橋下氏の「慰安婦」発言に批難が集中する理由 -社会学的観点から-

橋下氏「慰安婦は必要だった」という主旨の発言が、物議を醸している。
ジャーナリストもそろって激しい非難を展開。それに対して橋下氏は持論を展開。

どうもこの構図が変だなーという感覚があったが、この違和感を解き明かしてくれる、もってこいの文章があった。途中一部引用しているのは最近も読んだ、哲学者の中島義道先生。随分前の文章なので、「政治家の発言」については柳沢元厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言を取り上げている。
このときも、「女性の人権無視」という同じような観点から非難ごうごうであった。

「柳沢大臣」を今の「橋下氏」に置き換えても全く通じるので、少し長いがまずはお読みいただきたい。

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勤務大学の大学院で「ディスコミュニケーション特論」という演習を受け持っているが、社会学者のゴフマンの理論をとりあげている。

ゴフマンは、とくに近代市民社会に置いて隅々にまで統制された「儀礼的行為」に注目する。前後左右見知らぬ人、しかも都会ではそれら互いに見知らぬ人がかなりの密度でひしめいている。その状況で「自分は安全な人間である」という信号を発し続けることは必要不可欠のことである。

逆に言えば、近代市民自己(civil self)は他人のちょっとした逸脱行為に不安を覚えてしまうのだ。電車の中で中年男が突然「ぶんぶんぶん蜂が飛ぶ・・」と歌いだすと怖くなり、道の真ん中で老婆がひとり酒盛りをしていたら、不気味だからよけて通る。市民的自己は他人に深く関わることを望まず。またそれは現実的に不可能であるから(これを儀礼的無関心 civil inattentionという)「普通でない行為」を見かけたら、なにしろ避けようとするのである。

市民的自己は、きわめて他者に対する侵害に敏感であるから、よほどのことがない限り「やめてください!」と怒鳴ったり、正面切って「あなたはおかしいですよ」と訴えることはない。もちろん、市民的自己といえども、暴力行為などはっきりした犯罪行為に対しては、毅然とした態度を持って取り押さえることはある。
しかし、こうした普通でない行為は、軽犯罪法にもひっかかることがなければ、「普通でないから目障りだ」ということ以外、特に誰も侵害していない。
だからこそ、あらためて「やめてください」と怒鳴りつけるのも場違いな感じがするのである。
そこで市民的自己が至る唯一の解決策は、こういう儀礼的行為における侵害者を
(異常abnormal)とみなして安心することである。原因は分からないが、明らかにおかしい。だが異常者なのだから、それを言っても仕方がない。避けるに越したことはない、という論理を適用する。

このことは、逆に、誰でもちょっと逸脱行為を実行したら異常者とみなされる恐れがあるということである。それを知って、みんな電車の中でどんなに疲れていても、電車のシートに靴を脱いで横になることはないし、どんな愉快な気分でも歌うこともなく・・・・
涙ぐましい努力によって「ノーマルな外見」を保とうとするのである。

では、逸脱行為をしてしまったらどうするのか。市民的自己はそれを熟知している。ゴフマンによれば、そのつどまめに「調整作業」を実行するのである。
雑踏で他人の足を踏みつけてしまったら、「すみません」と謝る。部屋に入ったとたん、風でドアがバターン!と大きな音を立ててしまったら「あ!」と驚いたそぶりをして、わざとしたのではないことを示す。

しかも市民的自己は、このすべてをぎこちなく、ではなく、あたかも自然現象であるかのようにスムーズに遂行しなければならないことも知っている。この調整作業を怠ったとき、社会的制裁が厳しいことも身に沁みているからである。他人の足を踏んでも何食わぬ顔で通り過ぎる男に、誰でも、―たとえ何の痛みも感じなくても―猛烈な怒りを覚えるのだから。

市民社会とは、各人がこうした二重の自己を適度に使い分け、調整作業を繰り返すことによって保たれている

だから、会社で不祥事が起こると、取締役一同一斉に頭を下げるのであり、裁判で被告人からなんの反省の声も聞かれないと、被害者の家族は激怒するのである。

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というわけで、ゴフマンの社会学の観点から見れば、橋本氏の発言に対する批難、維新の会からの「党としての見解ではない」という釈明は、「調整作業」の一環ともいえよう。

こう考えると、橋下氏の発言が「人権問題」であるか否かという議論は、実はどうでもいいことである。女性を性の道具としている点が「女性の人権」を侵害しているとすれば、橋下氏の論理からすると、国のために命を懸けた「男性の人権」をかさにかけて主張するだけの話である。

前回のブログにも書いていたが、はっきり言って「慰安婦」が「悪」か「必要悪」かの二元的理論をしたって仕方がない。戦場で「性」は必要だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

問題は、橋下氏が「市民社会」「市民的自己」の論理を無視したこと。
政治家として、ましてや党の代表として非難されるべきことは、100人いたら2,3人くらいしか共感しない(もしかして風俗好きが意外と多いのなら15人くらいか?)、それどころか残りの90名余りに猛烈な嫌悪感と怒りを与えることを、口に出す「軽率」さだと思う。

「発言」が「国際問題」にまで発展しているが、一方で得られる「国益」はなにか。
・・・・・・どう考えても間尺にあわない。

セクシャリティーに関する価値観が急転する世の中にあって、みな遅れまいと過敏に反応するなか、こういう風潮を弁えなかった点、橋下氏はやはりバカである。慰安婦の「必要悪」弁明は意味をなさないばかりか、市民社会における「異常者」とみなされ、隅においやられるだけで、橋下氏を含めて誰も得をしない。

今回の「慰安婦発言」問題は、現代社会で到底容認されないことを軽率に口にする政治家は信頼できないという論理に収斂する。
与野党がここぞとばかりに「紋切り型」に「女性の人権」を出すことにもどうも違和感を感じるのはこのためであった。
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by hito2653 | 2013-05-16 22:51 | 雑感。