「煩悩」の正体を知る -「刷り込み」による煩悩か、自分を成長させるものか―

前回のブログでは、仏教の教えの「煩悩」は認知科学でもその存在が認められており、
人間が見ている世界はありのままの世界ではなく、自分の「煩悩」というフィルターをとおして「重要度」を決めている、ということを書きました。056.gif

通俗的に仏教では人間の煩悩は108あるとされていますが、自分の煩悩がどこにあるのかを知るには、「うらやましい」と思う人を思い浮かべてみるといいでしょう。005.gif

その「煩悩」も人生のステージや人間的な成長によって、少しずつ変わっていきます070.gif

たとえば、幼い頃は、女の子なら少女マンガのような絵をうまく描ける友人がうらやましかった。中学生以降になると勉強ができる友人がうらやましい、大学になると彼氏がいる友人がうらやましい、就活になると有名企業に就職した人がうらやましい、そして社会人も数年たつと裕福な旦那と幸せな結婚をしている友人がうらやましい・・

男の人なら子供の頃は運動能力の高い友人がうらやましい・・に始まり、社会人なら自分より先に出世し課長になった同期がうらやましい・。はたまた、出世はしていないが、やたら女性にもてる友人がうらやましい・・。

「うらやましい」はそうなりたい、という形であるとともに、欲望、つまり「金」「名誉」「異性」などという「煩悩」そのものなんですよね。

そして、その「煩悩」は同じ人のものでもどんどん形を変えていく。それは、知識を得ることによって自分の中の「重要度」が変わってくるためです。
しかし、本書では煩悩は人間を悩ますからなくしなさい、と言っているわけではない。
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たとえば、私が「煩悩」で思い出すのは芥川龍之介の「芋粥」という短編小説です。

子どものころから「赤鼻」と呼び捨てにされる平安時代のだらしがない侍が、当時のご馳走とされた芋粥をはらいっぱい食べたいと思います。
それを聞いた藤原利仁という武将が、望みをかなえてやろうということになりました。
招かれた先で、その侍の前に芋粥がこれでもかとばかりに提供されます。
その侍は、やがて芋粥を食べることが苦痛となり、ついに「食べなくてもいい」という許しが出ると心から安堵します。


それは心ゆくまで芋粥を食べたいという夢を失うことと引き換えに許された安堵である、という残酷な小説です。

私は煩悩がつまらないものである、といいたいのではありません。自分自身の中から発せられた欲望を満たそうとすることは、決して悪いことではないと考えています。いざ欲望を満たしてみると、つまらないものにうつり、それが次の欲望を膨らましていくエンジンになるのです。
それが進歩や成長というものであり、人間は一歩一歩、本当にやりたいことは何か、本当に成し遂げたいことは何かを理解しています。

一般に芥川の「芋粥」は救いようのない絶望を書いた作品と理解されています。
しかし、私は、だらしがない侍がつまらない夢を失った瞬間に、その男に本当の目覚めが訪れたのではないかとも、思います。夢を失うことによって初めて手に入れることができる夢というものが、人間には必ずあるのです。
その意味で、私は人間の煩悩を否定することはできないと考えているのです。


ただし、人を悩ませるだけの「煩悩」もあるとしています。それは自分の煩悩でなく、
「刷り込み」によって錯覚させられた「他人の煩悩」だと言います。015.gif
たとえばテレビをつけるとどうでもいいようなことなのに、「これは重要ですよ」という情報を否応なしに刷り込んでくる。社会生活の中でも、よく考えるとどうでもいいことが「重要」とされ「刷り込まれる」こともしばしばあると思います。

人間は「煩悩」によってありのままの世界を見ているわけではないとはすでに述べました。
繰り返しますが、目の前の世界はその人が「重要だ」と思うもので成り立っています。
それを理解すると、「煩悩」によってただ悩むだけの人なのか、成長できる人なのかが変わってくるということでした。
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by hito2653 | 2013-01-18 22:18 | 読書