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■1192でなくて1185 あっけない幕切れ「源氏」の鎌倉幕府■

いまや歴史の教科書で鎌倉幕府の成立は1192(いい国)ではなく、1185
になっているそうですね。

では逆に1192はなんの年か。そう、源頼朝が征夷大将軍に任命された年ですね。
そして、1192年は後白河法皇が亡くなった年でもあります。

後白河法皇が生きている間は「右近衛大将」という低い地位でしかなかった。単なる朝廷の護衛です。
いわゆる近衛兵ですよ。たった10日で頼朝は辞任しています。
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恐らく、後白河法皇が生きている間は許してもらえなかったのではないかと言われています。
そして、後白河法皇が亡くなった1192年に後鳥羽法皇から征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立するのです。

ちなみに1185年は守護・地頭の設置。政治基盤(守護=御家人のまとめ役)と財政基盤(地頭=荘園の管理)が確立されたときをもって、鎌倉幕府の成立とみなすというわけです。

ここでふとした疑問。これまで政治の中心は京都でした。そしてその後の足利の室町幕府も京都ですよね。
なぜ「鎌倉」なのか。

それは、征夷大将軍の名目が「蝦夷討伐」のリーダーだったからなのですね。
のちの室町幕府のように、京都にいながら関東を支配するというのは実は大変なことなのです。また、頼朝自身は貴族化して朝廷の中で権力を握ろうという気はなく、また朝廷の権力を奪おうというつもりもありませんでした。
だって、平氏は貴族化して朝廷をも思いどおりにしようとして失敗したでしょ。(ー_ー)!!
むしろ、関東にいて朝廷の権威を借りながら全国の御家人を支配するという体制、朝廷と幕府との共存体制をつくりあげたのです。(^O^)

頼朝はとてもカリスマ性の高い人物で、周囲も頼朝だから言うことを聞くというところがありました。ところが、頼朝は53歳でその生涯を終えます

死因は落馬が原因だったと伝えられていますが、幕府の正史たる「吾妻鏡」」にはその死後の前後の部分だけが欠落しており、どうやら秘匿すべき最期だとも言われています。(@_@)

昔から暗殺説が根強くありますが、落馬が原因というのが一般的とされています。いずれにせよ、突然亡くなったということが言えそうです。(ー_ー)!!

頼朝の死後、2代将軍に就任したのは頼朝の子、頼家でした。しかし、位についてわずか3か月後、独断専横のふるまいが御家人の反感を買い、政治は有力御家人13人の合議制となってしまいました。

ここから北条氏への権力の移行が始まります。\(~o~)/

まず、有力御家人梶原景時を倒します。

梶原景時といえば、源平の争乱の最初の戦いの石橋山の戦いで、頼朝があわや殺されそうになったときに、頼朝を助けた人で頼朝の命の恩人、御家人の中でも最有力者だった人物です。

そして、そして、ニャンと!
時政は源頼家を伊豆修禅寺に幽閉して殺し、頼家の弟・実朝を将軍に据えます。

発端は、比企能員の乱
比企能員は自分の娘を頼家にとつがせており、そこに生まれたのが一幡(いちまん)と公暁(くぎょう)でした。

北条時政は頼朝と政子との間に生まれた頼家と実朝によって力を持つことになりますが、比企能員も同じことを考えていました。つまり比企能員の孫である一幡と公暁も将軍候補となりうるわけです。

そこで北条時政はまず比企能員だまし討ちにし、一幡を殺します。そして言うことを聞かない頼家を伊豆の修善寺に幽閉し、実朝を三代将軍に立てます。

▼鎌倉右大臣とは源実朝のこと。
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これをきっかけに北条時政は執権となり、北条家が代々世襲します。
そして、翌1204年、頼家は修善寺で殺されてしまいます。

北条時政のあとは、その子、北条義時が執権に就任。
義時は頼家の子、公暁にこう、そそのかします。
「あなたの兄、一幡も父の頼家も祖父の比企能員も実朝によって殺されたのだよ」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!なんと。

いずれの抹殺の首謀者も北条氏ですが、そんなことはおくびにも出さず、公暁は1219年鶴岡八幡宮にて将軍・実朝を暗殺。(享年28歳)
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鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を無事に終えた実朝が仲章を従えて雪の積もった石段を降りていると、実朝から向かって右側にある大銀杏の陰から若い山伏姿に頭巾を被った公暁が刀を持って飛び出してきて「親の敵はかく討つぞ」と叫び地面を引きずっている実朝の正装を踏みつけて駆け寄りそのまま斬り殺して首を刎ねたのです。 <`ヘ´>

「男は実朝の首を手に持って現場から逃走、楼門の外に居た公家や御家人は慌てふためいて蜘蛛の子を散らすように逃走し、鶴岡八幡宮の中には入れなかった殆どの随兵たちは事件の事も知らないままだった」と『愚管抄』は伝えて居ます。 (ー_ー)!!

本人にすれば仇討ちのつもりだったのでしょうが、これは将軍暗殺の重罪です。
公暁は討伐されてしまいます。(1219年)(享年20歳)

このようにして、源氏はことごとくいなくなってしまいました。

つまり、頼朝は「いい国」を作れなかった。北条が支配するための「いいハコ」を作ったにすぎなかったのですね。