「和魂洋才」か「無魂洋才」か

「和魂洋才」か「無魂洋才」か
(以下、五木寛之さんの文章引用)

明治維新以降の日本は「和魂洋才」でやってきました。
欧米から進んだシステムだけを学び取りながら、日本固有の精神は失わないようにしようとつとめたのです。
その際、欧米のシステムの背後には「魂(スピリット)」があって、「才(システム)」だけを取り入れることはできないということは、明治の日本人は本当はわかっていたのだろうと思います。
そこで、本来は「洋魂洋才」でいくべきところを、私たちは日本人だから「和魂」いこうと考えたのです。その当時の「和魂」とは、超国家主義と絶対的天皇制でした。

ところが、敗戦でその「和魂」が破綻してしまう。
戦後の日本は、デモクラシーも自由主義もすべてアメリカから輸入し、「和魂」ではだめだということになった。そのために考え出されたのが「無根洋才」という便利なやり方です。魂はなくてもシステムだけがあればいい。「無魂」は便利で気軽なものでした。
しかし、魂なきシステムはどうなったか。戦後半世紀たらずでそれは腐敗してしまったのです。そしていま、グローバル化という言葉が氾濫する中、日本は改めて「洋魂洋才」を突きつけられている。

c0190486_17452918.jpg

しかし、日本人はどうしても「洋魂洋才」にはなれないのです。というのは、「洋魂」、つまり欧米人の精神とは、キリスト教の一神教的文化を抜きに考えることはできません。

日本人は本当にキリスト教的信仰を持つことができるのか。
フランシスコ・ザビエルが日本に伝来してから、すでに450年余りが過ぎました。現在日本のキリスト教徒は約175万人で日本の人口の約1.4%と言われています。

一方、玄界灘一つ隔てたお隣の韓国のキリスト教徒は、朝鮮戦争以来わずか50年足らずで、一説によれば2,000万人とも言われるまでに増えています。そのことを考えると、日本は500年近くかかって、やっと175万人というのは、やはり大きな謎と言わざるを得ません。

しかも、日本人の多くはクリスマスを祝いますし、若い人は教会で結婚式をあげる。キリスト教には好意的であこがれさえもっている。それなのに「魂」だけは受け付けないのです。

そのキリスト教を阻んでいる「バリア」とはいったいなにか。それこそが、
日本人が持っている見えない信仰、見えざる宗教的感覚だと思うのです。
グローバリゼーションのなか、「無魂洋才」で行くのではなく、「洋魂洋才」で行くのではなく、今こそ「和魂洋才」が求められている、そんな気がします。

日本の「和魂洋才」とは見えざる信仰に根差された、日本人的倫理観にあるのではないでしょうか。
[PR]