ついに1931年、中国東北部で満州事変が勃発してしまいます・・。

きっかけは「柳条湖事件
南満州鉄道の爆破事件が起こり、これは日本の関東軍の仕業あったんですが、これを中国軍のやったことにし、これを口実に軍事行動を起こしてついには奉天・長春を占拠。
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自作自演の暴挙やけど、反日が高まっていた中国を制圧する、よい契機ぢゃ、という世論も少なからずあったみたいやね。

日本政府は事変の不拡大方針を決めていたんやけれど、関東軍はこれに従わず、満州全土を制圧し、清朝最後の皇帝「溥儀(ふぎ)」を廃帝し、溥儀を執政とする
「満州国」を建国するわけどす。
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溥儀は「ラストエンペラー」の映画のモデル。
というか、溥儀の自伝が原作になっているね。
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この溥儀という人は、2つの帝国(清国・満州国)でエンペラーになったのは、この人をおいて他にいなかったらしい。1987年の古い映画だけど、また見て見たいなあ。

この満州国、いちお溥儀をエンペラーとするけれど、実質日本の「あやつり人形国家」という意味で「日本の傀儡国家」(かいらい国家)の樹立とも言えます。

満州事変の背景を見て行こうか!
この満州事変の当時関東軍の参謀であった「石橋莞爾」が「世界最終戦論」っていう本を書いています。第二次世界大戦を予測していたかどうかはわからないんやけれど、とにかく最終的に世界的な大戦争が起こるだろうと予測していました。
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欧州陣営とアジア陣営の二つの陣営ができて、「欧州陣営」は「アメリカ」が覇者となり、「アジア陣営」では「日本」が覇者になると。
そのうえで「欧州陣営」と「アジア陣営」が最終戦争をやって世界の覇者が決まっていく、というのが「世界最終戦論」です。

中国分割は1890年代後半ですが、アメリカが出遅れた理由はハワイ併合やフィリピンの領有に奔走していたからなんですよね。

そこで、1899年、アメリカの国務長官「ジョン・ヘイ」が「門戸開放・機会均等」を訴えるわけです。(思い出してね)

つまり「アメリカも中国分割に参加させろよ」ってことを言いだすわけ。

アメリカとしてはさほど満州を重要視していなかったわけなんですが、関東軍としてはアメリカが割り込んできたら大変やから、しきりに「満蒙の危機」(まんもうのきき)と叫ぶ、満州の権益を死守しようという思いもあって、「満州事変」を起こしたのかもしれません。

すでに述べた通り、若槻内閣は、不拡大方針を発表し、軍部の独走を抑えようとするんですが、危機をあおることで国民の支持を得た軍部は、内閣を無視して戦況を拡大していったわけです。

1931年には軍部のクーデター3月事件(浜口内閣)に続き、10月事件(若槻内閣)が起こり、結局クーデターは失敗で軍部政権はこのタイミングでは樹立しなかったんですが、若槻内閣も総辞職します。

その次の内閣はだーれだ、お楽しみに・・011.gif
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張作霖爆殺事件で田中義一首相が退陣した後は、
政権与党が交代。立憲民政党の
濱口雄幸内閣が誕生します。
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浜口は大蔵省の出身で経済畑の大臣。
1920年代というのは、20年(第一次世界大戦後の戦後恐慌)、23年(震災恐慌)、27年(取り付け騒ぎが起こった金融恐慌)とほぼ3年おきに恐慌がおこっていた時代。

高橋是清の政策によって金融恐慌はなんとか脱したものの、不景気には変わりありません。
そこで経済畑の浜口雄幸が行ったのは、金融財政・経済合理化に加え、「金本位制度の復活」でした。

日本は1897年、日清戦争の直後に金本位制になったんですが、第一次世界大戦後の混乱でヨーロッパ諸国はみーんな金本位制を辞めちゃったんですね。それにならって日本もやめたワケ。

でも日本って通貨に信頼をもってもらって、為替も安定させて日本のモノをバンバン外国に売り込んでいきたい、・・・そう思ったわけやね。

しかし、結果的に円高になってモノがうれなくなったうえに、さらに金本位制にして世界経済とつながったがために「世界恐慌」にもリンクしちゃい、こうして

1930年に「昭和恐慌」が発生してしまいました・・・

しかもこの年、お米が大豊作になって、米価が著しく下落。
消費者はお米が安くなってウレシイと思うかもしれんけど、生産農家は収入が減って大打撃。

また世界恐慌でアメリカに対する生糸の輸出量が激減。
農家の多くではお米だけでなくお蚕を飼ってたんですよね。
しかもこの頃欧米では「人絹」(いわゆる化学繊維)の製造がはじまり、ますます高価な絹は売れなくなります。

幾重にも悪い条件が重なり「農業恐慌」となり、地方では栄養失調の子供が続出、娘の身売りまで行われるようになりました。

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1930年に「昭和恐慌」が起こり、会社が次々潰れていくので、それを防止するため
「カルテルの結成」を助長するような法律、重要産業統制法1931年(昭和6年)が制定されます。

要するに、重要な産業が潰れるとこまるから大企業と合併しなさい、というのが主旨。
結果、政府にとって重要な産業を「四大財閥」が独占するようになるんですね。
そう、三井・三菱・住友・安田

2つの恐慌によって日本経済は財閥が独占するようになり、このあと日本の政治は軍部が独占するようになるのです。

日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、
「もっとも儲かる商売」に手を出します。

・・・それが「戦争」です。

日本がファシズムにいたる要因がここでひとつ完成するわけです。

外交の方なんですが、1930年(昭和5年)に「ロンドン海軍軍縮会議」が行われ、浜口内閣の外務大臣、幣原喜重郎が参加。

幣原喜重郎っていったら1921のワシントン会議でボコられた人ですね。

協調路線の浜口内閣は海軍の反対を押し切り、調印するんですが海軍や右翼勢力は反発するわけです。

浜口内閣はなんとか条約の批准にこぎつけたけれど、東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負うんですね。原内閣が暗殺されたのと同じ構図です。

さらにこの時期、「金解禁で不景気になった責任取れやーー」と「軍部政権」樹立をもくろむクーデターまで起こってしまいます。(3月事件)(1931年(昭和6年)年3月)

こうして浜口内閣は退陣し、与党は立憲民政党のまま、若槻礼次郎内閣が就任します。(第二次若槻内閣)
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さてさて、なんとか金融恐慌を高橋是清大蔵大臣の力で収束させた
田中義一首相

田中首相はもともと陸軍の出身で、このときは立憲政友会の総裁です。
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若槻内閣の頃(⇒昭和最初の首相。金融恐慌の責任をとって辞職)の外務大臣は幣原喜重郎(ワシントン会議でボコられ、第一次世界大戦で得た権益を吐き出されるとともに軍縮を求められた)ですが、ワシントン体制を受け入れたことでもわかるように協調外交路線をとっていました。

でも実は枢密院は不満であり、外相も兼務する田中義一は中国に対して強硬な政策を推進します。

その頃中国では反日派の蒋介石が率いる国民政府(南京)が支持を集め、全土統一を目指していましたが、各地には「軍閥」と呼ばれる人が割拠していて、日本でいう
「戦国大名」が天下一を目指す「戦国時代」みたいになっていたわけです。

日本が関心を示していた満州は親日派の軍閥・張作霖が支配していました。

当時は旅順・大連の租借権は日本にありましたし、長春より南側の南満州鉄道(満鉄)の権益も日本にあったので、張作霖としてもここで日本と組むことによってお互いの権益を拡張していった方が得策、と考えるわけです。

一方、反日をとなえる蒋介石は、親日派の張作霖が支配している華北や満州に
「国民革命軍」を派遣します。これが「北伐」というやつで、もちろん日本にとっても非常に邪魔な存在です。

そこで田中義一首相は外交官や軍人を集めて、対中国政策を検討する東方会議を開き、中国における権益は武力行使してでも守る、という姿勢を示し・・・・・・・

「蒋介石の北伐を食い止める」名のもと、「山東出兵」を行います。

ところがところが、南京の蒋介石だけでなく、北京や上海の勢力などが北伐に合流してきたため、張作霖は押され気味になってしまいます。

ここで関東軍(関東州[旅順・大連]と満州に駐留した日本の舞台)の参謀の河本大作は
「このままだと張作霖が蒋介石の側に寝返ってしまうのではないか」と気になり始めます。

それくらいなら、張作霖を守るより、むしろ抹殺して自分たちで直接満州を支配したほうがいいんじゃないか、と考えるわけです。

そこで行われたのが1928年6月の張作霖爆殺事件です。
張作霖が乗っていた列車を奉天で爆破し殺害したのです。
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・・・・・・・・・・・・!!!!!む・ごすぎる。

ところが人ひとりを殺すのは簡単かもしれないですが、満州を支配するのは、そう簡単ではありません。結局張作霖は殺したのだけれど、満州支配は失敗します。

それだけでなく、張作霖の子、張学良が日本を信用していた父親が殺される、ということで、蒋介石と手を組んでしまいます。その結果、国民政府による中国統一が達成されてしまいます。
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ところで満州を支配するために張作霖を殺したのは関東軍の「独断」でした。
それが「最悪」の結果におわってしまったわけです。
こうしてこの事件の処理をめぐって昭和天皇の信頼を失った田中義一首相は1929年7月、総理大臣を辞任します。

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たった15年でも激動の時代、大正。
大正天皇が死去し、引き続き激動の時代は昭和へと移ります。

昭和は昭和天皇の在位期間である
1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。
(覚え方 昭和に「行く風呂」平成に「行く約束」

昭和時代の最初の内閣総理大臣は誰ですか?という問いに意外と答えられない人が多いと思いますが、答えは「若槻礼次郎」です。彼は加藤高明内閣の死去により、その意思が引き継がれた内閣です。(憲政会)
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若槻内閣は昭和の時代になっても震災恐慌をひきづっており、深刻な経済問題に立たされていました。とくに「震災手形」の問題が未解決のままだったんです。

そんな中、とんでもない失言を大臣がしてしまうのです。
それが片岡直温(かたおかなおはる)
「本日、東京渡辺銀行が破たんしたが、まことに遺憾なことであります」

「・・・・・・・・!!?!!!!」

この銀行は一時支払いを中止していたけれど、破たんはしていなかったんですよ。
なのに、そんなことを言うから・・。そう「取り付け騒ぎ」で本当に倒産してしまったんですね。
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それだけではありません。取り付け騒ぎがほかの銀行まで波及し、つぶれるという最悪の事態を巻き起こしてしまったんです。これが昭和に入ってショッパナ起った「金融恐慌」です。

金融恐慌は全国に拡大し、特殊銀行(特定の政策のために設立された銀行)の台湾銀行までが休業に追いやられました。
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台湾で砂糖やバナナを扱っていた鈴木商店という第一世界大戦で巨額の融資をしていた、いわゆる成金の一種の会社があったんですが、その鈴木商店が金融恐慌によって倒産したので、台湾銀行は大打撃を受けます。

これに対して若槻内閣は日銀の特別貸し出しによって台湾銀行を救済しようと思ったんですが、これが枢密院(天皇の諮問機関)の反対を受けて廃案にされてしまいます。

こうして恐慌を抑えることができなかった若槻内閣は総辞職してしまいます。

昭和最初の内閣はあえなく総辞職。

次に就任したのは立憲政友会の田中義一内閣です。
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田中内閣は高橋是清を大蔵大臣に据えて恐慌対策に取り組み、緊急勅令によって、「モラトリアム(支払い猶予)」を実施しました。

でもモラトリアムっていっても、永久に預金者がお金を下せないのではなく3週間。
この3週間の間に日銀は各銀行に特別貸し出しをし、経営を改善させたんです。

ただ銀行に融資しても経営状態が悪くて潰れられたら元も子もないので、ここで銀行法を改正します。それは「資本金規制」などの改正。つまり中小の銀行を存在できないようにすれば、潰れなくなりますよね。

その結果、銀行は合併され、三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行に集約されました。
これによって、この後のファシズムにいたる道程で財閥による金融資本の独占が起ってくることになります。

ともあれ、高橋大蔵大臣のこうした政策によって、金融恐慌はひとまず収束に向かいました。

金融危機と収束は首相の違いというより大蔵大臣の違いかな。
しかしこれによって協調外交の若槻内閣から強硬外交の田中義一に内閣が交代しました・・。
アホ大臣のせいで内閣が総辞職しなくてはいけないことになる、っていうのは今も昔も一緒ですね・・。
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関東大震災と震災恐慌 、普通選挙法

ダルマさん内閣、居ぬき内閣こと高橋是清内閣。政友会の内紛により瓦解しちゃいます。
その後、内閣総理大臣になったのは「加藤友三郎」でした。

加藤友三郎とは幣原っちと一緒にワシントン会議で全権委任された人やったね。
でも「二人の加藤」っていうように、「加藤高明」とは別人やからね。注意してね。
東郷平八郎、山本権兵衛につづく「日本海軍の三祖」の一人である加藤友三郎は、とても聡明な人。「坂の上の雲」でも登場してきてるよ。

でも、この加藤友三郎内閣、現役のまま1923年8月に急死してしまい、その後、後任は「第二次山本権兵衛」内閣になります。

ところがところが、その矢先の1923年9月、文字通り激震が走ります。

関東大震災です。
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大規模な被害だったことは言うに及ばず。
これをきっかけに「震災恐慌」が起ります。
たとえば、震災によってみいんなが資産を失ってしまい、手形を現金化できなくなり、銀行の経営を圧迫し中小企業の倒産も相次ぎます。
この現金化できなくなった手形を「震災手形」といいます。

この恐慌から早く脱出しなくてはいけない、ということで行ったのが「支払い猶予」(モラトリアム)・・おや、どっかで聞いたことがある言葉!?

9月中にすぐに出されたのが「震災手形割引損失補償令」
これは、関東大震災の結果、不渡りになった手形を日銀が割り引いて買い取る、というものでした。

しかし、そーすると日銀が厳しい状況になりますよね。
結果として「恐慌」の回避にはならなかったわけです。

こんな感じで世情が混乱する中、1923年12月に東京虎ノ門で摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)が狙撃される、という事件が起こりました。

「虎ノ門事件」
お聞きになったことがあるのでは?
この責任を取って、山本権兵衛内閣は総辞職してしまいます。

その後を継いだのは1924年1月成立の「清浦奎吾内閣」です。
この人はマタ、貴族院と官僚の勢力をバックに政党から一人も入閣させない「超然内閣」を組織します。

ところが、これに対してやはり反発がでます。
憲政会(加藤高明)
立憲政友会(高橋是清)
革新倶楽部(犬養毅)

の三党は第二次護憲運動を展開し、内閣打倒を目指しました。

この三頭をまとめて護憲三派と言います。
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これに対抗して清浦内閣も解散総選挙に打って出ますが、大敗。
結果、第一次加藤高明内閣が発足します。

ところで、大正天皇が即位したとき、
元老は、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望の6人がいましたよね。

でも大正という短い期間に次々と亡くなり、1924年には西園寺公望1名になりました。

西園寺公望はもともと公家ですから、藩閥にとらわれることなく二大政党の党首が交互に総理大臣をつとめる、といういわゆる「憲政の常道」という慣例が始まります。

こういった動きは吉野作造を中心とした民主主義的改革を求める「大正デモクラシー」の影響もあるといえます。大正デモクラシーは世論の力も表面化させます。

こうした背景もあり、加藤高明内閣がまず手を付けたのが「普通選挙法」の制定でした。

これにより、資産に関係なく選挙に参加できるようになりました。
ただし、これは男性だけ。女性の参政権が認められたのは戦後になってからです。

それと見逃せないのが「治安維持法」の制定です。

日本はこの年、新しく建国したソヴィエト連邦と国交を樹立し、
「日ソ基本条約」を締結しましたが、これによって日本の社会主義、共産主義が拡大する懸念があります。

また普通選挙法の制定にともない「無産政党」から国会議員がでる可能性も考えられます。

つまり普通選挙法で一方で紐を緩めて、治安維持法という法律で取締りを厳しくした。

この治安維持法は、戦争へと驀進する政府によって都合よく利用されることになります。
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