先日、加藤諦三さんの「感情を出したほうが好かれる」という本が心に残ったのでレポート。
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「私がこんなにしてあげているのに」とか「どうして私だけがこんな辛い思い思いをするのだ」
と周囲の人に不満を感じている人がいる。

それは相手い尽くしていながらも、相手の「こころ」をとらえていないからである。

相手と正面からぶつかっていないからである。相手とこころのふれあいがない。だから、そこまで尽くしながらも、いざというときに助けてくれる人もいない。

「かたち」で生きた人は「かたち」を失うことを恐れる。
大きな家から小さな家に移ることを恐れる。その心配で不眠症にさえなる。
そこで「かたち」を維持するため死に物狂いの努力をする。無理に無理を重ねる。気の休まるところがない。いつも何かに追われている。

しかし、子供にとっては大きく立派な家で親がイライラしているよりも、小さな家で親がイライラしていない方がずっと快適な空間である。

また日本には自己犠牲の姿勢を崩さない人が多い。それほど不平をいうのなら自己犠牲をやめればいいと周囲の人は思う。しかし、自分を犠牲にする人はまず犠牲的役割を放棄しない。

暗い顔をして「私さえ我慢すれば」と言っている母親は日本に多い。しかし、その我慢こそ家族を不幸にしているのかもしれないことを母親は考えたことがないようである。もちろんその我慢が家族を救っていることもある。しかし、その我慢こそが家を崩壊させることもある。

「こどものためにこれだけのことをした」と言う親の多くは「かたち」である。
「こころ」がない。

社会においてもそうである。「こころ」を理解しないまま「かたち」を人に与え続ける人は、最終的に腐った肉にたかるハイエナのようなずるい人間ばかりを周囲に集めてしまうことがある。

「一生懸命」しているから、すべてがまずく回転しているのかもしれない。今自分が人のためと思っておりことは、実は人に何も本当の恩恵をもたらしていないのかもしれないという発想を持ってみることである。
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by hito2653 | 2014-08-31 22:18 | 読書
京都人が「しょうざん」と聞くと洛北のボーリング場とかレジャー施設を思い浮かべますが、
もともとの由来は創業者の「松山」さんを音読みして「しょうざん」というそうでして、

こちらもルーツは西陣、つまり着物の聖地にあるというのです。
京都西陣に生まれた故・松山政雄氏は、正絹と違い扱いが楽な「ウール着尺」で巨額の富をなし、
35,000坪の土地をこの鷹峯の地に買ったといいます。

今回、公開されている峰玉亭は、いわゆる迎賓館
VIPなお客様に京都でのおもてなしを喜んでもらうために作られたといいます。

一流の大工を呼び、大徳寺からの移築の建物もあるとか。
近世で民間の人が富を得たことでこのようなところがつくられるというのは、着物の聖地京都ならでは。
今は昔・・・かもしれませんが。

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外の景色が借景となっています。窓がないようですが、額縁のような大きな窓枠、ガラスがあります。
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樹齢500年の台松。
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今日は、京町家の老舗呉服店「富田屋(とんだや)」さんで町家と京のしきたりについて学びました。012.gif

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まず、町家にはなぜ坪庭があるのか。これは京町家は俗に言う「うなぎの寝床」のつくりなので、光と風をいれるために作ったものでもあるそうです。

多くの京町家には井戸があり、神さんがいて、嫁いだ奥さんは朝一番に井戸から水を汲み、ごはんを炊き、家の神さんにお供えしたとか。だから井戸というのはすごく神聖なものなのですね。ちなみにうちでも、朝、仏さんにお供えしていますが、水道水と炊飯器で炊いたご飯。昔の人はずいぶん大変だったんですね。

9月といえば「重陽の節句」のお話をいただきましたが、恥ずかしながらあまり知りませんでした。
重陽の節句は9月9日。

日本では偶数を嫌い、奇数をよしとする傾向がありますが、偶数が「陰」、奇数が「陽」にあたると。
その奇数の一番大きな9を2つ重ねて「重陽の節句」というのだそうです。

重陽の節句では「菊」でお祝いします。
「節句」というのは奇数の月で日がかさなる時を言いますが(3月3日とか5月5日とか7月7日とか)
奇数が重なると「陰」である偶数になってしまう。

したがって、重なることでおめでたいのだけれど、一方で邪気を払うということで様々な行事や風習ができたと言います。
また、昔は今みたいに楽しいことがたくさんない時代。季節感を感じることが生活の楽しみでもあったとか。
季節の節目でもありますからね。

例えば、11月は大きな火鉢でお火焚き(手紙など要らなくなったが捨てられないものを燃やす)の際、おさがりの「焼きミカン」「お火焚き饅頭」「柚子おこし」を頂くと子供は病気にならないのだとか。子供はそちらが目的で楽しみにしていたのですね。

重陽の節句では菊に綿帽子(着綿)をつけて、女性はそれで顔を拭くと美人さんになったとか。

下記は節句のまとめです。
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ところで、西陣で商いがさかんで昔、千両箱が飛び交ったことから「千両が辻」と言われたことがあったそうな。
今はご存知のとおり、キモノ産業はかなり厳しい業界になっている。
そんな時代もあったのだなあ。
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「ひとのため」と書いて「偽善」になることもある?
―溺れる犬を見たら棒で叩けの真意―

先日ある人から「溺れる犬を見たら棒で叩け」という諺が韓国にある。あの国はひどい国だ、と言われちょっとびっくりしたことがありました。

普通ことわざというのは先人が生きる知恵として道徳的なことを後世に伝えているものなのに、そんな言葉ってあるんかな、と思って調べてみたら、韓国ではなくて中国のようですね。

「打落水狗」
韓国ではなくて、中国の魯迅の言葉のようです。直訳かどうかはわかりませんが。

にしてもひどいなあ、と思っていたら納得できる解釈があったので載せておきます。
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直接引用させて頂くのは「生田一舟」さんという元銀行員の禅僧の方の文章。
(また機会があれば本も紹介させて頂きます。)

「人のためは偽善になる場合がある」

よく「人のために生きよう」などという言葉を聞くことがありますが。これは正しいようで十分ではなく、場合によっては間違いです。「人」の「為」と書くと偽善の「偽」ですね。

「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人に教えよ。(中略)
自分をととのえた人こそ、他人をととのえるであろう」
(ダンマバダ第12章 ブッダのことば)

このことから、自分で自分のことが十分できていないのに、人助けをすることは、精神的に歪であり「おごり」の一種であると考えられます。人は支え合うのが天理にかなう態度ですが、そのため自己犠牲がすぎると無理が生じます。

こういう状態で人を助けると、往々にして「助けてあげたのに」という恩着せの心理が、自分の心に計上され、「私っていい人でしょ」「だから私のいうことを聞いてよ」などといった気持ちが生じ、やっていることが本心と乖離するのです。

本当に人助けをするときの鉄則は、相手に負担を感じさせないようなさりげなさが必須です。人助けをするのが人のため、でなく自分のために思える状態、つまり自分のためですから内にも外にも跡を残さないのです。

また、それが本当に相手のためになるのか。
例えばお金に困っている人にお金を貸したりあげたりするのも、場合によっては薬物中毒者に薬をあげているのと同じで実はその人のためになっていないこともあるのです。


先ほどの「溺れる犬」に戻りますが、犬っていっても小型犬の可愛らしい犬から、大型犬まで様々ですよね。この溺れる犬というの大きな犬、それも狂犬のことを想定しているようです。

確かに狂犬を助けると自分まで水辺に引きこまれるか、助けても襲われることもあります。

「棒でたたけ」というのは意訳のようですが、ここでいうのは安易な気持ちで「助ける」ことで得られるのは良い結果ばかりではない、ということを表しています。

そう聞くと納得しますね。

「助ける」=善 ということ自体が実は疑わしい。

ついでに言いますと、

仏教の価値観は「無常」だから、ずーっと相手が自分にとって都合がいい人とは限らない。逆にずーっと敵だとも限らない。 だから、あいつは◎◎だから◎◎だ、と決め付けるのは、意味がないこと。
自分は◎◎だ、と勝手に絶望するのも意味がないこと。


「善」とか「悪」とか決め付けずにしなやかに生きることがネット社会の今だからこそ必要なのかもしれません。
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by hito2653 | 2014-08-03 21:59 | 雑感。