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天神さんの梅園に・・行くぞーー。
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・・・のつもりが16:00で終了・・・orz 
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くやしいから、梅園の外の梅をどあっぷで。下手な写真でごめんね。
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有名な門前のお店で粟餅を。
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おおー結構な量だね。美味しいね。早く食べなきゃいけないから、ここでしか買えへんのよ。
お茶があったかくておいしかったなあ。
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雨の上七軒を抜けていく。人はいない。京都で一番古い花街。室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店が建てられたのが「上七軒」の由来。
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桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めたと言います。
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もうひとつの目的はコレ。ミシュラン1つ星の御蕎麦屋さんで御蕎麦のアラカルトです。
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1598年に秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ5歳。
家康は、五大老の筆頭で最初は秀頼の後見人、という立場を取りますが、徐々に秀頼を無視して、伏見城で実権を握っていきました。

当然それに対する反発が起こります。
1600年の関ヶ原の戦いですね。実質的には石田三成と徳川家康の戦いです。

東軍は徳川家康、西軍は毛利輝元が中心となりますが、結局東軍の勝利に終わります。
西軍の石田三成や小西行長は処刑され、秀吉の息子の豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の60万石の1大名に落とされてしまいます。

その後、1603年に徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けて、江戸幕府を解説します。
そしてそれから2年後の1605年、家康は子供の秀忠に将軍職を譲ります。

これは、将軍は徳川家の世襲なんだ!ということの表明です。つまり、
「もはや戦国時代の慣習だった天下持ち回りはもう終わった」ということを示すのが目的です。

もちろん、家康が全く政権を取らなかったかというとそうではなく、「大御所」として背後から実権を握り続けています。

家康が来る前の江戸城は室町時代の中頃に太田道灌(おおたどうかん)が作ったものですが、そんなに大きな城ではありませんでした。

江戸城が大きくなっていくのは江戸時代になってから。それも段階的に大きくなっていきます。征夷大将軍になったあと、家康は全国の大名に対し、江戸城と江戸市街地の造成を命じます。
人夫を派遣させたり、お金を献上させたりするのです。それをお手伝い普請と言いますが、負担を強いられた大名の財政状態はどんどん苦しくなっていきます。

ここで家康の戦略の一端がうかがえます。
こうして有力大名の経済力を削いでいったという事情もあったと思われます。

そのようななかではありますが、
徳川幕府にとって前政権の豊臣家は、いつ逆襲されてもかぎらない、目の上のたんこぶ、目障りな存在です。

一大名に落としたとはいっても、豊臣秀頼の本拠地は摂津・河内・和泉、今の大阪府で居城は大阪城です。

当時の日本の商業の中心地は大阪でしたから、そのど真ん中に60万石の大名がいる、というのは家康にとってはこれをなんとかしたいわけですね。

そこで1614年、有名な方広寺鐘銘問題が怒る。

京都に豊臣秀吉が建立した方広寺というお寺があります。創建当時は東大寺の大仏に負けず劣らずの大仏がありましたが、1596年の近畿大震災で倒壊。
それを1614年に豊臣秀頼が再建するわけですね。
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そのときに鋳造された梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていた。
「家康を分断し、家康の首を取ることにより、国を安らかにし、豊臣を君主として楽しむ」
そういう呪いが込められている、といわゆる言いがかりを付けるわけです。

この「言いがかり」の入れ知恵をしたのは臨済宗大覚寺派の僧侶で家康の側近としても重用されたという金地院崇伝だと言われています。

それが単なる「言いがかり」であったことは今でも方広寺に金が存在していることで明らかですよね。そこに呪いがかかっていると思ったら、そうそうに潰してしまうはずですから。

そうやって豊臣方を挑発し、大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)を起こし、豊臣家を滅亡させました。

大坂城も外堀だけでなく、内堀まで埋めてしまいます。
豊臣家が滅んだのをきっかけにほかの大名たちへの統制も強めます。

まず出されたのが1615年の一国一城令と武家諸法度です。
武家諸法度は大名に対するもろもろの統制法令で、これも禅僧・金地院崇伝の起草によるものです。

武家諸法度は将軍が変わるたびに出されました。いわゆる将軍の所信表明演説です。
また、これも金地院崇伝の手になるものですが、公家に対する統制令「禁中並公家諸法度」も制定されました。
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1588年 秀吉は刀狩り令を出します。
これは、京都の方広寺の大仏鋳造に用いるという名目でしたが、実際は農民から武器を没収するのが目的でした。

全国を統一したあと、
1591年人掃令を出す。これは武士や農民が身分を移るのを禁じたものです。

秀吉晩年の時期は、いわゆる朝鮮出兵の時期。

日本を統一したあと、秀吉の目標は東アジアに行きました。
秀吉の政権にはどんどん土地を奪って家来たちに恩賞を与えないと維持できないというところがありました。

最初の出兵が1592年の文禄の役。この攻撃は紀州だったので、朝鮮側に準備の余裕がなく、漢城(今のソウル)から平壌(今のピョンヤン)を占領し、加藤清正軍に至っては朝鮮半島最北端のトマンガンあたりまで進軍していきます。
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しかし、時間が経つにつれ、李舜臣(りしゅんしん)の率いる水軍や民兵の活躍、さらに明からの援軍も加わって、戦況は豊臣軍の不利に転じていきます。そして、和平にもならず引き返すしかなかった・・。

諦めきれなかったのか、5年後の1597年、秀吉は二度目の出兵を試みます。
これが慶長の役ですが、今度は相手も十分用意をしていたので最初から苦戦を強いられ、最終的に秀吉が死んだことにより、撤退を余儀なくされます。
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ちなみに、京都市東山区の、豊国神社門前に「耳塚」という史跡がありますが、これは慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚とされていますね・・・

しかしながら、この朝鮮出兵が、豊臣政権の弱体化、そして朝鮮出兵をまぬがれた徳川家康が政権をとることになったひとつの契機になっていくのです。

なぜ徳川家康が朝鮮出兵をまぬがれたのか。
1590年、秀吉は北条氏を倒したと、関西仕置を設置し、その役に家康を命じました。
秀吉が三河の大名であった家康を関東に移したのは、できるだけ京都より遠ざけておきたかったから、といわれています。

やはり、京都から遠ざけたかったというのはそれだけ家康が有力な大名だったからなんですね。しかし、当時は重要な地方ではなくそんな場所に移すからにはそれ相応の見返りをしなくてはならない。

そこで秀吉は家康に250万石の領地を与えました。これは北条氏が所有していたものです。
家康が関西仕置に任じられて2年後に文禄の役がはじまります。

ここで家康は広大な関東の地を統括していかなければならない、という理由で朝鮮出兵を免除されているのです。

1598年に秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ5歳。
さて・・・ここから家康の天下取りの始まりです・・・(つづく)
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