さて、藤原家の隆盛の基礎を作った人は・・

藤原良房の登場です!
嵯峨天皇の時代、薬子の変が起った・・その次の天皇は淳和天皇です!
(ちなみに、藤原薬子は藤原式家)

そして、その子が藤原良房。
この秘書親子、けっこうな発言力を持つんだよなーー。

ところが、政敵がいるわけです。淳和天皇のバックには昔からの貴族である「伴氏」と「橘氏」がひかえてるんですよね。橘氏は有名な三筆のひとり橘逸勢の系統です。
薬子の変の教訓から天皇じきじきの秘書のような役職「蔵人頭」(くろうどうのとう)という役職が設けられましたが、その初代が藤原北家の藤原冬嗣。その息子が藤原良房

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良房の野望、第一弾。
「承和の変」842はよ逃げて伴ちゃん橘ちゃん
「伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢は仁明天皇を下そうとしてますぜ」という噂を意図的に流す。これは陰謀でした。

さらに良房の野望は、自分の娘の子供、つまり孫を天皇に即位させる。この子が清和天皇なるのですが、そのときまだ9歳。
こどもは天皇になれない、という慣例を無視して強引に即位させてしまうんですね。

当然、今でいう小学校2,3年生に政務はとれないため、「摂政」を行うわけです。
しかし、これに対してはやはり、反対勢力がでてくる。
「摂政」とはもともと皇族しかできなかったのですから。
その反対勢力が源信(みなもとのまこと)と伴善男(とものよしお)です。

でも、じつは敵同士も実は仲が悪くて、敵同士が潰しあってくれたため、
敵がいなくなった。

良房にしたら、ラッキ――!
といっても「応天門の変」という大変な放火事件が原因でした。(866年 やろうむかつく応天門 )

伴善男が自ら応天門に火を放ち、その罪を源信に負わせようとした。
でも、犯人が伴善男だってことを藤原良房はわかっていたんですよね。そして源信は良房から恩を着せられる格好になります。

こうして、応天門の変の後、良房は正式に摂政に就任し、名実ともに政治的実権を掌握していくのです。

この応天門の変の様子は「伴大納言絵巻」にリアルに描写されています。

ところで。この応天門って、どこにあったのか。
色々調べると、(前の)出世稲荷神社のあたりにあったようですね。(現在の出世稲荷神社は大原に移転)

ちなみに平安神宮の応天門は平安京の応天門の縮小レプリカだとか。
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多くの反論があることを想定して書きます。

「愛国」「売国」「反日」という言葉がここ最近急速に目に飛び込んでくるようになりましたが、
「軽々しく、このような言葉は使うべきでない」と大いに疑問に思います。

「靖国」だ「慰安婦」だ、と騒ぎ立てる人がいますが、それは隣国が騒ぎ立てているだけのこと。自国が好きだというのとちょっと違う。単に駆逐し排斥したいだけ、という感じがします。

たとえば、「私は韓国料理が嫌い、中華料理が嫌い、だから日本料理が好き」っていうのはちょっと違うと思うんです。本当に日本料理が好きな人は、ただ日本料理の奥深さを知ればいいんです。


私は朝夕欠かさず、お仏壇のご先祖様に手を合わせていますが、それはご先祖様がいないと自分がいない、という感謝の気持ちもありますが、正直なところを言いますと、生活の中に溶け込んだ単なる習慣であるとも言えます。

両親や祖父母がやってきたことを、ただ真似しているだけです。亡くなった祖父母は日本や日本文化への造詣が非常に深かったのですが、「愛国」なんて言葉を口にしたことは一度もありませんでした。
そんなに軽々しく口にするべきでない、ということもあったかもしれません。

「靖国」を先祖への感謝の気持ちで拝む気持ちは大切だと思いますが、その前にご自身の生活の中に、どれほど身近な人や先祖への感謝の気持ちを示せているのでしょうか。

菩提寺の本山に行ったこともない、下手すれば宗派も知らない、氏神様がどこかも知らない、そんな人が「靖国だ」「日本の先祖礼賛」とか言っているのを滑稽に思います。

たとえ、それをきちんと行っている人でも、声高に主張し「してやったり」気分でやっていたのでは、傍目から見ると、自分が満足するだけか、隣国への当てこすりのように見えてしまいます。

以前、「正義ほど胡散臭い言葉はない」というブログを書きましたが、
胡散臭い新興宗教の特徴は決まって独善排他的です。

宗教自体が悪いわけではないんです。

ちなみに宗教のことを書くと、

日本にキリスト教が伝来したのは1549年。韓国に伝来したのはその200年以上 後。なのに、日本にはほとんど浸透せず、韓国ではキリスト教が仏教を越える信者数となっているのはなぜか。それは、多神教、仏教でも多宗派の日本で「一神教」は相いれなかったからだ、とされています。

逆に、多神教・多宗派の日本では宗教戦争は殆ど起っていない。「私も正しいかもしれないが、あなたも正しいかもしれない」という曖昧さを認める柔軟さと鷹揚さがあったからではないでしょうか。決めつけ、相手を排除する価値観は日本人らしくない、と言えるかもしれません。


「愛は地球を救う」とテレビでは言うが、仏教では愛は執着と苦しみ、争いの根源だと言います。


「愛」国は要らない。「慈悲」深い日本の国民性を大切にしたいと思います。
「愛」国だとか言いながら、日本人らしい人が減っているこの国の現状を憂います。
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by hito2653 | 2014-06-25 00:33 | 雑感。
「論理力」と「他者意識」の関係

道にゴミをポイと捨てる人がいます。
「けしからん」というのは普通の感想。
今回は「論理力の欠乏」がふっと頭をよぎりました。

なぜ、道にゴミと、論理力が重なるのか。
先日、「論理力」について書かれた分かりやすいHOW TO本を買いました。

著者は出口汪。昔から有名な現代文のカリスマ講師で多くの著書も出版されていて有名ですよね。
同人は「論理力とはズバリ『他者意識』」と喝破しています。

例えば、Aという話題をふったとき、明らかに相手がAの情報を必要としていないのに、Aの話をひたすらし続ける人を論理的と言えるでしょうか。

つまり、相手の欲していることを、相手の立場になって情報提供することが論理の基礎の基礎だといいます。

しかしながら、世の中は勉強ができる人のなかでそれが出来ない人がたくさんいます。
勉強などが出来てもそれが出来ていないと、「この人はあまり賢い人ではないな」もしくは「もうこの人とは話したくない」と思われてしまいます。
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「他者意識」を持っている人は、「いつも街にごみが落ちていないのは、誰のおかげだろう?」ということに気づくことができます。

「他者意識」を強く意識するだけで、特別な勉強をしなくても論理的で人にちょっとだけ尊敬される日々を送ることができるでしょう。
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by hito2653 | 2014-06-24 23:58 | 雑感。
「薬子の変」の平城天皇の次は「嵯峨天皇」

嵯峨天皇の時に「弘仁」格式、のちの清和天皇の時に「貞観格式」さらに「延喜格式」が編纂され、
法令の整備が勧められました。

また「検非違使(けびいし)」を設置して平安京内の治安維持や裁判を行うなど、安全な都作りが推進されました。

ちなみに京都府警のマスコットキャラは検非違使をモチーフにしていたり、葵祭の時も検非違使の仮装をした人がいますよー。
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この「嵯峨」「清和」の平安初期の文化を
「弘仁・貞観文化」といいます。

特徴としては、新しくもたらされた仏教、とくに密教がさかんになったことです。

平安時代の初期は、仏教勢力が強くなりすぎた奈良時代の反省もこめて、奈良の寺院の移築を禁止しました。

平城遷都のときは藤原京から有力寺院が移ってきましたが、これを固く禁じたわけです。

ただ、仏教は人々のあいだに深く浸透していましたから、仏教そのものを全面的に禁じるわけにはいきません。
むしろ、人心を政府批判の方に向けさせないためにも、為政者にとって宗教は必要だったわけです。

そこで朝廷は遣唐使とともに「最澄」など学問僧を中国に派遣し、新しい仏教学ばせました。

その結果、最澄は天台宗を、とき同じくして渡った空海は真言宗を持ち帰ります。
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平安初期の仏教は基本的に密教です。

密教の思想は基本的に加持祈祷ですが、大雑把に言えば秘密の呪文で奈良時代の仏教は取り扱わなかった分野です。

秘密の呪文を唱えれば「この世で幸せになれます」「もっと出世ができます」「お金持ちになれます」というわけで、
奈良時代の教理仏教から、現世利益を求める仏教に変貌していきます。


最澄がもたらした天台宗は比叡山延暦寺を本山とし、空海の真言宗は高野山の金剛峯寺を総本山とし、いずれも平安京の中に寺院を建てませんでした

ここもポイントで、平安初期の仏教は「政治と宗教の分離」が見られます。

ただし、空海は嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を賜り、高野山とともに布教の拠点にしました。

特に平安初期は、これまで力の弱かった和気氏が和気清麻呂の活躍によってにわかに力をもつようになったり、「家柄に関係なく頑張れば出世できる」時代でした。

そうしたことからも、現世利益の密教がもてはやされた要因の一因になったと言えるでしょう。

■神仏習合と仏教文化

新しい仏教のもうひとつの特徴は、山中に寺院を点てて、そこで修業をしたことでした。
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比叡山も高野山も、女人高野といわれた室生寺もそうですが、平地と違い山の地形に合わせてお堂や塔が配置されました。その密教が日本の古くからあった山岳信仰と結びついて「修験道」に発展していったのですね。
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また、奈良時代ごろから仏教は日本古来の神道とも融合していきます。
弘仁・貞観時代には、神社に隣接した神宮寺が建立されたり、寺の境内に鎮守様が祀られたり。

これを神仏習合と言い、この傾向は明治維新後の廃仏毀釈まで続きます。
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さて、平安京第二回目。

桓武天皇の次は平城天皇ですね。平城・・?平城京の平城・・?この秘密はあとにして

平城天皇は病気を理由にわずか3年で退位、809年には弟の嵯峨天皇が即位。

桓武、平城、嵯峨、と続くわけですね。


「薬子の変」
をきっかけに、藤原四家のうち藤原式家が没落し、代わりに北家が台頭。

「薬子の変」は小中の教科書には載っていませんが、高校の教科書には必ず載っていますね。049.gif


薬子は「パパがせっかく頑張って造営した長岡京をあっさりと捨てるだなんて!!」(`・ω・´)
もしかしたらこの後に起こる話の根本的な原因はこの辺にあったのかも知れません。

この平城天皇は皇太子のときから、長岡京遷都を主導したものの暗殺された「藤原種継」の娘薬子を寵愛していました。ところがこの藤原薬子、不行跡というか、身持ちが悪いいうか、とにかく醜聞がありまして、桓武天皇によって宮廷から追放されてしまいました。

醜聞とは・・・

桓武天皇の長男で皇太子であった安殿親王(あてしんのう)<のちの平城天皇>は藤原薬子の長女を妃として迎え入れます。

しかし長女はまだ幼い年齢だったので後見役として母親である藤原薬子も一緒に入内(天皇のお屋敷内に住むこと)します。

・・・が、ここでとんでもないことが起こります。

なんと安殿親王が妃である長女をそっちのけにして長女の母親で後見役として入内しただけの藤原薬子と愛し合うようになってしまたのです。( ̄□ ̄;)

何しとんねん…
って感じですね。(⌒_⌒;)

平城天皇がたったの3年でやめてしまったものだから、薬子にしてみればとうてい承服できない。( *`ω´)

そこでなんとかして平城上皇を再び天皇にしようとします。そのためには周りの協力を得なくてはいけない。

でも、なぜ?と聞かれた時に「だって、私や兄の藤原仲成も平常天皇に取り入ってもらって出世したいんだもん(´ε` )」なんて言っても誰もついていきませんよね。

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そこで「上皇を天皇に立てて、もう一度都を平城京に戻しましょう」と言い始めたのです。そうすれば。平城京に都を戻したいと思っていた人達が自分に味方してくれると思ったわけです。

ところが、810年といえば、平城京から長岡京に都が移ったのが784年ですから、すでに26年も経っているんですよ。それもまるで支持が得られません。(´・_・`)

それでも強引に奈良に宮殿を建造し始めたため、謀反として認定されてしまいます。

その結果、兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害を余儀なくされました。これが薬子の変です。

平城上皇は剃髪して出家。その後も奈良に住み続けたので「平城」と呼ばれたのでしょう。

ちなみに、「平城」天武とか聖武とか天皇の名称は死後に送られた諡号(しごう:高貴な人や高徳の人の死後におくる美称)です。
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平安京遷都!

久しぶりの歴史勉強ブログですが、今度は平安時代に飛びます。

「鳴くよ ウグイス 平安京」は小学生でも知っている語呂合わせですが、

「平安『京』」の「京」って何かわかりますか。

「東京」「京都」・・にも京がつきますよね。

一方で「宮」という言葉もある。「宮」は近江や飛鳥にもありましたが、
あくまで政治を行う政庁のこと。大極殿やその周りに設けられた役所の部分だけをさします。

いま公園化している奈良の平城宮跡がそれにあたります。

それに対し、「京」は一般の人々が暮らしていた町並みも含む都全体のことを指します。
お城と城下町といったらイメージしやすいですね。

平安京遷都となると、政治組織だけでなくそれに関わる人たちすべてが移転しますから、平安京遷都後はそれまで平城京があった広大な土地は急速にさびれていきます。(´ε` )

ですが、寺院は移転しなかった。それは平安京遷都の目的の中に、仏教勢力の台頭を廃したかったということもあるからです。( *`ω´)

奈良時代、聖武天皇が仏教勢力に頼りすぎたこと、そして道鏡のように自分自身が天皇になろうとする僧侶も現れたことはご存知のとおりです。

道鏡は称徳天皇に(孝謙上皇の重祚、女帝)に重用されていましたが、称徳天皇が重い病を患ってしまった。

道鏡は加持祈祷で治そうとするのですが、称徳天皇の病は重くなるばかり。(´・_・`)

後ろ盾がなくなることを恐れた道鏡は宇佐八幡宮(大分県)の託宣があったと言って、自分自身が天皇のなろうとしたわけです。
(宇佐八幡宮神託事件)

うーーん僧侶なのに、神様?と疑問に思うのですが、実はこの頃から「神仏習合」の信仰の形ができてきて、
この傾向は奈良時代から明治維新後の廃仏毀釈運動の頃まで続くんですよね・・。

と、脇道にそれました。

そのように「道鏡」が「われこそが天皇」というなか、朝廷は和気清麻呂という人物に命じてこの「信託」が本物かどうかを調べさせます。

そのとき、道鏡はコッソリ清麻呂に「本物といえばおまえを登用してやるよ」とそそのかしたと言われています。

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しかし清麻呂の報告は「そんな神託はございませんでした」というものでした。

これに怒った道鏡は、和気清麻呂を大隅(鹿児島県)に配流してしまいます。

そうこうしている間に、称徳天皇は病死してしまった・・。

後ろ盾がなくなった道鏡は、急速に勢力を失っていきました。

ちなみに・・和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から和気氏ゆかりの護王神社(御所のとなり)の狛犬は、猪、つまり狛猪なんですぜ。昔のお札にも猪が描かれています。

なお、護王神社は和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られたものが移転。
神護寺もすごーーーくいいお寺なのでぜひ足を伸ばしてください。

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平城京から平安京に・・とその前に、

784年に桓武天皇は山城の「長岡京」に都を移しました。

これを忘れたら、京都府長岡京市の人は怒るよ(笑)

でも、ご存知のとおり794年、10年後に平安京に都を移した。
ちなみに、長岡京も今の京都府なので、784年から1869年まで日本の首都(天皇が住まわれていた場所)は京都府内にあったことになります

なぜ、長岡京はたったの10年だったの?

これはなぜかと言うと、どんな時でも大きなことを起こすときは反対が起こるもので、平城京から都を移す際、
遷都を主導していた藤原種継が暗殺されてしまうわけなんですね。

藤原種継が暗殺されたとたん、新しい都へのモチベーションがトーンダウンしてしまう。そして、また平城京に戻るのでは、という空気が高まってきたのです。(´ε` )

そんな中、平安京遷都を強く提唱したのが、先ほどの宇佐八幡宮神託事件で配流されていたが復権した
和気清麻呂だったのです。

通常なら下手に何か言うと暗殺されてしまいかねない状況だったのですが、旧弊を断ち切るため立ち上がったのがこの人物だったわけですね。

和気氏は実はもともと高い位の貴族ではなかったのですが、道鏡に逆うことにしても、平安遷都にしても臆せず推進することで、有力貴族の一角に名を連ねることになったのです。
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今日は真夏並みの暑さで・・!
市役所を通り過ぎ、寺町通りをぶらり。
松彌さんの有名な金魚のお菓子。老舗がこんなに斬新でかわいいお菓子を作っているってすごいね。

松彌さんの前にはお店の看板犬の四国犬、りりしいお顔の大型わんこがお出迎え。
でも、かっこいいお顔と違ってキュルキュル鳴いて飼い主さんに甘えていたのが可愛かった。

たまらん暑さで、一保堂さんのお茶をテイクアウトして頂いたとさ。もちろん、おうちでは急須に入れて頂くのがいいんだけど、テイクアウトしてすぐに飲めるこの手軽さがいいね。
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