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ぎりぎり一月ということで。

「主体性」という言葉は「7つの習慣」の漫画を読んで意識しようと思ったこと。
どうしても、人任せになったり、丸投げになったりしがちだから。

あと、自分のなかの「甘さ」
だらだらネットや(どき、、ドキドキ)ダラダラして何もしない、といった
「分かっちゃいるけどやめられない」というのも出来るだけやめていかないと・・・人生は短い。

要は「主体性」がないから流されてしまうんだよね。

あとは忘れてはいけないのは、コレ。
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松下幸之助や先般お亡くなりになられた船井総研の創業者船井幸雄氏も「素直なこころ」の大切さを言っておられます。

最近は、自分を変えたくて、先人たちの知恵が欲しくて色々な「言葉」を集めています。
でも、「言葉」におぼれてしまいそうなこともあります。

でも「主体性」をもって、色々と集めて消化し、気に入った言葉を実践出来たらなあと思っています。

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備忘録として集めてみました。

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「みっともないお金の使い方」川北義則 の中の名言集。

タイトルの「稼ぐに追いつく・・」は真面目に働いていたら貧乏に困ることがない、という意味だが、ワーキングプアが社会問題化される中、異論はあるかもしれない。

でも、まじめに働くことの意義を教えてくれる。この本の中に出てきた名言を集めてみました。

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ある社長がぽつりと一言。

「コンサルってよく『無駄の排除』『削減』っていうけれど、その会社にとって本当に『無駄』っていうのは何か分かってるのかねえ」と。

よく、経営計画などを立てる場合は、無駄の排除から議論される。
経費削減にまず「交際費」が標的に上がる。その他経費、そして「人件費」の削減・・・。

でも考えても見れば、「経費」削減が至上目的なら、「人件費」なんて言ってみればすべて、無駄な費用だ。

なんていうと極論、と言われるかもしれないが、「費用」というのは何かを生み出すために消費しているのであって、単に無駄を作るだけのために存在しているわけではない。

一番の「敵」にされやすい「交際費」だって、使うことによって人間関係が円滑になり、それがプラスの効用をもたらすことだってあるのだ。

では、経費をじゃんじゃん使えばいいのか?それは違う。

コンサルの小宮一慶氏がおっしゃっているのは、無駄の排除ではなく
「資源の最適配分」
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「人」「モノ」「カネ」限られた「資源」を最適に配分することが大切であって、
「交際費」そのものが悪いのではなく、限られた「カネ」という経営資源を有効に生かすには本当に「交際費」に配分するべきなのか、という発想。

これは「なるほどなあ」と思った。

経営の一番の敵は「視野狭窄」になること。
目先の経費削減や売上追求にとらわれるのではなく、全体を見渡さなくてはいけない。
そのためにも、自分の現在持つ「資源」とそれをどう「配分」するかを見なくてはいけない。

それは、日常生活においても言えるのではないか。
例えばプライベートにおいても「お金」と「時間」という資源がある。

例えば、昼寝をして「時間」を食ってしまい、しまった、と思っても、その代わりにストレスを発散し、また元気に仕事をして「お金」を稼いだのならば、それば決して「無駄な」時間ではないのかもしれない。

また、女性の話にするとワーキングマザーにおいても専業主婦にしても、誰でも「時間」や「お金」という資源の最適配分という発想は当てはまってくる。
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昼寝をした自分へのなぐさめだったり、「最適」に配分せずさぼりまくる「自分に甘い自分」への戒めであったりする。

ダラダラとネットをする時間、という「資源」も、有効な「配分」の仕方があるかも?!

一方で小宮氏は「他人」のために「時間」や「お金」を出し惜しみするより、惜しみなく提供できる人の方が長期的に見て「信頼」という目に見えない「資源」を得ている、とも書いています。

つまりケチはイカンということです。
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by hito2653 | 2014-01-27 22:02 | 雑感。
今年も先生宅で初釜でした。
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お炭点前も、お濃茶のお点前もヒドイもので・・。緊張と時間が空いて忘れてしまっていたこともあって・・。
がんばらねば、と思いました。
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長久堂さんの花びら餅。
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いつも・・・とてもおいしい京料理の点心です。
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もうすぐ節分ですね。神社では「福は内、鬼は外」と言いますが・・・・・・・・・
先日法話をお聞きした、法然院の貫主のお話では、

「仏道では、ほんらいは『福は内、鬼【も】内』なんです」とおっしゃっていました!!!

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そして、先日、和久傳さん(京都の一流料亭)の豆菓子を頂いたときに、缶に
「福は内、鬼も内」と書いてあったのでびっくりしました!(@_@)!!!

さすが、和久傳さん、センスが違うなぁと感服しました。(*^_^*)

なぜ「福は内、鬼『も』内」なのかというのは、以下のとおり。

長いですが、ご興味があったら読んでみてください。うまく説明できないので、文章は私のオリジナルではなくもちろん住職(法然院ではない)の言葉のコピペです。

■「縁起」で考える「鬼も内」
「縁起」
私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として「縁起」という言葉が用いられていることである。どうしてこのようになったのであろうか

仏道の基本の考え方は「無常」である。
そして「縁起」とは「因縁生起」の略。

川の流れのように無常の流れる世の中だが、いかなる存在も因(原因)と縁(条件)がととのうことによって存在している。仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。(無我・空の思想)

つまり、「良いこと」も「悪いこと」も私たちは「縁起」の中に「生かされている」

しかし、その「縁起」を自分の都合を願う言葉になっていているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人間の本質が見えてくる。

その意味においては「福も内、鬼も内」である。福も「私」であれば、鬼もまた「縁起」のなかに生かされている「私」なのである。
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by hito2653 | 2014-01-21 22:50 | 雑感。
織田信長 全国統一目前・・!

さて、大名のトップ、当時のナンバーワン大名は誰かというと、武将の数、軍事力、編成力、どれをとっても・・
武田氏に勝る大名はいません。004.gif

そこで、1575年、長篠の戦い(愛知県新城市長篠)で武田勝頼の騎馬隊と戦うことになります。
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当時、武田氏が強かった理由は騎馬隊にありました。馬で戦うには高いスキルが要求されますから、いい武将を集めないと騎馬隊では勝てません。013.gif

織田は騎馬隊能力では明らかに武田氏に劣っていました。そこで、身分の低い足軽を使って鉄砲隊を組織し、それで対抗して勝利します。つまり、まるっきり従来の戦法を変えることで勝ったのが長篠の合戦というわけです。005.gif

そして、翌1576年に安土城を造ります。これは、「武田を破った自分こそ、全国の大名の頂点なんだ」ということを知らしめるのが目的です。

戦いを目的にとするのではなく、みずからの権威の象徴として豪華な城を築くわけです。古墳時代の5世紀、権力者が競って巨大な古墳をつくったのと似ているかもしれませんね。003.gif

そして1582年、天目山の戦いで武田氏を滅亡させます。047.gif

これで、天下統一事業への道のり95パーセントくらいを終えたわけですが、完成を目前にした同年1582年6月、京都の本能寺で、家臣の明智光秀に攻められ死んでしまいます。これが本能寺の変です。
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当時は織田信長の後継者が羽柴秀吉だとはだれも思っていません。
備中(岡山県)高松城で水攻めをやっていた羽柴秀吉は。本能寺の変を聞くや、すぐさま相手方の毛利氏と和睦します。
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そして山﨑の合戦(京都府乙訓郡大山崎町)で織田信長を討った明智光秀を討ちとります。これでも、信長の後継者が秀吉だとはだれも思いません・・?!

では、重臣たちは信長の息子を後継者と考えていたかというとそうでもない。
まだ戦国時代の発想ですから親から子へ継いでいくのではなく「天下持ち回り」なのです。

それでいくと、信長の後継者としてもっとも力をもっていたのは越前の柴田勝家でした。

1582年7月に開かれたのが有名な清洲会議。信長の後継者を決める会議です。

清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられました。この時の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへ影響します。
そこで秀吉は1583年、その柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒します。

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ここで外せない人が、柴田勝家の正室、織田信長の妹のお市の方。
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この人は、もともと21歳で浅井長政と結婚しましたが・・・
お市の方が浅井の裏切りを察し、兄信長にいち早く知らせた、という逸話は有名ですね。

その後、柴田勝家と再婚するも・・秀吉との対立により賤ヶ岳の戦いが勃発する。
3人の娘たちと住まっていた、勝家の北ノ庄城は秀吉軍に包囲され、勝家はお市の方と娘たちを城から落とそうとしますが、お市の方は、3人の娘たちだけを城から落とし、自分は勝家の手にかかって死ぬ事を選びました。

お市の方の3人の娘は、その後秀吉に庇護され、長女茶々は秀吉の側室(淀殿)となり、秀頼の生母となります。(のち大坂の陣で自害。)二女初は、京極高次に嫁ぐ。三女、小督は佐治一成室となるが、秀吉の命で秀吉の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、徳川秀忠正室となり、お江与と呼ばれて、三代将軍家光、二男忠長を生みます。のち崇源院。

そして、柴田を倒したその年に、秀吉は大坂城の築城を開始します。織田信長が長篠の戦いで武田を倒した直後に安土城をつくりましたが、それとまったく同じです。
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しかも、その大坂城を当時の宗教勢力の頂点にあった、一向宗石山本願寺の跡地に、全国トップの証としてつくるわけです。

これは、大名勢力と宗教勢力の両方とも制圧したということを全国に示すことになります。

秀吉と言えば大坂のイメージがなんとなく強いですが、秀吉はほとんど大坂にはいなかったようで、重要なことはすべて京都で行いました。それなのにわざわざ大坂城を作ったのは、以上のような意味があったからといえます。
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安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいいます。
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織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城※今はありません!(桃山)から、このように呼ばれ・・・
特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼びます。

ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではありません。
・・・・・・・・・・・!!

そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となりますが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張さえあり、近年は織豊時代という呼び方も広まっています。

後に説明する、豊臣秀吉の時代について簡単に見ておきましょう。
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本能寺の変に対し、羽柴秀吉はいち早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破ります。(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年1583年には大坂城の築城を開始。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本を統一し全国で検地と刀狩りを実施させ政権の安定に力を注ぎます。また、文禄1年(1592年)秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こすも、経由地であるはずの朝鮮で戦況は膠着してしまいます・・・
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「桃山文化」
「桃山文化」ば美術史に於いて重要な時代と位置付けられています。
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安土桃山時代には、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られます。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられます。
茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響しました。映画「利休にたずねよ」を見れば、その様子がうかがえますね。
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特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられます。まだ小規模ではありましたが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要です。

●絵画
狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた
濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
●水墨画
風俗画

主な絵師と代表作
●濃絵
狩野永徳:唐獅子図屏風
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狩野山楽:牡丹図、松鷹図
長谷川等伯:智積院襖絵楓図
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長谷川久蔵:智積院襖絵桜図
●水墨画
長谷川等伯:松林図屏風
海北友松:山水図屏風
●風俗画
狩野永徳:上杉本洛中洛外図屏風
狩野内膳:豊国大例祭図屏風
南蛮屏風

●漆器
高台寺蒔絵
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高台寺は京都市東山区の臨済宗のお寺ですが、豊臣秀吉の正室であるねね様<北政所(高台院)>が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院として有名ですね。
●陶器
楽焼
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織部焼

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●茶道
わび茶

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なお、桃山文化を代表する城のひとつといわれている姫路城は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張されたものです。

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!!!以前自分のブログでとある勉強会に参加し「桃山文化」について学んだ記録があるのでコピペしておきます。私のノートなので、正確性は保証できないかもしれませんが・・

日本芸術を見るにあたって、転換期として重要な時代は、
「桃山時代」だそうだ。

これまでの戦乱の世の中から、一応の「平和」が訪れ、平和的な題材が多くなっている。
「憂き世」から「浮き世」への転換しつつある時代。

そこで、庶民からの芸術家も多く現れる。
王朝文化への憧れから、源氏物語や伊勢物語を題材とした絵なども多く見られる。

町衆の中でも、先陣を切っていたのは、かの有名な「俵屋宗達」
ご存知のとおり、琳派の、尾形光琳も宗達の作品に大きな影響を受けたといわれている。

しかし、わかっているのは、「京都の扇屋であった」ということくらいで、生没年すら不詳の宗達。
ただ、町の絵師では異例の「法橋」の位が与えられていたことも分かっており、「法橋宗達」の名が残されている屏風もある。

そして尾形光琳も、もともとは京都の裕福な呉服屋の生まれであった。
しかし、時代が変わり、商売が傾いた際、せっかく集めた芸術品を質にいれなくてはいけなくなったそうだ。
その際、宗達の屏風を「寸分違わずトレース」したそうである。そののち、世界にも衝撃を与える芸術家になったということは言うまでもない。
つまり、京都の町衆が、日本芸術に、いや世界に大きな影響を与えていたのだ!!
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1560年 桶狭間の戦いで勝利し、スーパースターとなった織田信長。

しかし、ただ「おれは京都に言って支配者になるんだ」と言っても、まわりの支持は得られません。
そこで有名無実化しながらも、まだ細々と継承されていた将軍を利用します。
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ここが非常に日本的なところなのですが、朝廷とか幕府とか後ろ盾をつけないと、実質的な支配者としてなかなか周りからの支持は得られないんですね。

このときの将軍は13代足利義輝ですが、これが1565年、山城を支配していた松永久秀に暗殺されます。
松永久秀は歌舞伎でもいちばんの悪役として登場しますが、彼は細川晴元を三好長慶が下剋上し、さらにその三好を下剋上したのが松永久秀です。
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そして、足利義栄(よしひで)を14代将軍にしたのです。

しかし、織田信長はこのようなことを言いだします。

「本来、将軍になるべきは、義栄ではなく、直系である13代の弟君、足利義昭だ。松永久秀のせいでねじられた現状を正すため、おれは京都に行くぞ」
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こうした名目を立てて、京都に入ったが1568年の出来事です。

そうした思惑から織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は必ずしも信長の言いなりにはならない。

「自分は将軍であって、信長が偉いわけではない。なぜ信長の言うことを聞かなければならないんだ」ということで、足利義昭は信長と対立し始めますが、もちろん義昭ひとりでは信長とは対決できません。

そこで、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺を味方につけて信長と対抗しようとします。
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そうした状況の中で信長は1570年姉川の戦いで浅井と朝倉を倒し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまいます。

かつて平氏が滅んでいく大きな原因となったは、南都(興福寺、東大寺)の焼き討ちでした。だから義昭にしてみれは、信長が宗教勢力に対抗して延暦寺を焼き払うなどとは思ってもみなかったのでしょうね・・。

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ちなみに、浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城(滋賀県長浜市)を嫌い、1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました。(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。

あと残るのは足利義昭だけ。将軍としての権威はあっても力はまったくありませんから、信長は正親町(おおぎまち)天皇と結んで将軍職を廃位にして。義昭を京都から追い払います。ここで、室町幕府もついに滅亡を迎えることになりました。

当時の政治基盤が京都なら、経済基盤は大阪です。そこで1569年、信長は堺を制圧し、支配下に置きました。
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●一向宗の弾圧
当時もっとも力を持っていた宗教勢力は一向宗(浄土真宗)で、その本拠地は大阪の石山本願寺です。

これが寺内町といって、お寺の敷地の中に町がある。つまり、町全体がお寺という広大なものでした。しかし、そのすぐ南にある堺が信長の直轄となりましたから、一向宗にとっては脅威の存在となります。

そこで1570年、つまり信長が堺を支配した翌年に一向宗の信徒たちが信長に対して挙兵し、石山戦争を始めます。

それが収まった後、1574年に伊勢長島の一向一揆を制圧。伊勢長島は一向宗の力がすごく強いところです。

次に1575年の越前の一向一揆も閉廷。また、京都を拠点に法華一揆などを起こしていた、もうひとつの過激な宗教集団である日蓮宗も制圧します。
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