ちょっと物々しい内容のブログが続いたので、お茶のお稽古で使う上生菓子のご紹介。

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この季節になると“落とし文”という銘の和菓子を見かけます。(右から二番目)

お稽古場でも毎年登場する馴染みの主菓子です。

 丸めた餡を巻き込むようにして葉っぱがくるりと巻かれた状態、その巻かれた葉の上に白い粒のような餡が置かれた形がベーシック。
これは、オトシブミという昆虫が卵を産んでその葉をくるくると葉巻状に巻いて地面に落とす(葉が幼虫のゆりかごとなり、餌となり、敵から子を守る)ことを模して作られた和菓子です。

 では、昆虫オトシブミの銘々は?というと、
“落とし文”とは、公然とは言えないことや秘かに想う恋心を伝えるために、伝えたい人の近くに落として拾わせた置手紙のことで、オトシブミが葉を丸めて巻物状にするのがそれによく似ていることから名づけられたとのこと。

なんだか、御菓子のネーミングに込められた意味を考えると楽しいですね。

ちなみに、この「落とし文」は、和菓子をモチーフにしたミステリー小説「和菓子のアン」の謎解きにもなっていました。001.gif
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先日の橋下発言に加え、維新の会の西村氏がトンデモナイ発言をして除名処分にまでなる騒動となった。
華々しい経歴の持ち主が、品性を欠くような発言をしたことには怒りをとおりこして驚くが、もっと驚いたのは、ネット上で「擁護」している人がかなり多い事実だった。

「西村氏は愛国主義者」
「西村氏を非難する者や人権派こそが『売国奴』」
と言った書き込みが多く見られた。005.gif

俗にいうネト〇ヨが書いているのであろうが、どうも気持ちが悪いというか、「まともでない」感じがして仕方がない。

彼らに問うてみたい。愛国だ、靖国参拝奨励、売国者排除!という人たちは、本当に国を愛しているのか。

靖国以前に、ご自身のご先祖様に朝夕欠かさずお仏壇に手を合わせているか。ご自身の氏神様はどこか知っているのか。まさか、していない、知らない、というならどの口が「愛国」と言っているんだと疑いたくなる。

どうも、愛国、というものが、自国を愛するというより、他国を打ち負かす、ということに変わってきているような気がする。

五木寛之氏も著書で
日本の目指すべきところが「美しい国」から「強い国」に変わってきているような感じがする、と言っている。

面白いことに中島義道氏も次のように書いている。

ついでに「暴言」を吐いておくと、私は国家にはほとんど期待していない。
できれば強国=大国を目指すことだけはやめて欲しい。

私は日本国憲法前文の「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」という宣言にすら反発を感じてしまう。「名誉ある地位」とは何であろうか。いまだかつて国家が道徳的であったタメシはないし、強力な国家はすべて残酷な支配者であった。

いま、アメリカは国際社会において、名誉ある地位を占めているのだろうか。
どう考えても、不名誉な地位に近いのではないかと思ってしまう。

かつての「〇〇帝国」も、他国に侵入し、他民族を支配し、おごり高ぶり、しかも自分たちを「名誉ある民族」と自画自賛しているだけである。ローマ帝国は名誉ある地位を占めていたのだろうか。
たしかに「偉大な」国家はあったかもしれないが、その数々の残忍な支配を加味すると「名誉ある国家」というものがいまだかつてあったとは到底思えない。


これらを見ていると、他国に対して「モノ言う国家」が強い国であり、イコール愛国である、というモノの見方はあまりに短絡すぎであると考える。
確かに「モノ言わなすぎ」という側面はあったかもしれないが、「暴言」を言っていいという道理にはならない。

「今まで言わなかったことを言うのが素晴らしい」という人もいるが、今まで言わなかったのは、言っても意味がない、もしくは言うとかえって「美しい国」から遠ざかり、民度を下げるから言わなかっただけなのではないか。

まさに天に唾する行為であり、本人にとっても得にならないばかりか、日本人全体の品性を下げるような発言はやめてもらいたいものである。
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by hito2653 | 2013-05-18 19:03 | 雑感。
橋下氏の「慰安婦発言」になぜ批判が集中するかについてもうひとつ。
ここでは、いわゆる「歴史認識」の問題ではなく、あくまで「社会学的見地」であることをご理解頂きたい。

みなさん、ご存知ビックダディーという番組、高視聴率ということでも有名だ。(私は見たことないが)そればかりか、夫婦そろって本まで出して、それも「そこそこ」売れているらしい・・。

それなのに、あの夫婦に共感を寄せる人はほとんどいない。(言い過ぎかもしれないが)まるで不潔なものを見るかのように、子ども作りすぎ!と視聴者は批難する。・・・・・・・・じゃあなぜ見るのか。

テレビのコメンテーターが言っていて納得したのが、
「ああはなりたくない」と思い、自分はまだ「まとも」である、と納得し、安心するために見ている人が多いとのことである。

つまり、前回の「市民的自己」の論理のなかの「異常者」とみなして、自分はそうではない、とみなして安心するわけである。

橋下氏も、ビックダディーと同じように、「異常者」とみなされ、注目を浴び集中砲火の批難を受けているわけだ。

「他人の足を踏んでも何食わぬ顔で通り過ぎる男に、誰でも、―たとえ何の痛みも感じなくても―猛烈な怒りを覚える」と前回のブログに書いたが、
橋下氏に寄せられる怒りも、「足を踏んでも謝らないやつ」に対する怒りに似ている。
市民社会は、「こういうときはこうするべき」というものを明確に持っている。

例えば、閉まりかけのエレベーターに入る際、中にいる人が「開」ボタンを押してくれなかったがため、エレベーターに挟まれてしまったとき、なんで「開」を押してくれないんだ!と猛烈に腹が立つ。
夕食を後輩におごってあげて、お礼を言われなかったとき、―それがたとえ吉野家の牛丼であっても―腹が立つ。それは、「こうしてくれるだろう」という期待感の裏返しでもある。

そのこと自体に腹が立つ、というより、そうするのが「まとも」であり、「まとも」であることの期待を裏切られたからである。

とりわけ「性」に関してはセンシティブな問題で、「男の欲情による『性』の話を公の場でするべきでない」、という常識をもっている人が多いため、
「まともでない」と感じ、歴史にあまり詳しくない人まで「信じられない」、と怒りを覚えるわけだ。

だから、この場になって歴史の知識を披露しながら論理的に説明しても手遅れ。
また、期待感が強かっただけに、「残念感」も大きい。このまま党はどんどん失速していくのだろうか。

≪補足≫
あの後、橋下氏が「マスコミに大誤報をやられた」と憤っておりましたが、確かにyou-tubeを見ると、本旨ではないところを悪意を持って抜粋し、歪曲して報道されていた、という点も否めません。

しかし。。「口は災いの元」

こうしたリスクは、政治家として当然に織り込み済みなのでは。

よって、やはり「軽はずみな発言」が政治生命を奪う、という論理に収斂していくのだと思います。
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by hito2653 | 2013-05-17 00:08 | 雑感。
橋下氏「慰安婦は必要だった」という主旨の発言が、物議を醸している。
ジャーナリストもそろって激しい非難を展開。それに対して橋下氏は持論を展開。

どうもこの構図が変だなーという感覚があったが、この違和感を解き明かしてくれる、もってこいの文章があった。途中一部引用しているのは最近も読んだ、哲学者の中島義道先生。随分前の文章なので、「政治家の発言」については柳沢元厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言を取り上げている。
このときも、「女性の人権無視」という同じような観点から非難ごうごうであった。

「柳沢大臣」を今の「橋下氏」に置き換えても全く通じるので、少し長いがまずはお読みいただきたい。

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勤務大学の大学院で「ディスコミュニケーション特論」という演習を受け持っているが、社会学者のゴフマンの理論をとりあげている。

ゴフマンは、とくに近代市民社会に置いて隅々にまで統制された「儀礼的行為」に注目する。前後左右見知らぬ人、しかも都会ではそれら互いに見知らぬ人がかなりの密度でひしめいている。その状況で「自分は安全な人間である」という信号を発し続けることは必要不可欠のことである。

逆に言えば、近代市民自己(civil self)は他人のちょっとした逸脱行為に不安を覚えてしまうのだ。電車の中で中年男が突然「ぶんぶんぶん蜂が飛ぶ・・」と歌いだすと怖くなり、道の真ん中で老婆がひとり酒盛りをしていたら、不気味だからよけて通る。市民的自己は他人に深く関わることを望まず。またそれは現実的に不可能であるから(これを儀礼的無関心 civil inattentionという)「普通でない行為」を見かけたら、なにしろ避けようとするのである。

市民的自己は、きわめて他者に対する侵害に敏感であるから、よほどのことがない限り「やめてください!」と怒鳴ったり、正面切って「あなたはおかしいですよ」と訴えることはない。もちろん、市民的自己といえども、暴力行為などはっきりした犯罪行為に対しては、毅然とした態度を持って取り押さえることはある。
しかし、こうした普通でない行為は、軽犯罪法にもひっかかることがなければ、「普通でないから目障りだ」ということ以外、特に誰も侵害していない。
だからこそ、あらためて「やめてください」と怒鳴りつけるのも場違いな感じがするのである。
そこで市民的自己が至る唯一の解決策は、こういう儀礼的行為における侵害者を
(異常abnormal)とみなして安心することである。原因は分からないが、明らかにおかしい。だが異常者なのだから、それを言っても仕方がない。避けるに越したことはない、という論理を適用する。

このことは、逆に、誰でもちょっと逸脱行為を実行したら異常者とみなされる恐れがあるということである。それを知って、みんな電車の中でどんなに疲れていても、電車のシートに靴を脱いで横になることはないし、どんな愉快な気分でも歌うこともなく・・・・
涙ぐましい努力によって「ノーマルな外見」を保とうとするのである。

では、逸脱行為をしてしまったらどうするのか。市民的自己はそれを熟知している。ゴフマンによれば、そのつどまめに「調整作業」を実行するのである。
雑踏で他人の足を踏みつけてしまったら、「すみません」と謝る。部屋に入ったとたん、風でドアがバターン!と大きな音を立ててしまったら「あ!」と驚いたそぶりをして、わざとしたのではないことを示す。

しかも市民的自己は、このすべてをぎこちなく、ではなく、あたかも自然現象であるかのようにスムーズに遂行しなければならないことも知っている。この調整作業を怠ったとき、社会的制裁が厳しいことも身に沁みているからである。他人の足を踏んでも何食わぬ顔で通り過ぎる男に、誰でも、―たとえ何の痛みも感じなくても―猛烈な怒りを覚えるのだから。

市民社会とは、各人がこうした二重の自己を適度に使い分け、調整作業を繰り返すことによって保たれている

だから、会社で不祥事が起こると、取締役一同一斉に頭を下げるのであり、裁判で被告人からなんの反省の声も聞かれないと、被害者の家族は激怒するのである。

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というわけで、ゴフマンの社会学の観点から見れば、橋本氏の発言に対する批難、維新の会からの「党としての見解ではない」という釈明は、「調整作業」の一環ともいえよう。

こう考えると、橋下氏の発言が「人権問題」であるか否かという議論は、実はどうでもいいことである。女性を性の道具としている点が「女性の人権」を侵害しているとすれば、橋下氏の論理からすると、国のために命を懸けた「男性の人権」をかさにかけて主張するだけの話である。

前回のブログにも書いていたが、はっきり言って「慰安婦」が「悪」か「必要悪」かの二元的理論をしたって仕方がない。戦場で「性」は必要だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

問題は、橋下氏が「市民社会」「市民的自己」の論理を無視したこと。
政治家として、ましてや党の代表として非難されるべきことは、100人いたら2,3人くらいしか共感しない(もしかして風俗好きが意外と多いのなら15人くらいか?)、それどころか残りの90名余りに猛烈な嫌悪感と怒りを与えることを、口に出す「軽率」さだと思う。

「発言」が「国際問題」にまで発展しているが、一方で得られる「国益」はなにか。
・・・・・・どう考えても間尺にあわない。

セクシャリティーに関する価値観が急転する世の中にあって、みな遅れまいと過敏に反応するなか、こういう風潮を弁えなかった点、橋下氏はやはりバカである。慰安婦の「必要悪」弁明は意味をなさないばかりか、市民社会における「異常者」とみなされ、隅においやられるだけで、橋下氏を含めて誰も得をしない。

今回の「慰安婦発言」問題は、現代社会で到底容認されないことを軽率に口にする政治家は信頼できないという論理に収斂する。
与野党がここぞとばかりに「紋切り型」に「女性の人権」を出すことにもどうも違和感を感じるのはこのためであった。
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by hito2653 | 2013-05-16 22:51 | 雑感。
今日は母の日053.gif

ということですが、一応すで洋服をプレゼントし、夜ごはんの支度も既にしているので、
外でお茶だけをすることになりました。

前田コーヒー本店へ。
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コーヒー代くらいは出すつもりだったけれど、母が「コーヒーチケットあるし」
とのことで、ケーキ代くらいは出すよ、とケーキを追加注文。・・・と言って、ダイエットするとか言いながらケーキを食べる言い訳にしているのであります(^^;
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カップがとてもかわいいね。
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ほんで、家に帰ったら、おばが「鍵長」さんがたまに上生菓子を半額セールをしてるのを運よく買えた、と持ってきてくれました。またまた「あまもの」が。いつまでたってもダイエットになりまへん。
美味しいお茶と一緒に頂こう。
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先日友人に「学歴や肩書きに異常なまでに反応する人」の話をしていたら、友人に、「ていうか、あなたも気にする方でしょ」と返されてしまった。005.gif

つまり「学歴や肩書きに異常なまでに反応する人」に対して「異常なまでに反応する」私自身も同じ穴のムジナなのである。

肩書きを気にする人は「世間の価値観」で評価し、そのなかでの分かりやすい「指標」を求めている。
東大・医者・弁護士・〇〇会社で〇長・・

そして、「世間の価値観」というありもしない色眼鏡で見るため、例えば「ひきこもり」とか「うつ病」の人といった「反世間的」な人をどこかで蔑視している。
すべての人間は「普通」であるべし。そして、「普通」でないものは自分の価値判断の基準「外」にある。040.gif

ここで太宰治「人間失格」の一節
それは世間がゆるさない。 世間じゃない。 あなたが、ゆるさないのでしょう?という言葉を思い出す。

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以下、中島義道「人生に生きる価値はない」より非常に面白いと感じたので、コピペ

ひきこもっている青年の多くは『普通』との戦いの現場にいる。世間は『普通』であることを要求するが、自分はそこから転落した惨敗者であることを認めざるをえない。ここで、自分のうちにもっと強い力を認め『普通』をなぎ倒してしまえば、普通幻想は消える。だが、ひきこもっている青年にはそれができない。世間の普通の価値観を拒否できないからである。

 とすると、彼(女)にとって、救いは一つしかない。それは、世間の価値観に従って評価されることである。例えば、芥川賞の候補になるとか、司法試験に受かるとか、東大大学院に受かるとか、世間において誰もが承認する仕方で評価されれば、彼(女)はそれだけでひきこもりから抜け出せるのだ。わたしのにらむところによると、こういう主要動機に駆られて文芸の新人賞に応募したり司法試験に挑む若者は少なくない。

 ひきこもっている者は、そっとしておいてほしいのだが、世間の価値観から抜け出すことができないから、世間がプラスの意味でそっとしておいてくれる場所を渇望するのだ。それは精神病院でも監獄でもなく段ボールの中でもなく、芸術や文学や哲学の世界なのだ。作家や哲学者として認知されてしまえば、世間はそっとしておいてくれる。」

いまさら、会社に入って、ニコニコ顔で、物を売り、金を稼ぐことなどできるか!俺は、世間をとことん軽蔑して生きていきたいのだ!お前らは、みんな馬鹿だと言って生きていきたいのだ!しかも、こういう俺の生き方をほかならぬお前らから保証されたいのだ!どこまでも反社会的姿勢を貫きながら、そのこと自体が社会から認知され尊敬される唯一の方法は、芸術であり文学であり哲学である。だが、これがうまく運ぶためには『反社会的特権階級』において成功しなければならない。それは大変難しく、またこの社会で敗者になったら、あとはない。完全な敗残者になるだけである。それは恐ろしい。こうして、青年はずるずる勝負を引きのばし、不戦敗を重ね、『どうしよう、どうしよう』と呟きながら、ひきこもっているのである。

 大人たちはこういう青年に『そんな夢みたいなこと考えるな!』とどやすが、これがまったく効き目がない。なぜなら、こうした『夢物語』を『何をしても虚しい、そしてどうせもうじき死んでしまう』という本当の物語がしっかり支えているからである。どう考えても必要ないものを作り、ないほうがいいような物を売り、わずかに金を稼ぎ、日々馬鹿げた苦労を重ね、時折は幸福らしい幻想に陥り、そしてある日ふっと息を引き取る・・・・これっていったい何なのだ!

 ひきこもりの青年は、人生のスタートラインでどうしようもない『真実』を見てしまったのだ。真実は真実であるから威力があり、一旦見てしまった者は消すことが出来ない。大人たちが必死の思いで青年の耳に注ぎ込もうとしていること、それはただ『そんなこと忘れろ、忘れてしまえ』という叫び声だけである。じつは、自分でもひきこもりの青年が見てしまった『根源的疑問』を少しも解決してないこを知っているのに。

先に質問した婦人は『息子をずっとほっておくのですか?』とすがるような目つきで問いただしたが、私にはその青年の『ほっといてくれ!』という叫び声が手に取るようにわかる。親の言うことはみな『嘘』だから、聞きたくないのだ。はたして、母親は、『どうせ死んでしまうのだから虚しい』ということを、脳髄が痺れてしまうほど考えたことはあるか?どうせ働いても、何の喜びもない、そして年取って死んでいくだけだ、という真実の残酷さを正面から見据えて取り組んだことがあるのか?

 ないに違いない。こんな基本的なことにさえ眼を向けずに、『とにかく部屋から出て、とにかく学校へ行って』と頼む不真面目さ・・・・に唾を吐きかけ、蹴っ飛ばしたくなる。何も考えずに世間の人と同じことをちまちま続け、絶叫もせずに従っている、それと同じこと俺にしろと迫る、その不潔さに吐き気がしてくる。

もう一人、初老の紳士が手を挙げた。やはりひきこもっている息子についての相談である。『どうしたら、彼に生きがいを見つけてやれるでしょう?』という質問であった。私は、『生きがいなんてみな嘘っぱちです!人生は凄まじい修羅場ですし、そのあげく、どうせしんでしまうんですから!』と思わず叫んでいたが、こういう父親にこそ言いたいことは山のようにある。

彼は知的で温厚そうな紳士であり、自分のごまかしを、汚さを、ずるさをみじんも感じている風にはみえなかった。そこが問題なのである。
息子は全身で抗議しているのである。
社会のルールに従って、仕事において評価され、結婚して家庭を守ることがそんなに立派なことか?それがあんたの「生きがい」なのか?それになんの恥も覚えないのか。想像力をたくましくして、自分が極悪人かもしれない、と思うことが一瞬でもなかったのか。それほどおめでたいのか!偉いのか!
息子が父親に問うているのはこのことである。

そこで、誤解しては困るが、私はこういう青年たちを掛け値なしに「正しい」とは思っているわけではない。私はそんなj両親を攻撃している息子もまたずるいと思う。そんな反吐が出るほど軽蔑する奴の庇護のもとにひきこもっているのだから、同じ穴の貉である。

私にとっては、現代日本におけるひきこもりやうつ病をはじめとする心の病の激増、あるいはDVや自殺の激増は、さらに根源的な問いに連なっている。これは見方によればごく自然なことだと思う。生活が安定し、さしあたり戦争によって殺されることも飢饉によって死ぬこともなく、災害によって身ぐるみ剥がされることも最小限に抑えられ、強姦や殺人や傷害など、人間の奥底に潜む凶暴性が極小までに抑えられている現代社会は、どう考えても生物体にとっては『病的』であるように思う。

果てしなく頭の悪い評論家のセンセイ方は『現代は希望の持てない時代だから、若者はかわいそうだ』とアホ面さげてのたまう。だが、人類発生以来、どんな時代にあっても、理性なんぞを抱え込んだがゆえに、人間は『生きがい』や『希望』を持てるわけはないのである。正確に言えば、カントが述べているように、生きがいや希望を持てという命令だけが与えられて、じつは絶対に持てない仕組みになっているのである。すべての人は、ごまかし通すのでない限り、常に自分が死ぬことに怯え、何が正しいか悪いかもわからず、生きている意味も見いだせず、虚しさを呑み込んで死ぬだけだからである。

 日々の生活に追われているうちは、幸せなことに、こうした根源的な問いはうまい具合に隠ぺいされていた。だが、衣食足りて、物が溢れ、考える暇が出てくるや、『本当のこと』が全面に押し出されてきた。何をしても虚しいことが、残酷なほどよく見えてきた。

 しかもこの耐え難い状況の憂さ晴らしをしようとしても、現代社会では、各人は―自然に反して―攻撃欲を抑え、弱者を保護し、平和と秩序を愛し、つまり我慢に我慢を重ねねばならないと来ている。眼前に欲しい商品があっても盗んではならず、眼前に若い魅力的な女体があっても触ってはならず、眼前に鳥肌が立つほど厭な奴がいてもぶち殺してはならず、・・・・とすると、あとは精神に変調をきたすしかないではないか!せめて、そうやって自分を救うしかないではないか!

 現代日本のように、安全で平和で、みんな優しく思いやりのある社会を実現して見たら、百万単位で心の病に悩む人が生じてしまった!なかなか意味深な結果である。としても、また戦国時代に、狩猟時代に戻るわけにはいかない。とすると、道は一つ。みなさん、他人にはもっと優しく、もっと思いやりをもち、そして自分はもっと病気になりましょう!

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以下私の感想に戻る

肩書きを気にする人は、「本当のこと」を直視せず、何かの指標に意味を求めているのにすぎない。
「ひきこもり」や「うつ病」の人とどちらの方が「病的」かと言われると、どちらも「病的」である。
「理性」こそが心の病をつくる張本人。そういう意味では、「肩書き」を気にする人も、「世間の価値観」から一線を置きながらもそれを気にして悩み続ける「ひきこもり」の人も本質的には変わらない。

中島義道氏のいうように「どうせ死んでしまう」と考えると、「肩書き」や「学歴」なんてどうでもよくなってくる。

21世紀は「こころの時代」、とかつて目前にくる新世紀に対していわれていたときがあった。しかし、そこの言葉は今ではすっかり影を潜めている。むしろ21世紀は「こころの病の時代」と言ってもいいのかもしれない。

こんなときこそ、先日の五木寛之さんの「楕円の思想」でないけれど、「低学歴」と「高学歴」、「世間」と「反世間」、みたいな二元的考えは捨てたいと思う。
いずれにしても、人間はみんなどうせ死んじゃうんですから(笑)
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by hito2653 | 2013-05-12 02:01 | 雑感。
今日はまだ元気があったので、また「読んだ気になれる」ダイジェスト&感想です。
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プロローグ
近ごろ、どうも世間が力(りき)んでいる気配を感じます。
尖閣諸島や竹島の問題でも、外交で強い力を発揮し、世界の中でも有力であろうとする傾向がある。
「美しい国」から「強い国」へと軸足が移ってきているようです。

「悩む力」「聞く力」をはじめ、あきれるほど多くの本に「力」という字が使われています。私自身15年前に「他力」「不安の力」、そして最近も「選ぶ力」を書いていて、それを否定するつもりはありません。

しかし、なぜこれほど「力」なのか。

「力」と同じようにこのところ目にする機会が増えた言葉は「絆」です。二年前の大震災以来、人々はさかんに「絆」を口にするようになりました。
私の世代では家族の絆とか肉親の絆とか、「束縛」というニュアンスが強いので、どうしても奇妙な感じがしてしまう。

もともと「絆」とは家畜の脚をしばって勝手に動けないようにする、という言葉です。
戦後もてはやされた「個人」や「自由」とは対極にある表現でした。

今は不安と喪失の時代だという人がいます。
「力」にとびつき、「絆」のような束縛を求めるのも根は同じかもしれません。

しかし、風に吹かれ、流されゆくように生きた日々を経て私はこう思うのです。

そろそろ、「力」と決別するときではないか。

自力でもなく、他力でもなく、その先に「無力」(むりき)という世界があるのではないか。
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「ブレない人などいるものか」
「あの人は一貫性があって終始ブレない、立派なものだ」よくそういう「ほめ言葉」を耳にしますが、それはまちがいではないか、と思います。
「ブレない」というのは人間にとって正常な状態ではないからです。

(中略:柳田國男北原拍手等の例、宮沢賢治が長生きだったら作品も違っていたかもしれない例など・・)
物事を固定的にとらえず、時代とともにブレながら生きる。それが人間のあるべき姿なのではないでしょうか。

「方丈記」に
「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの見ずにあらず。よどみ浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
とあるように、川の流れは変わらないが、水そのものは変わっている。
人は誰しもが大河の一滴、と考えてみるのです。

永遠不変を誓った恋愛もいずれは変わっていく。友情もいつかは変わる。
この世では変わらないものなど、何一つない。すべてが変転していくのです。

仏教の考え方の中でもっとも大事な無常。ある意味で、この無常観という情緒的な感覚を論理的にいうと、それが「無力」(むりょく)ということになるのかもしれません。

たえることのない世の変転の中で生きていく自分は、どうすればいいのか。
何であれ、人は自分が憧れる、頼れる軸のようなものを求めるのだと思います。それが「力」や自己啓発ブームにもつながっています。

ただ、世の中がどんどん動いているのに、自分はさまよい揺れてばかりで不安だとは感じない方がいいと思うのです。
人生は揺れ動く。白黒なんてつけられない。
黒か白か、有罪か無罪か、健康な人か病人か、そういう二分法の考え方から、まず身を引いて離れた方がいいという気がします。

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「優柔不断動的人生のすすめ」
人生はつねに無常でなにが起こるか分からない。
そのような考え方を虚無的だと思う人もいるかもしれません。
しかし、明日のことさえ、誰もわからない。その覚悟を持つことが大事なのではないか。

わからないから自堕落に生きるのではなく、わからないと覚悟しながら、精一杯生きていく。
そして、そのときそのときの判断で、白黒を簡単に片方に決めてしまわないこと。
これが優柔不断の生き方のすすめです。あづいはそうやってブレながら動いていく。いわば動的人生のすすめです。
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「転換期には『楕円の思想』で中庸を行く」
戦後を代表する思想家の花田清輝は「楕円の思想」を説いています。
ひとつの中心を持つ真円(しんえん)ではなく、二つの中心のある楕円。ルネサンス的思想というのは、その中を揺れ動く楕円の思想のようなものだというのです。

二つの中心点を持つ楕円があって、その時その時によって力点が移動していくイメージです。つまり、中庸の芯というのは楕円の二つの中心の間を絶えず動いて移動している。
中庸とは真ん中で静座しているという考えではなく、うろうろしているからこそ中庸、これが中庸の解釈のしかただと思います。

最近の世の中が、どちらか極端な話をすることに目が行きがちなのは、中庸、あるいは中道というものへの誤解があるためでしょう。
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以下やっとこさ、私の感想です。

以前、私はブログで香山リカさんの本のレビューで「すぐに白黒つけない」-タトゥーを消したがる女たちへの手厳しいコメント-
というブログを書いたことがありますが、まさにこの本でも、すぐに白黒つけたがる人が多くなったことを指摘しています。→→(私の感想)すぐに白黒つけたがる人

白黒つけて、他方を排除し、「かりそめのこころの安定」を得ようとする余裕のなさが、今の時代にあると思います。

あとは、「無常」「大河の一滴」という考え方も好きです。
「私も、人も、明日のことはわからない」
そういう考えを持つと、人に対して「嫉妬」したり、また自分自身も将来へわけもなく「取り越し苦労」をすることもなくなります。

「楕円の思想」というのは「初」でしたが、ブレることは悪いことではない、明日のことはわからないと覚悟しながら、精一杯生きていく、という考え方ってすごく人間らしくて素晴らしいって思いました。
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by hito2653 | 2013-05-06 23:13 | 読書
GWもあと数時間で終わろうとし・・
自分自身を「あっちの世界」から「こっちの世界」に引き戻さなければ、明日からの仕事がヤバいΣ (゚Д゚;)、なんて思ったりします。

「あっちの世界」ってなに?って・・・?!
それは、「観念と感性」の世界。そしてこっちの世界「合理とビジネス」の世界。005.gif

・・というと、「(°Д°)ハァ?」という感じかもしれませんが、ちょっとビジネスブログっぽく考えてみましょう。

よく京都の会社で、
「わが社の社是は、京都の伝統文化を守ることです。(`・ω・´)シャキーン」と言ってこられる会社がたくさんあります。

でも、それは単に「観念」であって、それだけを金科玉条のごとく掲げていても、政府からお金がもらえたりする慈善団体でない限り、目の前の資金に詰まったり、人がついていかなくて労務管理に問題が出てきたりする・・・
「あっちの世界」でモノを語っても「こっちの世界」で行き詰れば、現実として企業は立ち行かなくなるわけです。015.gif

会社が慈善団体などでなくビジネスである以上、「現実」を直視し「合理的」に考えることが必要になってきます。

だから、あまり「観念」的なことを社長が言いすぎると、
「あっちの世界で生きてはる会社やな」と金融機関から逆にマイナス評価を食らってしまうこともあるわけです。007.gif

かといって、「こっちの世界」、つまり「合理」ばかりでものを語ると、
例えばクレームなどへの謝罪なんかだと、紋切型の謝罪に対して「気持ちがこもっていない」と相手の気持ちを逆なですることだってあります。

仕事が「作家」とか「音楽家」などの自由業であれば、ずっと「あっちの世界」で収入を得ていくこともできるのですが、普通の人はそうはいきません。

ましてや子供を育てながら働くママさんなんて、勝間和代ばりに超「合理的」に「こっちの世界」での自分を成長させないとやっていけません。022.gif

林真理子さんも著書の中でママチャリを爆走するママさんを見て、若い女性が結婚から遠ざかるのもわかる、と言っています。

「結婚」はよく結婚式場のコマーシャルでやるような「あっちの世界」ではなく、超現実的な「こっちの世界」(ママチャリ爆走)だということが、賢くなった若い女性たちは分かっているからです。

昔から妄想するのがすきで、「あっちの世界」の住人な私ですが、いちおう林真理子氏は「妄想力」は「野心」の原動力にもなる、と肯定的に言ってくれています。

「あっちの世界」「こっちの世界」をうまく行き来しながら、自分の持つ「妄想力」をより高めていきたいと思っています(^O^)

いやいや、もう休みも終わりだから「あっち」から戻ってこないと・・。^^;
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by hito2653 | 2013-05-06 16:53 | 雑感。
取るに足りない自分と読書の話をしたあと、GWに読んだ本の(一部)ご紹介をします。

「人生に生きる価値はない」中島義道(新潮文庫)
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タイトルをまともにとってもらったら困ります(笑)鬱病者を自殺に導くような本ではない。
そういう本でなくて、哲学者が書いた漫談みたいな本です。

ビレッジバンガードで見かけて、迷ったあげく、翌日同じところで買いました。

筒井康隆みたいなドタバタ劇で笑ってしまうところもあれば、まじめで学術的な哲学論もある。
だから多少読みづらいところもあるけれど、我慢して読めば、分かった気になれる。そんなお得な本。

しかし、この人はあくまで「学者」であって、はっきり言ってサラリーマンの世界では「社会不適合者」なんだろうな、と思ってしまう。なんだ、この人は!というレビューもあるけれど、そこが肩の荷がおりて面白いところ。

「無力 MURIKI 」五木寛之(新潮新書)
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これも、テレビで中瀬ゆかり親方が勧めていたので買った本。自社の本なので宣伝かもしれないけれど、この前のおすすめ本、林真理子の「野心のすすめ」もすごく面白かったので。

五木寛之さんの本は、高校時代「生きるヒント」で出会ってから、「大河の一滴」とか有名どころは結構読んでます。しかし・・高校時代に「生きるヒント」ってどんだけ悩んでたんだ、私は(笑)

大学時代、小説にも興味を持って「戒厳令の夜」とかも読んだけれど、どうも自分には合わなくて、小説ではない、晩年の「人生論」的なものを中心に読んでいました。

それでも、最近は多作なので、「下山の思想」「人間の覚悟」とか、ベストセラーの本も読まず、
少し飽きてきたところもあったのですが・・。

レビューにも目新しいところはない、と評されたところもありましたが、本筋は同じでアプローチが違ったので逆に新鮮な感じがしました。

「○○の力(ちから)」「○○力(りょく)」
といった「ちから」ブームの中であえて、「むりょく」でなく「むりき」とするところが五木さんの違うところだなーと思いました。

2冊紹介しましたが、また時間があれば、心に残ったところを備忘録として引用しようと思います。
感想としてどちらも買ってよかった本でした。
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by hito2653 | 2013-05-06 13:38 | 読書
さて、連休もあっと言う間に最終日となってしまいました。
連休は、読まずにためていた本、つまり「積ん読(つんどく)」をどうにかしよう、と思っていたのですが、いっぱいありすぎて、つまみ食いならぬ「つまみ読み」していたら、どれも中途半端になってしまった感じです。

特に小説なんて、なかなか普段は読めずに積まれてしまうことが多いです・・。
たまには純文学もいいか、と思って買った川端康成の「眠れる美女」なんて、半年くらい経つのに3行くらいしか読んでません(爆)015.gif

社会人歴がまだ浅く、仕事がここまでハードでなかった時期は、学生以上に本を読む時間があったので、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」とか島崎藤村とか、松本清張とか、乱読しては自己満足に浸っていたのですが、今はそんな余裕がありません(泣)007.gif

おそらく、その時期は学生のように授業とバイトと・・という両立もなかったので、学生以上に余裕があったのだと思います。

今も独身生活謳歌しているので、「家族のための家事」がない分、両立すべきは「仕事」だけなので、もっと本を読めるはずなのですが、なにぶん仕事で疲れて平日は余裕がない。

しかも仕事の特性上、判断はドライであるべしで、リリカルな部分は排除しなくてはいけない。
それでも、私が作った仕事の文章は、「ビジネス文書でない」「抒情的でおかしい」とよく注意されます。だから、本の世界に没頭するには仕事とは世界をスイッチする必要がある。
物理的な時間ではなく、疲れた心が読書を遠ざける。

と、ここまで「積ん読」の言い訳をしましたが、本を読めるくらいの余裕があって初めて
「人間になれる」
感じがします。「早く人間になりたい」の妖怪人間ベムじゃないですが。040.gif

よく組合などで「ワークライフバランス」とか言いますが、「ライフ」は人それぞれなので、
「満足に読書できるくらいの精神的時間的余裕がある労働環境」という基準を作ってはどうかと思う。047.gif

仕事をして、家事を主体的にやって、果たして本を読む余裕があるのか。
女性として「日常」に埋没し、読みたい本、読むべき本が読めないのは嫌だなあという不安があります。

こうして年を重ねているわけですが、何かいい「本」ありませんかー(笑)003.gif
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by hito2653 | 2013-05-06 13:13 | 雑感。