つぎに組閣したのは平沼騏一郎(きいちろう)です。
この頃には、国内事業も対外的にも、米英とは対決モードに入っていました。
まず賃金統制令を出して、民間企業の初任給まで政府が統制するようになりました!
また国民を軍需産業に動員する「国民徴用令」も出します。
このように国家総動員法に基づいて着々と準備態勢を固めていきました。
この頃の世界情勢を見ますと、ソ連・満州国境の付近ではソ連との緊張状態が続いています。近衛内閣時代の1938年7月の張鼓峰事件(満州東南端で起ったソ連との国境紛争)、1939年5月のノモンハン事件(ソ連軍との大規模な軍事衝突事件)があり、
ノモンハン事件では日本軍は大敗を喫します。
そして平沼内閣にとっての最大の衝撃は
1939年の「独ソ不可侵条約」の締結でした。
これがある限り、ドイツはソ連を攻撃しないことになります。
「欧州の情勢は複雑怪奇」という名句を残して平沼総理大臣は辞任します。
■援蒋(えんしょう)ルート遮断から南進へ!
ところで、アメリカやイギリスをはじめとする列国にとっては、中国政府が共産党と連携していようがいまいが、どうでもいいことなんです。
問題は南京を占領されると、それまでの中国の租借利権を日本に奪われてしまうんじゃないか、懸念はほぼそこだけだったんですよね~。
蒋介石の国民政府でいてくれたんだったら中国の租借利権は保護されるワケだから、そこでアメリカやイギリスは蒋介石の援護の立場を取るんですよ。
その蒋介石援護の目的で行われたのが「援蒋ルート」です。
アメリカ、イギリス、オランダの3か国が主にベトナム経由で重慶にいる蒋介石に軍需物資の援助をするわけです。
南京を占領した日本は、蒋介石政府が白旗を上げて降参してくるのも時間の問題だよねーと思っていた。しかしだね、なかなか蒋介石君は降参してこない。
援蒋ルートの効果が大きかったってわけだ。
そこでその援蒋ルートを「遮断」しなければならない!!ってことで日本は南進をはじめることになります。その結果、日本はこれらの国々を敵に回すことになって「太平洋戦争」へとつながっていくわけなのであります!!
・・こんなの習ってたっけ・・?