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井伊直弼と茶の湯 (歴史勉強メモ)

「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老・井伊直弼は文化12年(1815)10月25日に彦根藩第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。

▼これは「ひこにゃん」です・・・
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普通ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼もずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまった後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子となり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。
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井伊直弼といえば、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行し、また強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺・・・(桜田門外の変)と、あまりいいイメージをもっている人はいないかもしれません。

ちなみに、安政の大獄は「開国」以外にももう一つの伏線があります。
将軍継嗣問題です。13代将軍徳川家定には病弱なうえ子供がおらず、次の将軍をだれにするかで「一橋派」(改革派・一橋慶喜)と「南紀派」(家柄重視・徳川慶福)の派閥対立が生じていました。

南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで、一橋派を押し切り、徳川慶福が次の将軍に決定します。これが14代徳川家茂です。

井伊直弼の暗殺後は、幕府は公武合体路線をとるようになります。それについては後ほど。

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タイトルの話題に戻りますが、
井伊直弼は大変な文化人であったということでも知られています。
部屋住みの時代に儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯、能楽などの多数の趣味に没頭していました。

なかでも茶の湯では「宗観」の名を持ち、若い頃からさまざまな茶書を研究していた直弼は、石州流を経て31歳の頃に自分で茶の湯の流派を立てることを決意します。
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「一期一会」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。一期(一生)に一度だけしかない出会いを大切にしようとする茶の湯の名言として知られています。(飲み屋で使われたりもして、茶道が由来ということすら知らない人も多いと思いますが・・・^^;)

しかしこの言葉が井伊直弼の「茶湯一会集」から生まれたことはあまり知られていません。
また、「茶湯一会集」には「一期一会」の他にも「独座観念」という言葉も残しています。以下ご紹介いたしますが、これも日本の誇るもてなしの心の究極を語っているのではないかと考えます。

独座観念 —茶会の終わりに—

主客とも余情残心(よじょうざんしん)の中で別れの挨拶をする。客は露地を帰るその道すがら、どんなに感動が深かったとしても大声でしゃべるものではない。亭主は客が見えなくなるまで見送り、戻って一人炉の前に座る。二度と繰り返すことのできない貴重な一期一会であったと観念しながら、一人茶を点てて自己と向き合うのが一会の極意である。