明治の次は大正時代です。
大正時代は1912年(明治45年/大正元年)から1926年の15年間の短い期間です。

なので時代をまたがって説明するところもあるのですが、
大正天皇って正直あんまりイメージってなかったです。

でもある本によると家族を大切にする親しみやすい天皇さんやったらしいね。
明治時代は維新から富国強兵、不平等条約改正、と激動の時代。明治天皇は非常に厳格で、近親者でさえ声も聞いたことがないというくらい、権威づけられ、遠い存在のような印象なのですが、大正天皇は子どもたちと鬼ごっこしたり、これまでの明治天皇のときでは考えられないくらい、人間味あふれた存在であったと言われています。

ただ時代の皮肉なのか、その即位されていたわずか15年の間に
第一次世界大戦の勃発(1914年から1918年)、関東大震災(1923年)という国難に見舞われることになります。
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大正時代は1912年7月の明治天皇の崩御により大正天皇が即位したところから始まります。

前述した桂太郎と西園寺公望が交互に組閣する「桂園時代」の第二次西園寺内閣時代の年でした。

この時、陸軍省から「二個師団増設請求」ってのが出ます。なんやこれ、と申しますと、

これは、朝鮮に陸軍師団を2つ増やしてほしい、「師団」っていうのは京都にも「師団街道」っていうのがありますが、軍隊の部隊編制単位を「師団」って言います。

2年前の1910年、明治時代の最後に日本は韓国を併合していますが、1911年に辛亥革命というのが起り、1912年に中華民国(臨時大統領は孫文)が建国されます。

つまりだね、中国国内が混乱しているときだから、日本が勢力を伸ばすチャンス!したがって、大陸進出の拠点である朝鮮に二個師団を増設してくれってわけです。

西園寺は日露戦争後の恐慌時に「こんな不況時になにゆうてまんねん」とこの要求を却下!

するとこれに怒った陸軍大将、上原勇作は単独で辞任してしまいます。

ここで困った西園寺。陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でなければならない、という規定があるんですが、陸軍省からプイッとされたがために大臣が決まらない。

結局、辞めた陸軍大臣の後任が決まらないっていう前代未聞の理由であえなく第二次西園寺内閣は瓦解。大臣が一人でも欠けると内閣は機能しませんからね。

次に出てくるのが第三次桂太郎内閣。

桂太郎は「山県有朋系」だから「超然主義」でしたよね。
議会無視でなんでもパッパと断行してしまう。

ここで「閥像打破」「憲政擁護」をスローガンにした「第一次護憲運動」が起るんです。
こうして政党政治家だけでなく民衆までも政治的な動きが活発となり政党の力がいっそう伸びていきます。

運動の中心人物は立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅。

この2名は大正、昭和を生きた政治家として非常に有名ですよね。
両名は「憲政の神様」と言われていました。

民衆の拡大する運動は次第に過激化し、政府系の国民新聞社を襲撃したり、国会を取り囲んだりします。そんな中、衆議院議長が「このままだと内乱が起る」と言って桂太郎に退陣を勧告。

第三次桂内閣は四面楚歌となり、組閣からわずか50日余りで退陣を余儀なくされます。そしてほどなく死去、その生涯を終えられました。
この護憲運動により桂内閣が倒された事件を「大正政変」(1913 年)と言います。

桂内閣の次は海軍出身の山本権兵衛内閣ですが、さすがに激化する護憲運動の要求を受け入れざるを得ず、陸軍海軍の大臣を現役の軍人でなくてもつけるようにしたり、高級官僚に政党員でなくてもつけるようにしました。

山本権兵衛は薩摩の人間ですが、穏健派なので立憲政友会を与党として、薩長閥族にとって都合の悪い政策をどんどん実行していきます。
当然、そういったやり方に反発し、山本を潰したいと思っている勢力もあるわけです。

・・・・・・・・・・そこで、起ったが1914年の「ジーメンス事件」
まあ言ってみたら汚職事件です。つまり「潰したい」側が「リーク」してばらすっていういつの時代にもよくあるパターンですな。

これはドイツのジーメンス社による日本海軍高官への軍艦や武器輸出をめぐっての贈賄事件です。

ここで海軍出身の山本権兵衛は総辞職するしかなかった。
つぎの内閣をさあどうするか。

困ったのは元老たち。藩閥族だとまた護憲運動が再燃するのは心配だし、政党におもねるのは都合が悪い。だって元老も閥族なんだから。

そこでぅ肉の策として決まったのは、政界から退いていたけれど、国民的人気の高かった大隈重信です。
大隈は1881年の明治十四年の政変で罷免された後、健全なる野党とジャーナリズムを育成しなければ日本はダメになる、という持論に基づいて「東京専門学校」(のちの早稲田大学)を創立していました。

1914年4月、第二次大隈重信内閣が発足します。

続いては第一次世界大戦への流れへ・・
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はい、今度こそ明治時代の最後でございます。
最後は「韓国併合」で締めくくりたいと思います。

明治時代は1868年から1912年
明治維新にはじまり「富国強兵」の時代であったと言えます。

韓国併合は歴史年号の暗記では1910年になっていますが、1910年は「韓国併合条約」の年、つまり日本の領土にしちゃった年ですね。

韓国併合に行くまでの流れをおさらいしましょう。

まずは「日清戦争」は朝鮮半島での主導権をめぐって衝突した戦争でしたよね。

そして日露戦争<1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日>では朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立でしたよね。

どちらも優位のうちに終わったということで
日露戦争は日本も「列強」とみなされる、ある意味デビュー戦だったわけです。

その後、日本は積極的に韓国の支配・経営に乗り出します。

ちなみに、朝鮮は日清戦争以前は「清」が宗主国、つまり「親分」でしたよね。
でも「清」が衰えてからは「清」の属国ではもはやない!ということで「大韓帝国」と名前を変えていたんですが、実質的には「親分」を「ロシア」に変えていただけだったんですね。

日露戦争のときだって韓国は中立宣言をしていたんですが、戦前からロシア軍は駐在してたのですから、
ロシア側についていたに等しかったんです。

でも日露戦争後は日本は朝鮮半島からロシアを排除します。

日露戦争は1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日ですが、戦中の1904年に「第一次日韓協約」を締結し、韓国政府内に日本政府が選んだ財政、外交顧問を置きます。

そして1905年の「第二次日韓協約」で韓国を「保護国化」します。

「保護国」というと聞こえはいいですが、「外国権の剥奪」です。

つまり「朝鮮は今度は日本の属国になったんだよ」っていうこと。

てなことで、その韓国の外交権を統率する「総監府」を漢城(今のソウル)に設置し初代総監は「伊藤博文」が就任しました。

そんな日本をアメリカやイギリスはどう見てたの?アジア人の横暴って見なかったの?というと「日本よりもロシアの勢力が南下する方が嫌やし阻止したい」という思惑からどちらかと言うと協力的な立場やったんですね。

このような日本の進出に1907年、韓国の皇帝 高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議で韓国の外交権の回復を訴えます。

しかし、アメリカやイギリスの列強は日本をバックアップしていたため、相手にされず、それどころか激怒した伊藤博文に高宗は退位、息子の純宗に譲位させられました。

さらに1907年の第三次日韓協約では韓国総監の権限が強化され、韓国はない政権まで日本に握られることになりました。そして韓国の軍隊も解散させられてしまいました。

こうした露骨な植民地支配に対し、韓国内では「義兵運動」と呼ばれる抵抗運動が各地で起ります。

そうした中、1909年 伊藤博文は韓国の排日運動家 安思根に暗殺されてしまいます。

(韓国の完全な植民地化の最大の反対者が伊藤博文だったのに、殺されてしまったがためにかえって植民地化が実現されてしまったと書いている本もありますが、真相はどうでしょう)

こうして1910年(明治43)8月、韓国併合条約、つまり韓国の植民地化がなされてしまいます。
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そして京城(今のソウル、先の「漢城」から改称)に韓国の統治機関として「韓国総督府」が設置され、初代総督に「寺内正毅」が就任します。

また明治は「不平等条約」をなんとか解消するという時代でもあったんですね。
思い出してください。

岩倉使節団ももともと不平等条約を正すために1871年(明治4年)に派遣されたのに、
国力の違いに結局たんなる欧米視察になっちゃったんですよね。

そして韓国併合の次の年の1911年(明治44)、日本は小村寿太郎外務大臣のもと、日米商航海条約を結び、
やっとこさ半世紀かかって不平等条約を正したんです。

でも逆に言うと明治の半世紀の間に同列の国力の国に追いついたと見てもいいかもしれないですね。
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日露戦争②

北清事変の結果、またロシアのやられてもーた!031.gif

日本ではロシアに対する反感がどんどん高まっていきます。013.gif

このロシアに対する反感に対して日本では2つの動きが起ります。

・日英同盟論
・日露協商論


日英同盟論とは、イギリスと同盟を結んでロシアと対決していこう、というもの。
これを主張していたのは軍部を掌握していた山県有朋、桂太郎ら。
ロシアとの全面対決(結局日露戦争に進むわけですが)を示唆してしますね。

一方日露協調論は、簡単に言えば「満韓交換論」
満州の権益はロシアにやるかわりに、韓国における日本の権益をロシアに認めさせるというもの。
これを主張していたのは伊藤博文や井上馨

結果はパワーバランスによって決まります。1901年桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって1902年、日英同盟が締結され日露戦争に突入することになります。

よく教科書などで「開戦論」「非戦論」があったとされていますが、実は国民のほとんどが「開戦論」で「非戦論」はほとんどいませんでした。

なぜならこれは「侵略のための戦争」ではなく、「ロシアの目に余る侵略行為」に対する戦争ととらえられていたからです。

「非戦論」を唱えていたのは幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の社会主義者やキリスト教的考えを持つ内村鑑三くらい。

さあて、日露戦争が始まってしまいます。
1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日

この戦争で有名なのが日本海海戦。
ロシアのバルチック艦隊はイギリスの嫌がらせに消耗しながらも無事故で日本海にたどり着く。

東郷平八郎の率いる連合艦隊は、秋山真之(あきやまさねゆき)(⇒江川達也の「日露戦争物語」の主人公)の活躍によって完勝。秋山真之は正岡子規と幼なじみだったことでも有名ですよね。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』もこの2名を題材にしていますよね。

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日本圧勝!バルチック艦隊陥落!のイメージの強い日露戦争ですが、ロシアは白旗をかかげたわけではありませんでした。日本画軍事的勝利っていっても、致命的で国を揺るがすほどでもなかったので、長期戦も予想されたんです。

でも、ここで救われた、というかラッキーだったのは日本。005.gif

ロシアはロシアでお国の事情を抱えていたんです。
1905年、血の日曜日事件にはじまる「第一次ロシア革命」が起り、ロマノフ王朝そのものが危機に瀕する状態だったんですから。

そこで、セオドア・ローズベルト大統領が仲介に入り、日本の小村寿太郎とロシアのヴィッテの間で「ポーツマス条約が結ばれます。

ですがここでも誤解している人があるかもしれないですが、「ポーツマス条約」は決して日本の軍事的勝利に対する講和ではないんですね。

日清戦争の場合は、日本の軍事的勝利に対する講和でした。
ですが、「双方とも戦争の続行が不可能な状態になった」ということに対する講和なので、「痛み分け」といったところです。

ただし、講和条約では旅順・大連の租借権をロシアから奪い、ロシアのモノであったのちの南満州鉄道(満鉄)の権益も手に入れ、樺太の南半分の領有権も得ます。監督に対する監督権も取ります。

軍事的に「勝利」を公認されたわけでないのに、これだけの条件を引き出したのはすごいことなんですよ。

ところが、当時の日本国民は「日露戦争は日本の大勝利」と思っていますから、
「なんで賠償金がとれへんねん!」と反発が起ります。


「引き分け」という「講和」だったんだから、当然といえば当然なのですが、「血を流したのに一銭も取れないのか!」と日比谷公園で決起集会を行っていた民衆の一部が暴徒化し、内務大臣官邸や新聞社や交番などを襲って火を放つまでの事態に。(日比谷焼打ち事件)

じっさい、賠償金が取れないことは日本にとって痛手でした。
1907年(明治40年)に戦後恐慌が起ります。(明治40年恐慌ともいいます)

莫大なお金を戦争で使いながら賠償金が採れなかったんだから。

次は「韓国併合」(1910)の流れに行きます。
お疲れ様でした。(わたし^^;)061.gif
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明治時代⑤-1 日露戦争①

いよいよ日露戦争に入って行きたいと思います。

さて日清戦争の講和条約として結ばれたのが「下関条約」でしたよね。
伊藤博文内閣総理大臣、陸奥宗光外務大臣と清の李鴻章のあいだで結ばれた条約で、以下のような内容でした。
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ところがこの中の「遼東半島の権利」についていち早く異を唱えたのはロシア。
当時、南下政策を進めていたロシアにとって遼東半島は自分たちが領有を計画していた場所だったんです。

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そこでロシアはドイツとフランスを抱き込んで、日本に圧力をかけてきました。
これが「三国干渉」ですね。

三国干渉にはイギリスは入ってないんやけど、日清戦争に先立ってイギリスはなぜ日本を支援する側に立ってたのか。それはロシアの南進をイギリスは阻止したかったんですよね。
だってイギリスの植民地がおびやかされる脅威があるから。

ロシアはなんで南下政策をとっていたのか。それはロシアってめちゃくちゃ寒いやんね。
だから海まで凍ってしまうわけで「不凍港」(一年中凍らない港)がほしかったんです。当時飛行機がなかったので。船が最強の輸送手段だったので国力的に後れをとっていた。この劣勢を盛り返すためにロシアはなんとしても「不凍港」がほしかったんですよね。

「三国干渉」の具体的な内容は「3000万両と引き換えに遼東半島は清に返還しろ」というもの。日本もさすがに列強三国に迫られれば、要求をのまざるをえず、遼東半島を清に返還します。この悔しさを「臥薪嘗胆」という言葉で表現されたのは有名やんね。

結局遼東半島は返還させられた上、その遼東半島はロシアが租借、つまり実質的に「期限付き占領」を行うわけです。グググググくやしーーー

とは言いながらも、日本は賠償金はもらってるわけです。その賠償金により日本資本主義の象徴である八幡製鉄所もこの資金で設立しました。

一方朝鮮半島の情勢です。


清から一見「独立」したように見えたんですが、実質は「親分」を「清」から「ロシア」に乗り換えたような格好です。ロシアはいよいよ南下政策を本格化させます!

そんな情勢の中「閔妃暗殺事件」が1895年に起ります。
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朝鮮王妃 閔妃が親露的になってきた、ということに対し、駐韓 公使であった三浦梧楼(みうらごろう)が指示して暗殺した、というもの。

しかし、この暗殺事件をきっかけに朝鮮は余計にロシアへの接近を強め、「大韓帝国」(韓国)を宣言。李王朝には変わらないんだけど、清からの独立、そしてロシアを親分にする、という意志表示を明らかにしたものでした。

一方清は日清戦争の敗北により列強の草刈り場と化し、特に満州進出をうかがうロシアは清に急接近。1896年に「露清密約」を結んでいます。
これはロシアに満州の権益を与える代わりに、日本が侵略してきたときは盾になってね、というもの。

その一環としてロシアに旅順、大連を租借させます。

このように中国の国土が次々と租借されていく現状に「扶清滅洋」、すなわり西洋の排撃と清国の独立を掲げる暴動が頻発。

特に「義和団」という宗教をバックにした「義和団の乱」が最も激しく起ります。
彼らは「義和団」という拳法を身につければ弾丸にあたっても死ななくなる、という信仰を抱いていたので捨て身で激しい暴動を起こすわけですね。
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その義和団の乱に押されるようにいて起るのが「北清事変」です。本来、暴動を鎮圧すべき清政府なのに、これらに同調して諸外国に対して宣戦布告をしちゃうわけです。

義和団は民衆の反乱ですが、それに押された「清政府」VS「連合国軍」(日英米仏露独墺伊)

連合国は8か国あるわけですが、もっとも活躍したのは地理的に一番近い日本。ついでロシア

事変終結後に「北京議定書」が結ばれ、日本は治安維持のため「駐屯軍」を配置することになります。

でも、ここでも日本のロシアへの不満の種が。

満州駐兵権(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになっちゃったんですね。
もっとも活躍したのは日本なのに!という不満。

そしてこの事態をイギリスも警戒することとなり、これが日英同盟が結ばれる素地となっていくわけです。
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さあて、ようやく日清戦争の説明です。

日清戦争の説明に入る前に時代は戻りますが、西郷隆盛らによる征韓論のあと、
1875年(明治8)に「江華島事件」が発生します。
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今の韓国の仁川(インニョン)の近くに江華島という島があります。
ここに日本軍艦の「雲楊(うんよう)」が威嚇行為をしたのが始まり。
その挑発に対して朝鮮側が発砲してきたので、それを口実に無理やり開国させたのが
「日朝修好条規」。そう、開国ってのは朝鮮もきほんは鎖国路線をとってたんやんね。

(※ちなみに朝鮮通信使は例外的な行事です)

あとは無関税特権。よく「日米通商修好条約は関税自主権がないから不平等条約だ」とか小学校で習うんですが、自主権どころか「無関税」、日本からの輸出品にはいっさい関税をかけない、とか日本が領事裁判権を持たないとか、日本側に都合がいいことばかりにの不平等条約だったのです。

日本も不平等条約を結ばされて怒ってたのに、朝鮮に対して同じことをやっておったわけですな。

当時の朝鮮は李氏朝鮮といいますが、清の属国のような状態でした
清が宗主国、つまり親分やったわけです。

そんな中、李氏朝鮮内部ではこんな考え方も生まれてきます。

「最近、日本が伸びてきてるみたいや。ほんで、清は欧米によって上海や広東に租借地とか設定されてるけど、日本はないらしいし、清より日本について行った方がええんちゃうか」・・・と。

そして朝鮮内部に親日派の「閔妃」、親清派の「大院君」の対立関係がうまれてきます。
「大院君」は国王、「高宗」の「父親」、「閔妃」は国王の「妃」です。

1882年、大院君(親清派)の一派が反乱をお越し、閔妃(親日派)側の政治家や政治顧問をしていた人を襲撃、日本公使館を焼き討ちしたりします。
これを「壬午事変」と言います。

焼き討ち自体は大したことがなかったんだけど、日本は高圧的態度に出て事後処理のため「済物浦(さいもっぽ)条約」を締結させ、高額の見舞金や損害賠償を要求します。

その結果、閔妃は親日派をやめてしまいました・・・。

そのあと、1884年に清仏戦争が起る。
まずフランスがベトナムに侵攻したとき、ベトナムは宗主国の親分である清に助けを求めるわけです。それがため清とフランスが戦争になるんだけれども、結果、清は敗北。

ベトナムはフランスの保護国になってしまいます。

このことが朝鮮国内に衝撃を与えるんですよね。

「自分たちと同じ立場のベトナムが清をしたっていたばかりに侵攻されてしまった。こんな親分の清についていっていいものか。やっぱ日本について行った方がいいんじゃないの」

こんな考えを持つ人が出てきます。それは「独立党」と呼ばれる人で「金玉均(きんぎょくきん)」を中心にクーデターを起こしました。これを「甲甲事変(こうしんじへん)」といいます。
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このとき、独立党は日本公使館の支援を受けるんですが、先の「親日派をやめた」「閔妃」は清に助けを求めます。

ここで日本と清の軍隊が朝鮮半島で対峙する格好になっちゃったんですよね。

でも清も日本もお互い戦争は避けたかった。
だって、清は清仏戦争のさなか、日本なんかと戦っていく余力はないし、日本も内閣制度がやっとできる頃で、外国と戦争なんかやってる場合じゃありません。

だから「天津条約」を結んで和解をすることになりました。

・・・・・・・・・・・ところがところが。
日本国内で日本の清や朝鮮に対する対応に批判が出てくるわけなんですね。

有名なのが福沢諭吉の「脱亜論」

私の高校の先生も福沢諭吉は立派な人物だけれど、この脱亜論はちょっとなあ、と言っていたのが思い起こされます。

脱亜論と言うのは日本がアジアから脱して西欧列強の仲間入りをするべき、清に妥協なんかすんな、日本は西欧並みに強いんだぞー(脱亜入欧)というもんでした。

その後、朝鮮では日本に対する反発が強まって、日本に対する米や大豆のなどの穀類の輸出を禁止するんですね。(防穀令)

それに対して日本は激怒。防穀令を廃止して損害賠償までもぎ取ります。

1894年、そうした状況下で勃発したのが「東学党の乱」です。
農民たちが減税と排日を旗印にした乱なんですが。朝鮮独自の宗教の「東学」の信奉者が関与していたのでこの乱の名が付きました。

この「東学党の乱」を鎮圧するため朝鮮政府は清に助けを求め、これに応じて清は兵を送り込むんですね。それに対抗するかたちで日本も朝鮮に兵を出して、農民の反乱は鎮圧されます。

・・が日清両軍はその後も朝鮮に駐留し続けて、さらに朝鮮内政への介入をめぐって対立を激化させてゆきます。つまるところ、「日清戦争」は朝鮮半島での主導権をめぐって衝突した戦争なんやね。

同年、「日英通商航海条約」を締結。列強の一角を味方につけたところで、日本は清に宣戦布告し
日清戦争がはじまるわけです。
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日清戦争は1894年8月から翌3月まで繰り広げられましたが、近代化が遅れた清軍に対し、海軍で勝利した日本側が最終的に優勢のうちに終結。

そして講和条約として結ばれたのが「下関条約」ですね。
思い出したかな。

で、国際的に見た視点。
日清戦争をきっかけに列強の侵略の手が一斉に「清」に向かうのです。

だってそれまで「眠れる獅子」、つまり広大な土地と中華思想のもと2,000年にわたってアジアの国を無条件にしたがえてきた大国が、日本みたいな小国(と思われていた)に負けちゃうんですよ。

この1890年代から列強の本格的な「中国分割」がはじまってゆくのです。

ちなみに「台湾」はこの下関条約の結果、日本の植民地になります。
台湾の日本統治時代というのは台湾が清朝(当時の中国)から日本に割譲された1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された1945年(昭和20年)10月25日までの間です。半世紀ものあいだ、植民地であったということやね。

・・・いったん日清戦争のはなし、おわり。011.gif
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