―なぜ、知識によって重要度が変わるのか―「煩悩」と「認知科学」

―なぜ、知識によって重要度が変わるのか―「煩悩」と「認知科学」
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煩悩という言葉があります。

これは仏教の教えにある言葉で、人間の心身の働きを見出し、悩まし、知恵を妨げる心の働きのことです。
人間が抱く、個人的な欲望と理解すればいいでしょう。

ここで私がいいたいのは、煩悩があるからつまらない記憶に悩まされるのだ、という話ではありません。
私たちがこの世界をどう認識しているかという話です。

実はお釈迦さんは、煩悩を持つ人間はありのままの世界を見ているわけではないということを、およそ2,500年もの昔に看破しました。005.gif

人間は煩悩の目で見ており、生(ナマ)の世界というものを見てなどいませんよ、といったのです。
こうしたお釈迦さんの考え方は、認知科学が生まれた現代では、たいへんに先進的な思想だと評価されています。

私たちの認識は、情報として認識しているだけであって、その情報に物理的な実体があろうがなかろうが、脳にとってはどうでもいいわけです。認知科学は物理世界も仮想世界もすべて仮想だという認知のカラクリを明らかにしました。

さて、人間が煩悩の目で世界を見ているということは、言い換えれば、その人の知識が世界を見ているということです。070.gif

かりに、目の前に焼き物の器があり、それが物理的世界であることが疑いないにしても、それは見る人の知識によってまったく違って見えます。
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たとえば、それ唐三彩(とうさんさい)であると知っている人と知らない人、当時の釉薬(うわぐすり)や窯(かま)のことを知っていると知らない人。知識がある人は見た瞬間にどれくらい美術的に価値が高いかということまでがわかります。

一方で知識のない人は、そういうことがわからないだけでなく、ここに唐三彩があるということさえ気づかないでしょう。040.gif

つまり、その人の知識が重要度を決め、人は重要度の高いものしか認識しません。
目の前の世界は、その人が重要だと思うもので成り立っているということです。

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by hito2653 | 2013-01-17 23:12 | 読書