されます。
その侍は、やがて芋粥を食べることが苦痛となり、ついに「食べなくてもいい」という許しが出ると心から安堵します。

それは心ゆくまで芋粥を食べたいという夢を失うことと引き換えに許された安堵である、という残酷な小説です。手に入れたと思ったとたん、その喜びや満足感は泡のように散ってしまう。「煩悩」の本質とはかなさをよく表しています。
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(以下 私の感想)016.gif
よく、夢をもつのはいいことだ、と色々な本に書いていますが、「夢」なんてものは、流動的であぶなっかしいものだと思いました。香山リカは、中村うさぎの小説を引用して、「手に入れたとたんゴミになる」とも書いています。これは苫米地氏の言う、芥川龍之介の「芋粥」のテーマでもあります。

それどころか、「夢」は自分が夢と信じて疑わなかったことが、自分ではなく「他人の煩悩」である場合がほとんどです。「夢」と思っていたことの多くが、他人を見て「うらやましい」と思うこと、つまり単なる「妬み」である場合も多かったりします。

「他人の煩悩」から解放されるて初めて、「穏やかで『生かされている自分』に感謝することができる人生」を送ることができるのだと思いました。
by hito2653 | 2013-02-17 15:49 | 読書
さて、ブログで8回にわたって、初めての苫米地本について紹介しました。006.gif
ブログでは、読んだ気になれるくらい、コアなところを網羅的に引用・要約しました。単独でも内容が理解できると思うので、気になったところだけ読んでくださってもいいと思います。
(一番下にリンクをのせておきました。)

鬱や現代のビジネスパーソンンのストレスなどを分かりやすく言及してあって「人の心」というつかみどころのないものを論理的に解説しています。久しぶりに読んだ、中身のある良書でした。066.gif

初めて読んだ本ですが、自分がもともと持っていた考えと共通する部分もありました。
ブリーフシステム(信念)、エフィカシー(自負心)、煩悩 などというキーワードも出てきました。005.gif005.gif

「ブリーフシステム」、というのは大学時代、一般教養で取った心理学の教師が「信念体系」と言っていたものがそれにあたると思います。035.gif

ベトナム戦争が終わったとき、多くのアメリカ兵が精神崩壊状態になったと言います。
それは、「戦争」のなかで兵士が強い信念として持っていた「正義」が終戦とともに、無益なものであると分かった途端、「信念体系」が大きな矛盾を起こしたためです。

本書でも「正義」の旗を振る人間ほど病みやすいと書いていました。048.gif
確固たる「信念体系」をもつがため、「こうあるべき」が実際そうならなかったとき、葛藤が起こるためです。

ただし、正義感を持つな、ということを言っているわけではありません。
「こうあるべき」と具体的に思いすぎるので、そうならなかったときはすべて悪だとか間違いだとか決めつけてしまうことが問題なのです。

本書では記憶を「統合」するとき、「抽象化」せよ、と書いています。
あるべき姿が具体的であるがため、他を排除してしまうのです。
あと、自分が持っている「正義感」が単なる思い込みによる「自我」ではないか、疑問を持つこと。そうすることで、他人に対して寛容になれます。

本書は「鬱」で休職する人のことを「錦の御旗」をもった人と言ったり、鬱の人は好きこのんで鬱になっている、という厳しい、かつするどい指摘をしています。

なので、本書に対して一部の人から反発も出てくるでしょう。
「そうは言っても私はこんなつらい体験をしているんだ」
「私の気持ちなんてわかるはずがない」というふうに。

そういう人は「鬱は『自己責任』だ」と説いている本書を手に取ることはあまりないでしょうね。
先の「正義」についても「自分はつねに正しい」と思っている人は、自らの「正義」を省みて「間違っていたかもしれない」と思う人はそうそうないわけです。

自分で自分の機嫌を取れる人はいい。
しかし、世の中には病んでいる人、怒っている人、自我の強い傲慢な人、たくさんいるわけです。それがため、わざわざ不幸になっているような人を変えるにはどうすればいいか。

その答えは、その人の「心の琴線に触れること」だと思います。
その人の心に寄り添い、感動させるのは並大抵のことではないですが、屁理屈をこねるよりも一番の特効薬だと思います。逆に言うとそれしかないのではないでしょうか。

≪これまでの苫米地本記事リンク≫(図の下)
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「『イヤな気持ち』を消す技術」苫米地英人(フォレスト出版)-独りよがりの「信念」と強い怒り-

「同じ失敗をしないために記憶はある」 -信念(ブリーフシステム)と記憶―

「過去が未来を制約することはない」

―なぜ、知識によって重要度が変わるのか―「煩悩」と「認知科学」

「煩悩」の正体を知る

希薄な人間関係がイライラの原因になる理由―つまらないことが「重要」とされる環境―

うつ病を一瞬にして治す方法① 「自己責任」という考え方が特効薬-

うつ病を一瞬にして治す方法② エフィカシーを高める

記憶との付き合い方  -過去の記憶を娯楽にする―
by hito2653 | 2013-01-24 22:27 | 雑感。
記憶との付き合い方  -過去の記憶を娯楽にする―
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「記憶は統合する能力で決まる」

一般に記憶を問題にするとき、私たちは、それをインプット、つまり入れる側の問題と認識しがちです。そこで入れる側の力を強化する、というノウハウに人気が集まります。
ところが、記憶は、じつ記憶を入れる側の能力の問題ではないのです。

入れる側の能力は誰もがみな思っており、おそらくその能力は、個々人でほとんど差がありません。
では、個人によって記憶力に大きな差が生まれる理由は、どこにあるのでしょうか。
それは記憶を出す能力の差なのです。

いささか専門的な言葉になりますが、出す側の能力のことを統合能力といいます。

統合するというのは、どういうことでしょうか。
記憶を構成する情報は、実はバラバラの状態で側頭葉に記憶されているのです。

脳は、これを引っ張り出すとき、バラバラになっている情報を1つに統合するという作業をします。これが統合能力です。

また、ここ数年、一般の人々の間でも、「記憶はウソをつく」という認識が広がってきました。そのとおりで、私たちは記憶を自分に都合よく、ときには自分にわざわざ都合よく書き換えて、記憶していることも多々あるわけです。

その人にとって記憶とは、そのときに時系列に何が起こった、ということではなく、意味が重要なのです。

「統合能力」の話に戻りますが、
「統合失調症」という病気があります。「統合失調」というと、どことなく統合下手と言う印象を持つでしょうが、統合失調症はむしろその逆で、統合の仕方が上手すぎるのです。

実際、統合失調症の人は「あの人が私を攻撃しようとしているなどと、現実世界として本来統合しないものまで、過去の記憶と統合するのです。

彼らはなぜか、自分が不利になるように統合し、ますます妄想や幻聴の度を強めていきます。統合のしかたはうまいのですが、わざわざ悪いものだけを選んで偏った統合を行い、自分を苦しめていくわけです。

「過去の記憶を娯楽にする方法」
私は、過去の出来事の記憶は、すべて娯楽にすればいいと考えています。

苦しいこと、辛いこと、そういう思い出が心から大切だと思えるようになったとき、私たちはそれらの体験から無条件に自由になることができるわけです。

イヤな記憶を娯楽にするには、エフィカシーを上げる方法を身につけることです。

たとえば、思い出すたびに「自分がばかだった」「許せない」などと思うと、それはエフィカシーを思いっきり下げてしまいます。
そういう癖が身につくと、あらゆる生活シーンでエフィカシーを下げる口癖が出てきてしまいます。

コーチング用語ではこれをセルフトーク、つまり自分に対して語る言葉といいますが、これをエフィカシーが上がるようにやるか、下がるようにやるかで、その人の人生は天と地ほど差が生まれます。

エフィカシーを上げるには、自分や相手を卑下するのではなく、「現在の自分」を肯定づける癖をつけることです。

記憶とのつきあい方の基本は・・
◇「結果論」で過去の出来事を後悔しない
◇わざわざ自分に不利になるように統合しない
◇後悔は無意味と言うことを知る
◇過去の記憶はすべて娯楽にする


これらの方法を身につければ、どんな記憶でも、その人を惑わせたり拘泥させるほどの力を持ちえません。
by hito2653 | 2013-01-23 23:58 | 読書
うつ病を一瞬にして治す方法② エフィカシーを高める

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ベストの選択ができないのは、その人のエフィカシーが低いからに他なりません。

エフィカシーとは、自負心であり、自己の能力の自己評価のことですが、自分の能力を低く評価しているため、問題に新たなアプローチで取り組もうという考えが起こらないのです。007.gif
なぜ、その人のエフィカシーが低いのかといえば、周囲にエフィカシーを下げるような人がいて、自己評価を常に下げるような人がいて、自己評価をつねに下げるような癖がついているのです。
エフイィカシーが思いっきり下がり、「何をやってもオレはダメだ」とふさぎ込んだ状態がうつ病というわけです。007.gif

エフィカシーはその人の持つブリーフシステムや人生のステージにおいてもその保たれ方が変わってきます。
実は人間は、加齢による老化によってもエフィカシーは下がります。
年齢が進むと老眼になるし、呼吸はすぐ上がるようになるし、記憶力はおちてきます。

たとえばそういうときに会社の出世競争に負けたというようなことが起きると、エフィカシーが思いっきり下がり、うつ病にかかります。俗にいう「ミドルエイジクライシス」です。
しかし、このときもエフィカシーを高く維持し、ミドルエイジの危機を簡単に乗り越えていく人は大勢います。

当たり前のことですが、会社の競争で戦っている人は、全員が同じように老います。
もちろん、全員が競争に勝って出世できるわけではなく、出世しない人の方が圧倒的に多いのです。

しかも出世する人は、たいてい悪いヤツ。資本主義の国で偉くなる人は、どこか法律すれすれの悪いことをして得点を稼いだ人が結構多いのです。人格的に高潔な人が一番出世しづらいのが日本の組織というものです。

私などは、自分が出世しない場合には、「オレはすごいヤツだ」と思うでしょう。
逆に出世したら、「ヤバい。オレは何か悪いことをやっているんだ」と感じます。
それがエフィカシーを高く維持するということです。


そして、本当にそうした考えをとることができれば、いくら老化を自覚していても、またいくらホルモンバランスを崩しているといっても、うつ病などならないのです。
したがって、ここでもうつ病になるかならないかは自己責任です。

自分でどういう考え方をとるかによって、うつ病はこの瞬間にも治せるのです。
by hito2653 | 2013-01-20 22:02 | 読書
うつ病を一瞬にして治す方法① 「自己責任」という考え方が特効薬-
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組織の中で仕事をする以上、人間関係のイヤな記憶は誰でもあります。007.gif
大事な席でひどい恥をかかされたとか、組織のために命令を遂行したのに捨て駒にされたとか。組織に裏切りはつきものですが、特に自分が信頼を寄せていた相手からの裏切りは耐え難いかもしれません。

私たちは、仲間でも敵でもない相手に関してはきわめて無関心といえます。
一方、私たちは利害が一致する相手から受けた裏切りにはことのほか弱いものです
その体験は、脳につくりあげられたビリーフシステムに反するからです。
そして、「あいつだけは決して許さない」という情動が強化されます。022.gif

そういった不満にまみれたひとは、たいてい精神的にも変調をきたしています。008.gif

しかし考えてみてください。
いささかきつい言い方に聞こえるかもしれませんが、それは自分のせいであり、自分が悪いのです。私が自分のせいというのは、その裏切りは相手と自分の人間関係の中で起き、自分がいなければ起こらなかったことだからです。

自分が100%正しいという頑なな考えは捨てることです。
自分は悪くないとか、正義は自分にあると考えがちな人は、人生のさまざまなシーンで局面をうまく運ぶことができない人だといえます。

それは、何か思いどおりにならないことがあると、すぐ他人のせいにするからです。
「あの人が悪い」といくら主張したところで、あの人は自分ではありませんから、自分の思いどおりに動くはずがありません。それなのに、相変わらず正しいのは自分だと思い込んでいますから、不満ばかりが膨らんでいくことになるのです。

私が長年、さまざまな人の人生のコーチングを行ってきた経験から見て
「自己責任だ」と考える人は、うつ病になりません。005.gif

なぜなら、「自己責任」と考える人は、解決の難しい大問題が現れても逃げることなく問題に取り組もうとします。

すでに紹介したとおり、ベストの選択を行って得た結果がベストの結果であり、自分で行った選択の結果は常に最高の結果です。その結果、たとえ会社が倒産したとしても、「本当は死んでいたかもしれない。生きていてよかった」なのです。012.gif

ベストの結果をいつも得られるのですから、精神的に病まなくてはならない理由があるはずがありません。それができない人に共通するのは、「過去がこうだったから、こうしよう」と考え、現状を維持しようと考えている点でしょう。

過去の記憶に執着することや、他人のせいにすることは、現在のベストの選択を阻んでいるのです。
by hito2653 | 2013-01-20 20:48 | 読書
希薄な人間関係がイライラの原因になる理由
―つまらないことが「重要」とされる環境―
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人間関係が希薄でお互いに干渉することを好まないというのは、現代人に特筆すべき特徴のひとつだと言われます。

私の経験では「うちの会社はどこに地雷が埋まっているかわかりませんからね」というビジネスマンの声が聞こえるようになったのは、90年代からのことです。
これは、「会社の命である責任ある仕事を任されても、地雷を踏むことがあるから、がむしゃらに突進するな」という意味です。002.gif

私が若い頃は、会社に仕事を命じられたらイケイケどんどんで、先輩同僚はもとより、他部門の人まで快く協力してくれたものです。

ところが、そんな幸せな時代は去り、いまではその気になって突進すると、どこからか思わぬ横やりが入ったり、梯子を外されたりして痛い目に遭うというわけです。031.gif

日本の企業のすべてがすべてでないでしょうが、こういう組織が増えるにしたがって、社内における信頼関係が薄れ、コミュニケーション不足が起こり、自分の守備範囲のことだけ頑張っていればいいという風土が生まれてきたように思います。

現代人の抱えるイライラの大きな原因はここにあるのではないでしょうか。
人間関係が希薄でお互い干渉しないという状態は、本人にとって決してリラックスできる状態とは言えません。022.gif

本当はやらなくていいこと、やるべきでないことに細心の注意をはらわなくてはいけないわけですから、それがストレスになるのは当たり前です。
自分の守備範囲のことだけをやり、相手のことはお構いなし、面倒が少なくてもいいかもしれませんが、そうではないのです。005.gif

現代のビジネスマンはずいぶん細かいことまで記憶しておかなければならなくなりました。
役員たちがどんな思惑を持っているかどうか、うちの部長はクセがあるから直球を投げちゃダメだとか、あの先輩はポジショントークがうまいから話半分に聞いておいたほうがよいとか
まるで登場するキャラクターの行動や性格を理解して得点を重ね、ステージをクリアしていくロールプレイングゲームのような日常を送らなくてはいけないわけです。071.gif

これでは
つまらない記憶が澱のように溜まり、イライラが高じるのも無理はありません。002.gif
そして、考えがまとまらなくなったり、本筋が見えなくなったり、正しい判断ができなくなったりするに違いありません。




これを読んで、ビジネスマンならウンウンと言いたくなる箇所も多いのではないかと思います。イライラの原因は人間関係が希薄である中で、「出世したい」「認められたい」という煩悩が働き、どうでもいい(?)情報をどんどん取り入れて自分自身を苦しめているわけです。ましてや「部長はクセがある」という情報も単なる他人の「刷り込み」であり、それは本当かどうかもわかりません。

上司や部下、他部署の人と、利害を超えた付き合いをし、本音ベースの中で、どうでもいい情報に振り回されないようにする。
あるいは「出世」という煩悩から一度離れ、自分を客観的に見てみる。
30代から40代の「働き盛り」世代は、こういうイライラに押し殺されそうになったら、一歩立ち止まってそうしてみるといいかもしれません。
by hito2653 | 2013-01-18 23:25 | 読書
前回のブログでは、仏教の教えの「煩悩」は認知科学でもその存在が認められており、
人間が見ている世界はありのままの世界ではなく、自分の「煩悩」というフィルターをとおして「重要度」を決めている、ということを書きました。056.gif

通俗的に仏教では人間の煩悩は108あるとされていますが、自分の煩悩がどこにあるのかを知るには、「うらやましい」と思う人を思い浮かべてみるといいでしょう。005.gif

その「煩悩」も人生のステージや人間的な成長によって、少しずつ変わっていきます070.gif

たとえば、幼い頃は、女の子なら少女マンガのような絵をうまく描ける友人がうらやましかった。中学生以降になると勉強ができる友人がうらやましい、大学になると彼氏がいる友人がうらやましい、就活になると有名企業に就職した人がうらやましい、そして社会人も数年たつと裕福な旦那と幸せな結婚をしている友人がうらやましい・・

男の人なら子供の頃は運動能力の高い友人がうらやましい・・に始まり、社会人なら自分より先に出世し課長になった同期がうらやましい・。はたまた、出世はしていないが、やたら女性にもてる友人がうらやましい・・。

「うらやましい」はそうなりたい、という形であるとともに、欲望、つまり「金」「名誉」「異性」などという「煩悩」そのものなんですよね。

そして、その「煩悩」は同じ人のものでもどんどん形を変えていく。それは、知識を得ることによって自分の中の「重要度」が変わってくるためです。
しかし、本書では煩悩は人間を悩ますからなくしなさい、と言っているわけではない。
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たとえば、私が「煩悩」で思い出すのは芥川龍之介の「芋粥」という短編小説です。

子どものころから「赤鼻」と呼び捨てにされる平安時代のだらしがない侍が、当時のご馳走とされた芋粥をはらいっぱい食べたいと思います。
それを聞いた藤原利仁という武将が、望みをかなえてやろうということになりました。
招かれた先で、その侍の前に芋粥がこれでもかとばかりに提供されます。
その侍は、やがて芋粥を食べることが苦痛となり、ついに「食べなくてもいい」という許しが出ると心から安堵します。


それは心ゆくまで芋粥を食べたいという夢を失うことと引き換えに許された安堵である、という残酷な小説です。

私は煩悩がつまらないものである、といいたいのではありません。自分自身の中から発せられた欲望を満たそうとすることは、決して悪いことではないと考えています。いざ欲望を満たしてみると、つまらないものにうつり、それが次の欲望を膨らましていくエンジンになるのです。
それが進歩や成長というものであり、人間は一歩一歩、本当にやりたいことは何か、本当に成し遂げたいことは何かを理解しています。

一般に芥川の「芋粥」は救いようのない絶望を書いた作品と理解されています。
しかし、私は、だらしがない侍がつまらない夢を失った瞬間に、その男に本当の目覚めが訪れたのではないかとも、思います。夢を失うことによって初めて手に入れることができる夢というものが、人間には必ずあるのです。
その意味で、私は人間の煩悩を否定することはできないと考えているのです。


ただし、人を悩ませるだけの「煩悩」もあるとしています。それは自分の煩悩でなく、
「刷り込み」によって錯覚させられた「他人の煩悩」だと言います。015.gif
たとえばテレビをつけるとどうでもいいようなことなのに、「これは重要ですよ」という情報を否応なしに刷り込んでくる。社会生活の中でも、よく考えるとどうでもいいことが「重要」とされ「刷り込まれる」こともしばしばあると思います。

人間は「煩悩」によってありのままの世界を見ているわけではないとはすでに述べました。
繰り返しますが、目の前の世界はその人が「重要だ」と思うもので成り立っています。
それを理解すると、「煩悩」によってただ悩むだけの人なのか、成長できる人なのかが変わってくるということでした。
by hito2653 | 2013-01-18 22:18 | 読書
―なぜ、知識によって重要度が変わるのか―「煩悩」と「認知科学」
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煩悩という言葉があります。

これは仏教の教えにある言葉で、人間の心身の働きを見出し、悩まし、知恵を妨げる心の働きのことです。
人間が抱く、個人的な欲望と理解すればいいでしょう。

ここで私がいいたいのは、煩悩があるからつまらない記憶に悩まされるのだ、という話ではありません。
私たちがこの世界をどう認識しているかという話です。

実はお釈迦さんは、煩悩を持つ人間はありのままの世界を見ているわけではないということを、およそ2,500年もの昔に看破しました。005.gif

人間は煩悩の目で見ており、生(ナマ)の世界というものを見てなどいませんよ、といったのです。
こうしたお釈迦さんの考え方は、認知科学が生まれた現代では、たいへんに先進的な思想だと評価されています。

私たちの認識は、情報として認識しているだけであって、その情報に物理的な実体があろうがなかろうが、脳にとってはどうでもいいわけです。認知科学は物理世界も仮想世界もすべて仮想だという認知のカラクリを明らかにしました。

さて、人間が煩悩の目で世界を見ているということは、言い換えれば、その人の知識が世界を見ているということです。070.gif

かりに、目の前に焼き物の器があり、それが物理的世界であることが疑いないにしても、それは見る人の知識によってまったく違って見えます。
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たとえば、それ唐三彩(とうさんさい)であると知っている人と知らない人、当時の釉薬(うわぐすり)や窯(かま)のことを知っていると知らない人。知識がある人は見た瞬間にどれくらい美術的に価値が高いかということまでがわかります。

一方で知識のない人は、そういうことがわからないだけでなく、ここに唐三彩があるということさえ気づかないでしょう。040.gif

つまり、その人の知識が重要度を決め、人は重要度の高いものしか認識しません。
目の前の世界は、その人が重要だと思うもので成り立っているということです。

by hito2653 | 2013-01-17 23:12 | 読書
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「過去が未来を制約することはない」

いうまでもないですが、思い出はとても大切なものです。
しかし、イヤな記憶に関しては作用と反作用で、イヤな記憶に対する拒否感が強くなればなるほど、その記憶が強烈に襲いかかってくるわけです。008.gif

これでは、まるで風車に戦いを挑む騎士ドンキホーテのように救いがありません。記憶に刃を向ければ、それは自分の身を傷つけることだけだからです。

大切なことは過去の出来事に対するこだわりを捨てることです。040.gif

時間というのは未来から過去へと流れています。
時間は過去から未来へと向かって流れていくものと考えている人が多いのですが、実際はその逆です。未来は時間が経つと現在になり、現在は時間が経つと過去になり、過去はさらに遠い過去になっていきます。

つまり時間はいつも未来から流れてくるものなのです。ほとんどの人は、過去が未来を成約すると思い込んでいます。過去のイヤな出来事が現在の自分をつくっている。

それは本当でしょうか。

過去は未来を制約などしていません。005.gif

人間は、生きていく間にたくさんのイヤなこと、悲しいことに遭遇し、それを記憶します。失敗を記憶するのは脳の重要な働きであり、そのこと自体に何も問題はありません。

しかしながら、辛い体験や悲しい体験の記憶に囚われてしまう人もいます。007.gif
それが負の連鎖へと発展するリスクもあります。

登校拒否児童が往々にしてそうであるように、その記憶によって人間的な成長が阻害され、人格的に歪んだ大人になるケースもたしかにあるのです。

一方では過酷な体験に遭いながらも、それを巧みに乗り越えていく人もいるわけです。
そういう人は、過酷な体験によってどのようなハンデを背負わされたとしても、独力で自分の道を切り開く技を編み出し、周囲の人々にプラスの影響を与えます。056.gif

人格的にも「あの人は立派だ」と多くの人の記憶に残るような人間に成長していきます。066.gif

どちらの方が手ごたえのある面白い生き方か。後者を欲しないという人はいないに違いありません。

いかに過酷な体験をしようとも、それは人生に成功できないことの免罪符にはなりません。過酷な体験に囚われて潰れていくだけの人は、ただの「つまらない人間」であり、誰も見向きもしないでしょう。本来の人間は、自らの力で立ち直ろうとし、実際めきめき立ち上がっていく存在なのです。

また、現実の結果よりもいい結果を想像して後悔する015.gif
というのは人間の抱く様々な後悔に共通しています。

たとえば、高熱が出てA大学の試験を受けられず、結局B大学に行った山田さんは今の会社でうだつが上がりません。一方、彼の同級生はA大学に行ってものすごく出世しています。
「俺がA大学に行っていれば、あいつと同じように大出世していたのに」と高熱を出したこと、同級生のようになれなかったことを後悔しています。
しかし、A大学を卒業し、勤め先で出世した自分というのは、想像の産物です。002.gif

今よりもより良い仮想の自分を想像するかぎり、その人は負け続けの道を歩まざるを得ないのです。
つまり、仮想の自分を持ち出し、わざわざ現実の自分が不利になるように自分を評価しているのです。

人が後悔するときは、後でわかった結果論で考えていることがほとんどです。
人が結果論を語るときは、かならず罠があります。
結果論というのはいつも流動的なものです。
人生は、死ぬまで結果にたどり着かない阿弥陀くじのようなものなのです。

とすれば、「これが一番いいはずだ」と主体的に行った選択はすべてベストの選択であり、ベストの選択の結果はベストの選択の結果と考える以外に、この世にベストは存在していません。
主体的な人生の選択を繰り返していけば、時間とともにさらによいベストの未来がやってきて、現在になります。

現在とは過去にベストの選択を積み重ねてきた、ベストの結果なのです。
by hito2653 | 2013-01-14 00:35 | 読書
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「同じ失敗をしないために記憶はある」

そもそも人間は、イヤな出来事をよく記憶するようにつくられています。
とくに強烈ないかりや悲しみなどの情動をともなう体験をした場合、人間の脳はことさらそれを記憶に止めようとします。007.gif

その理由は、次に同じことが起こりそうなときに、それを避けなければならないからです。
なぜ避けなければならないのか。
そこに生命のリスクがあるからです。005.gif

イヤな出来事を記憶することがなければ、私たちはせっかくそれを体験しておきながら、次もその次もおな轍を踏むことになり、生命のリスクにさらされつづけてしまいます。
文字通り「死んでしまう」ことはないにしても、厳しい生存競争に勝ち残ることはできなくなるでしょう。だから、私たちの脳はイヤな出来事をよく記憶するわけです。
人は失敗の記憶によって成長するわけです。

では、人間はなぜイヤな記憶、辛い記憶に悩まされるのか、そのカラクリを解き明かしていきましょう。大きなポイントは2つあります。072.gif

1つは人間の持つ“信念”の問題、もう一つは大脳の海馬と扁桃体のやりとりによって、失敗の記憶が増幅されるという問題です。

“信念”
の問題ですが、私が教えているコーチング用語ではプラス、マイナスを問わず、個々人が強く信じて疑わない固定的な考えのことを「ブリーフシステム」と呼んでいます。

ブリーフシステムとは、たとえば私はどういう人間なのか、相手というときはどう振る舞うか、社会に対して自分はどう働きかけるかなど、その人が身につけている認識のパターンのことです。005.gif

人は、そのブリーフシステムによって、未来のことを予期したり、予想したりしています。そしてその予期や予測にしたがって、人はあらゆる選択と行動を行っています。

たとえば私は上品な人間だからレストランではこう振る舞うと予測している人は、そう意識せずとも、ブリーフシステムがその通りに振舞わせてくれます。逆に私はそういう気取った人間でないと思っている人は、そう意識せずともその人のブリーフシステムが自然に気さくな振る舞いをするように仕向けているわけです。

一方、予測に反したことが起こり、認識のパターンがずれたときに、「これは覚えておかなければいけない事象だ」と働きます。013.gif

その瞬間に海馬は、失敗の情報を側頭葉に投げ込むわけです。

「こんなに目をかけてきたのに、オレをバカにするのか」とか「さんざん尽くしてきたのに、オレを裏切るのか」などと、予期に反する相手の反応が強く記憶に残るのも、こうした記憶のカラクリが働くがゆえです。

柔和な人間、裏表のない人間、酷薄な人間、善悪の区別の曖昧な人間、すべてにおいて付和雷同する人間、あるいは争いごとを好む人間。人間はそれぞれ、その人に特徴的な心理的特性を思っています。

こうした個々人が持つ心理的特性はどうやって生み出されるのか。
人の特性はブリーフシステムで決まる。
このような仮説を立てることができます。

すべての人間は自分に奉仕すべき存在だというブリーフシステムを持つ人は、中性ヨーロッパの王がそうであったように、他人を利用し、支配し、奪います。お金こそ全てだというブリーフシステムを持つ人は。愛情かお金かの究極の二者択一を迫られたとき、迷わずにお金を取ります。あるいは、生きとし生けるものみな平等というブリーフシステムを持つ人は、命の危険も顧みず環境や野生動物の保護などに平然と人生を投げ出します。071.gif

また、登校拒否児童のメカニズムまで、ブリーフシステムによって起こるのです。
「学校も仲間もみんな敵だ。こんな場所では息をすることもできない」という信念が子供に生まれ、一人家に閉じこもっているにもかかわらず、学校という概念を思うだけで震えるようになります。

こうした個々人の期待のパターンがその人の選択と行動を決定します。
つまり、個々人の心理的特性は、その人のブリーフシステムによって決まり、それが人格という誰の目でもわかる形で外部に現れるのです。

もちろん人間の持つブリーフシステムは一つではありません。
人間の内面で深い葛藤が起こるのは、ブリーフシステム同士が互いに矛盾を起こすからです。
by hito2653 | 2013-01-14 00:14 | 読書