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明治時代⑤-3 韓国併合 いよいよ明治時代の部サイゴ

はい、今度こそ明治時代の最後でございます。
最後は「韓国併合」で締めくくりたいと思います。

明治時代は1868年から1912年
明治維新にはじまり「富国強兵」の時代であったと言えます。

韓国併合は歴史年号の暗記では1910年になっていますが、1910年は「韓国併合条約」の年、つまり日本の領土にしちゃった年ですね。

韓国併合に行くまでの流れをおさらいしましょう。

まずは「日清戦争」は朝鮮半島での主導権をめぐって衝突した戦争でしたよね。

そして日露戦争<1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日>では朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立でしたよね。

どちらも優位のうちに終わったということで
日露戦争は日本も「列強」とみなされる、ある意味デビュー戦だったわけです。

その後、日本は積極的に韓国の支配・経営に乗り出します。

ちなみに、朝鮮は日清戦争以前は「清」が宗主国、つまり「親分」でしたよね。
でも「清」が衰えてからは「清」の属国ではもはやない!ということで「大韓帝国」と名前を変えていたんですが、実質的には「親分」を「ロシア」に変えていただけだったんですね。

日露戦争のときだって韓国は中立宣言をしていたんですが、戦前からロシア軍は駐在してたのですから、
ロシア側についていたに等しかったんです。

でも日露戦争後は日本は朝鮮半島からロシアを排除します。

日露戦争は1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日ですが、戦中の1904年に「第一次日韓協約」を締結し、韓国政府内に日本政府が選んだ財政、外交顧問を置きます。

そして1905年の「第二次日韓協約」で韓国を「保護国化」します。

「保護国」というと聞こえはいいですが、「外国権の剥奪」です。

つまり「朝鮮は今度は日本の属国になったんだよ」っていうこと。

てなことで、その韓国の外交権を統率する「総監府」を漢城(今のソウル)に設置し初代総監は「伊藤博文」が就任しました。

そんな日本をアメリカやイギリスはどう見てたの?アジア人の横暴って見なかったの?というと「日本よりもロシアの勢力が南下する方が嫌やし阻止したい」という思惑からどちらかと言うと協力的な立場やったんですね。

このような日本の進出に1907年、韓国の皇帝 高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議で韓国の外交権の回復を訴えます。

しかし、アメリカやイギリスの列強は日本をバックアップしていたため、相手にされず、それどころか激怒した伊藤博文に高宗は退位、息子の純宗に譲位させられました。

さらに1907年の第三次日韓協約では韓国総監の権限が強化され、韓国はない政権まで日本に握られることになりました。そして韓国の軍隊も解散させられてしまいました。

こうした露骨な植民地支配に対し、韓国内では「義兵運動」と呼ばれる抵抗運動が各地で起ります。

そうした中、1909年 伊藤博文は韓国の排日運動家 安思根に暗殺されてしまいます。

(韓国の完全な植民地化の最大の反対者が伊藤博文だったのに、殺されてしまったがためにかえって植民地化が実現されてしまったと書いている本もありますが、真相はどうでしょう)

こうして1910年(明治43)8月、韓国併合条約、つまり韓国の植民地化がなされてしまいます。
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そして京城(今のソウル、先の「漢城」から改称)に韓国の統治機関として「韓国総督府」が設置され、初代総督に「寺内正毅」が就任します。

また明治は「不平等条約」をなんとか解消するという時代でもあったんですね。
思い出してください。

岩倉使節団ももともと不平等条約を正すために1871年(明治4年)に派遣されたのに、
国力の違いに結局たんなる欧米視察になっちゃったんですよね。

そして韓国併合の次の年の1911年(明治44)、日本は小村寿太郎外務大臣のもと、日米商航海条約を結び、
やっとこさ半世紀かかって不平等条約を正したんです。

でも逆に言うと明治の半世紀の間に同列の国力の国に追いついたと見てもいいかもしれないですね。