「ひとのため」と書いて「偽善」になることもある?―溺れる犬を見たら棒で叩けの真意―
―溺れる犬を見たら棒で叩けの真意―
先日ある人から「溺れる犬を見たら棒で叩け」という諺が韓国にある。あの国はひどい国だ、と言われちょっとびっくりしたことがありました。
普通ことわざというのは先人が生きる知恵として道徳的なことを後世に伝えているものなのに、そんな言葉ってあるんかな、と思って調べてみたら、韓国ではなくて中国のようですね。
「打落水狗」
韓国ではなくて、中国の魯迅の言葉のようです。直訳かどうかはわかりませんが。
にしてもひどいなあ、と思っていたら納得できる解釈があったので載せておきます。
直接引用させて頂くのは「生田一舟」さんという元銀行員の禅僧の方の文章。
(また機会があれば本も紹介させて頂きます。)
「人のためは偽善になる場合がある」
よく「人のために生きよう」などという言葉を聞くことがありますが。これは正しいようで十分ではなく、場合によっては間違いです。「人」の「為」と書くと偽善の「偽」ですね。
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人に教えよ。(中略)
自分をととのえた人こそ、他人をととのえるであろう」
(ダンマバダ第12章 ブッダのことば)
このことから、自分で自分のことが十分できていないのに、人助けをすることは、精神的に歪であり「おごり」の一種であると考えられます。人は支え合うのが天理にかなう態度ですが、そのため自己犠牲がすぎると無理が生じます。
こういう状態で人を助けると、往々にして「助けてあげたのに」という恩着せの心理が、自分の心に計上され、「私っていい人でしょ」「だから私のいうことを聞いてよ」などといった気持ちが生じ、やっていることが本心と乖離するのです。
本当に人助けをするときの鉄則は、相手に負担を感じさせないようなさりげなさが必須です。人助けをするのが人のため、でなく自分のために思える状態、つまり自分のためですから内にも外にも跡を残さないのです。
また、それが本当に相手のためになるのか。
例えばお金に困っている人にお金を貸したりあげたりするのも、場合によっては薬物中毒者に薬をあげているのと同じで実はその人のためになっていないこともあるのです。
先ほどの「溺れる犬」に戻りますが、犬っていっても小型犬の可愛らしい犬から、大型犬まで様々ですよね。この溺れる犬というの大きな犬、それも狂犬のことを想定しているようです。
確かに狂犬を助けると自分まで水辺に引きこまれるか、助けても襲われることもあります。
「棒でたたけ」というのは意訳のようですが、ここでいうのは安易な気持ちで「助ける」ことで得られるのは良い結果ばかりではない、ということを表しています。
そう聞くと納得しますね。
「助ける」=善 ということ自体が実は疑わしい。
ついでに言いますと、
仏教の価値観は「無常」だから、ずーっと相手が自分にとって都合がいい人とは限らない。逆にずーっと敵だとも限らない。 だから、あいつは◎◎だから◎◎だ、と決め付けるのは、意味がないこと。
自分は◎◎だ、と勝手に絶望するのも意味がないこと。
「善」とか「悪」とか決め付けずにしなやかに生きることがネット社会の今だからこそ必要なのかもしれません。