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豊臣政権の弱体化と、家康の天下取りの始まり・・

1588年 秀吉は刀狩り令を出します。
これは、京都の方広寺の大仏鋳造に用いるという名目でしたが、実際は農民から武器を没収するのが目的でした。

全国を統一したあと、
1591年人掃令を出す。これは武士や農民が身分を移るのを禁じたものです。

秀吉晩年の時期は、いわゆる朝鮮出兵の時期。

日本を統一したあと、秀吉の目標は東アジアに行きました。
秀吉の政権にはどんどん土地を奪って家来たちに恩賞を与えないと維持できないというところがありました。

最初の出兵が1592年の文禄の役。この攻撃は紀州だったので、朝鮮側に準備の余裕がなく、漢城(今のソウル)から平壌(今のピョンヤン)を占領し、加藤清正軍に至っては朝鮮半島最北端のトマンガンあたりまで進軍していきます。
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しかし、時間が経つにつれ、李舜臣(りしゅんしん)の率いる水軍や民兵の活躍、さらに明からの援軍も加わって、戦況は豊臣軍の不利に転じていきます。そして、和平にもならず引き返すしかなかった・・。

諦めきれなかったのか、5年後の1597年、秀吉は二度目の出兵を試みます。
これが慶長の役ですが、今度は相手も十分用意をしていたので最初から苦戦を強いられ、最終的に秀吉が死んだことにより、撤退を余儀なくされます。
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ちなみに、京都市東山区の、豊国神社門前に「耳塚」という史跡がありますが、これは慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚とされていますね・・・

しかしながら、この朝鮮出兵が、豊臣政権の弱体化、そして朝鮮出兵をまぬがれた徳川家康が政権をとることになったひとつの契機になっていくのです。

なぜ徳川家康が朝鮮出兵をまぬがれたのか。
1590年、秀吉は北条氏を倒したと、関西仕置を設置し、その役に家康を命じました。
秀吉が三河の大名であった家康を関東に移したのは、できるだけ京都より遠ざけておきたかったから、といわれています。

やはり、京都から遠ざけたかったというのはそれだけ家康が有力な大名だったからなんですね。しかし、当時は重要な地方ではなくそんな場所に移すからにはそれ相応の見返りをしなくてはならない。

そこで秀吉は家康に250万石の領地を与えました。これは北条氏が所有していたものです。
家康が関西仕置に任じられて2年後に文禄の役がはじまります。

ここで家康は広大な関東の地を統括していかなければならない、という理由で朝鮮出兵を免除されているのです。

1598年に秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ5歳。
さて・・・ここから家康の天下取りの始まりです・・・(つづく)