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第二次世界大戦③ 第二次東条英機内閣成立と退陣まで

第二次世界大戦③
東条内閣ができる際、右大臣だった木戸幸一は「ある条件」を出します。
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「とにかく日米交渉を続けてください。続かるならあなたを内閣総理大臣にしてもいい」
東条はその条件で総理大臣になったので、一応は対米交渉は続けます。

ただし硬化した態度は変わっていません。
最終的にアメリカは「ハル=ノート」というものを提示します。
アメリカ側の代表、米国国務長官「ハル」の名前を冠した文書です。
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「満州事変より前の状態に日本が戻るのであれば、アメリカは日本と仲良くしてあげます」
簡単に言えばそういう内容です。
具体的には中国・仏印からの日本軍の撤退、国民政府(蒋介石)以外の政府の否認(←実質的には国民政府を認める)、三国同盟の破棄など・・・

・・・・・・・こんなの容認できるワケないやろーーーー(―_―)!!
これまで日本は中国進出を国をあげて盛り上げてきたんだから。

・・・これはアメリカの最後通牒ととらえられました。031.gif

というわけで、1941年12月の御前会議において、アメリカ、イギリスとの開戦を決定。
12月8日、日本軍の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入していくことになるのです。

太平洋戦争の当初のうちは、ほとんどが奇襲攻撃であったこともあって、日本の思い通りに東南アジアの多くの部分を制圧。

ただ「大東亜共栄圏」の考え方を前面に押し立てて、
「米・英」VS「日・独」でなく、「米・英」VS「日本を含むアジア連合+ドイツ」という構図を考えていたのでしょう。

しかし日本に戦争に対する焦りがあったのだと思いますが、相手の了解も得ないまま
「あなたの国を救いに来ました」とずかずかと乗り込んでいったのですから、日本の行動に対してアジア各国がひとつになることなんて困難でした。

そうした状況の中、1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦での敗北をきっかけに、日本の戦況は悪化の一途をたどることになります。

ミットウェー開戦の2か月前・・・
開戦初期段階の1942年4月、東条内閣は衆議院を解散して総選挙を実施します。
この「翼賛選挙」では大政翼賛会の推薦候補ばかりが多数当選しました。そして当選した議員を中心に「翼賛政治会」が結社されました。

1943年(昭和18年)には大東亜共栄圏に賛同する東南アジア列強の代表を東京に集めて、大東亜会議が開かれます。
しかし戦況がどんどん悪化する中で、徴兵を猶予されていた男子学生までもが「学徒出陣」で戦争に駆り出されるようになります。
中学生以下の生徒まで「勤労動員」されて各地の軍需工場で働かされるようになりました。さらに女子までもが軍需産業の労働に駆り出されるようになります。(女子挺身隊

そしてついに・・・1944年(昭和19年)日本にとって「サイパン」は「絶対国防圏」でした。というのも、サイパンより遠いところからだと、当時のアメリカの飛行機でも日本本土まで飛んできて爆撃し、帰ってくるということができなかったのです。
ところが、その絶対国防圏をおかされてしまい、その責任をとるかたちで東条英機内閣は退陣します。