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江戸は、武家の町で、一般町民は15%。狭い長屋で肩寄せ合ってつつましく暮らしていました。

そのためには、お互いに助け合い、穏やかに暮らしていく人間関係のルールが必要でした。

そのルールが「江戸しぐさ」と呼ばれ、現代社会にも通じるものとして今見直されているといいます。


「魚屋しぐさ」
魚屋は町を駆けずり回っていた。魚を買ってもらうと、その場でさばいた。しかし、包丁は子供たちの目に入らない場所で使った。危険なものはあえて見せない心配り、これが「魚屋しぐさ」。
「傘かしげ」
長屋の狭い路地で傘をさして歩くときのマナー。路地ですれ違うときは、互いに傘を相手側へは傾けず、その反対側へ傾ける。傘かしげが出来ないような細い道では、互いに傘をすぼめてすれ違う。相手に雨がかからないようにという思いやりの心。
「肩引き」
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと
「七三の道」
道の、真ん真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと
「うかつあやまり」
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
「稚児しぐさ」
人の迷惑を考えない子供っぽいふるまいを「稚児しぐさ」と言って戒めた。「日本人 礼儀作法のしきたり」の著者・朝倉晴武氏は現代の「稚児しぐさ」の例として、電車内の化粧、歩行中の“歩き食い”、列車内での携帯電話通話をあげる。
「こぶし腰浮かせ」
当時の江戸には、各所に渡し舟があった。船に乗り込むとき、少しでも多くの人が座れるように、両方のこぶしをついて、ちょいと腰を上げて席をつめた。これが「こぶし腰浮かせ」。お互いさまの譲り合い精神。
「時泥棒」
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる
「もったい大事しぐさ」
「もったいない」に通じるもの。 
「年代しぐさ」
年長者に敬意を払い、自分の年齢に合ったようなふるまいをすること。


今日は錦市場に行く途中、大雨でたくさんの傘を持った人とすれ違いました。その際、人を押しのけて、ずかずかと通ろうとするのは、江戸っ子的に言うと「粋でない」

傘をすぼめ、端に寄って静止して相手さんに先にとおってもらうのが江戸しぐさでは正解とされています。
「傘かしげ」って綺麗な言葉ですね。

また、電車などで、我先に空いた席に座ろうとするのも、同じ。
着物の家紋が前より後ろの方が数が多いのは、昔の人は後姿が人様から見て恥ずかしいものではないか、すごく神経を遣ったからだという人もいます。猛然と空いた席に座ろうとする後ろ姿は、粋でない。

たまたま手に取った本で書いてあったので、記録しておきます。
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「人生をやり直すための哲学」小川仁志(PHP新書)

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別に、人生をやり直そう!と思って買ったわけでもないのですが、冬休み読書!ってことでぱらぱら見て面白そうだったので買ってみました。

この小川仁志さんという著者は、京大卒、商社勤務、フリーター、市役所勤務、を経て哲学者になった異色の方です。専門は公共哲学、だそうで、お茶の間に哲学を広めよう、とういうことをミッションにしているのかな。

本の構成は、一般の人が「人生相談」を持ちかけ、それに対して哲学者の考えを用いてヒントを与える、というかたちになっています。悩みについてはノンフィクションのようで、割と切実でリアルな悩みが多いです。

そのうちの、どれか一つを紹介するならば、「フーコー」の節ですね。
フーコーは私が大学の頃、先生に「学生の時間のあるうちに、フーコーを勉強してみるといいよ」と言われておきながら、まったく本を読まないまま学生生活を終えてしまいました。

よって、私の中でも多少のコンプレックスがあったため、読んですっきりした感があります。

それではフーコーの紹介から
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ミッシェル・フーコー(1926‐1984)
構造主義を代表するフランスの哲学者。同性愛者としての苦悩を抱えつつも、既成の道徳観念に縛られない自由な人間像を模索。監獄、病院、国家、歴史における権力の構造を分析し、批判し続けた。著作に「言葉と物」「狂気の歴史」「監獄の誕生」などがある。


お悩み相談は45歳の男性(K氏)
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なかなか管理職になれず困っています。私は若いころから会社の体制や問題について口を出してきました。いわゆる煙たい社員であったことは確かです。組合活動にも力をいれてきました。

それが出世できない理由だと思いたくないですが、どうしても疑ってしまいます。上司にも嫌われていますから。所詮人事なんて人間がやることです。いくら客観的な評価制度をもちいても、最後は鶴の一声で決まってしまうものですよね。

いったいどうしてこんなに不合理な世の中なのでしょうか。


管理されることには恐怖はつきまとう
様々な人間が集まって一つのことを行う組織という存在には、どうしても管理する必要が生じます。そして、管理する主体には管理するための力、つまりパワーが求められます。その意味では、国家に限らず、企業にも権力が存在します。

権力を批判しつづけたフーコー
フーコーによると、とりわけ権力が恐ろしいのは、自分たちに都合の悪いものは封じ込めようとする点です。負のレッテルを貼って、社会から排除してしまうのです。つまり、理解できない「非理性的存在」だとして社会から排除されているひとたちの多くは、実は本当に非理性的なわけではないのです。それは単に近代社会の運営に都合が悪いかで、「ふるい」にかけられたにすぎないのです。

いわば時の権力にとって都合のいい人間は理性的、そうでない人間は非理性的とされたにすぎないのです。たとえば「狂気の歴史」という本で明らかにされているとおり、17世紀以前は、一般人の陣地を越えた自然の心理を告げるものであり、また崇めるべき天才の証だったのです。それが近代になって一転、多数派とは異なる人間は異常だとして「大監禁」の対象にされてしまいました。それが今なお続いているのです。

だから私たちはすぐに病名をつくりだします。理解しにくいもの、人と違う特徴がある人は皆病気にしてしまうのです。その人のためといいますが、本当はそうしたほうが権力として扱いやすいからという事情もあるのです。

そもそも管理する人間にとって「例外」という自体は面倒なのです。

「見えない権力を自覚せよ」
Kさんがいわれますように、権力とは規律・訓練によって私たちを都合のいいように従わせようとするものですから、不合理さを覚えて当然でしょう。ただ、目に見える権力はまだましなほうなんです。わかりやすい権力の行使といってもよいかもしれません。
これに対して「見えない権力」はもっとやっかいで、もっと恐ろしいものなのです。

皆さんは「パノプティコン」をご存知でしょうか。「一望監視装置」と訳されます。
フーコーによるとこうです。「一望感知装置、は<見る=見られる>」を切り離す機械仕掛けであると。
イメージするならば、中央に監視塔があって、その周囲にドーナツ状の独房が並んでいる。
そして中央からは全体が見渡せる一方、囚人たち側からは中の様子が分からないようになっている。

つまり、監視する者とされる者のまなざしに不均衡が存在しているのです。この不均衡こそが権力の象徴です。一方が他方に完全に従うという構図の存在といってもいいでしょう。

結局、私たちが人間の特権と信じ込んできた主体性という概念さえも、実は権力の見えない監視のもとで骨抜きにされ、都合のいいように規律化された自己規律にすぎないわけです。
自分の意志で選択し、行為しているつもりが、知らず知らずのうちに権力の気に入るようにしかふるまえない体になっているということです。

そんなことを言われると、自分が生きているのか、それとも権力に生かされているのか、よくわからなくなってきませんか。だから、逆らう相手が見えているうちはまだ、ましなんです。逆らうべき状態を自覚しているんですから。ところが、相手が見えなくなったときは、自分の置かれた状態がいいのか悪いのかさえもわからなくなってしまいます。これは本当に恐ろしいことです。奴隷が奴隷であることに気づかないのは、人間の終わりを意味するのですから。

権力の正体を知れば恐れることはない
Kさんはぜひ目の前に権力があることに自覚的になってください。
あくまで権力は、社会の秩序を守るためにあります。権力の側はパノプティコンよろしく一方的に管理しているつもりかもしれませんが、私たちはその中に閉じ込められた無力な囚人とは違います。こっちからも見てやることもできるはずです。何かが見ている。それを探し出して、こっちからも見てやることが大事です。いわば権力の監視。権力の逸脱を防ぎ、納得のいく風通しのよい世の中をつくるのは、彼ら権力側の仕事ではなく、私たち自身の役割なのですから。

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by hito2653 | 2012-12-30 19:22 | 読書
私が、家でゴロゴロORネットばっかりやっている、と恐らくみんなが思っていると思うので(?!)、ちゃんと仕事してるぞーってことで、今年のお買いもの日記を。(ぜんぶ撮影、掲載許可は受けてます。念のため)

今年も、錦市場でお節の買い出しに行ってまいりましたー♪
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やっぱ人は多いです。
一方通行、っていうことはないんだけど、エイヤーーで買ってしまわないと、迷っていたお店には戻れない!

とりあえず、「紅白なます」は毎年わたしの担当なので、金時人参をゲーーット!
高いときには400円くらいしたりするので、めちゃお買い得だと思いますよーーぉ
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祝い海老は、有頭の一番大きいのを。塩焼きにするのが美味しいです。
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祝い鯛は買いませんが。、名物なので写真だけ撮らせてもらいました。代わりに、ってわけでないけど、ここのお店で「棒たら」を買いました。

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他にもいっぱいゲットしましたが、人多すぎ、撮影は迷惑すぎ、で写真が撮れていません。
そして、手がちぎれそうなくらい、荷物をたくさん持っていたので・・。

最後に「干しシイタケ」を乾物屋さんで買いましたが、私が手にいっぱい袋を持っていたので、奥から大きなお菓子屋さんの紙袋を持ってきてくださり、「雨対策」までしてくださいました。干しシイタケしかかってないのに、申し訳ないような気がしましたが、さいごにちょっと心温まりました。^-^
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お正月休み、普段まとまった休日がとりにくい人たちにとっては、ゴールデンウィーク以外では唯一の「大型連休」の人が多いのはないかと思います。

そんな休み、どう過ごすか。
立ち読みしていた本に面白いことが書いてありました。

休日は枕を捨てよ、町に出よう
※以下チェック
☑休日は昼過ぎまでゴロゴロしてしまう。
☑そして、気付けば夕方になる
☑もともと、外に出る気もなかった


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私を含め、ハッとした人も多いのではないでしょうか。

「枕を捨てよ」という表現が面白い。「枕」は電車の中や会社の休憩室で寝るときにはないモノなので、平日の休息にはない、「本気のごろ寝」には欠かせない小道具といえるでしょう。

年明けからの激務に備え、ここは思いっきり休むか、いや休みぎ寝すぎも不安・・そんな人も多いのではないかと思います。

反面、「休め」と言ってくれている本もあります。私の好きな五木寛之さんの本の言葉を引用しておきます。

「破滅しないために、休む」
「『目覚めよ』より『眠れ』の方が大事だ」
「内なる声に素直に傾ける」

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眠るということは、目覚めていることよりも価値がない、または敗北とする考え方は近代の大きな落とし穴だと思います。
最近の医学関係の研究で一番おもしろいとおもったのは、人間の免疫をつかさどる細胞は、睡眠中に骨髄でつくられる、という報告でした。これを聞いて「眠る」ということはいかに大事な営みか、あらためて気づかされたのです。

「惰眠をむさぼる」というように、眠ること自体が悪いことのように言われたのは、封建時代以降の生産力志向に他ならない。それはできるだけ起きて働け、ということでした。しかし、そのような啓蒙主義はもうすでにその役割を終えたと私は思う。

現代人にとって「休む」ということは、非常に大事なことだと思います。肉体的、精神的な危機に陥ったときは理性の判断より、心の奥底から発する「内なる声」に素直に従った方がいい。その背後には、動物的な自己防衛、というかもうここで休まないと自分の体が危ない、という無意識の意識があるからです。

どんな試みにもリスクはある。休むといってもある程度覚悟して休まなくてはならないわけです。実際、これまでの日本社会では、休まない人たちが出世競争で勝利者となってきました。休むということのマイナス面がプラス面を大きく上回っていたのです。

それにもかかわらず、最近日本人が休息を求めるようになってきたのはなぜでしょうか。
それは精神的なクライシスをどう回避するか、ということが重大な問題になってきていることと無関係ではない。

年間三万人もの自殺者が出ているいま、一歩間違えば、誰もが自分の命さえ絶ちかねないという危険があるのです。

しかし、そのとき語られる「休息」の必要性とは、働かなくてもいいということとは違います。「休むことのすすめ」は決してドロップアウトのすすめではない。

むしろ、これからいっそうシビアになっていく実績社会、選別社会の中で生き残っていくためには休息が必要なのです。自分がクライシスモーメントの臨界点に達したと思ったとき、破滅しないための転換法や、生活の中の句読点としての休みを取る。それは、自分の責任で自分の身を守る、ということに他なりません。


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「休む」についての深い洞察です。
さすが作家、「内なる声」とか「生活の中の句読点」とか表現が素晴らしいです!
が・・
後半になるにつれて、内容重すぎ!!(笑)

何事もバランスが必要と思われます。みなさま、お正月休みはゆっくりとお休みくださいまし!
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by hito2653 | 2012-12-30 13:07 | 雑感。
先日歌の歌詞に「青春」という言葉が出てきたので、語源はなんなのかなーとふと気になった。なんで、「青」なのか。半熟卵みたいに「黄」でもいいんじゃないの?(・・てか、完熟卵も「黄」だな)と思ったりした。

調べてみると、「陰陽五行説」に由来していて、「春」に対応する色が「青」だそうだ。
ただし、「青二才」とか「青臭い」のように、「青」は「未熟」を表す接頭語となっており、熟していない植物が青っぽい状態であることも影響しているといわれているらしい。

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ところで、「青い鳥」というおとぎ話を知っているだろうか。
メーテルリンクの童話劇だ。
2人の兄弟チルチルとミチルが夢の中で過去や未来に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分たちに最も手近なところにある、鳥籠のなかにあった、という物語。

絵本や童話集は子供向けのものであるため、最後には青い鳥が見つかったというハッピーエンドで終わっている。そして、青い鳥は身近なところにいたという話を
「幸せは身近なところにある。だから、その身近にある日々の幸せを大切にしよう」
というメッセージとして解釈するのが一般的だ。
しかし、メーテルリンクの青い鳥の原作ではその話に続きがある。もともとの原作は童話として書かれたものではなく、戯曲、つまり舞台用に書かれたもので、原作では家にいた青い鳥も結局逃げてどこかへ行ってしまうところで話が終わる・・。

あるとき、友人の友人が、人生にすごく悩んでいて、「神経症」に近い症状すら出ているということを聞いた。
長く勤めた会社で、彼女は優秀なので、若くして係長になったのだけど、自分が中堅のキャリアになってくると、会社の嫌なところが見えてきた。
会社の経営方針と実際の内情とのキャップに悩み、仕事と言えば、生産的をしている感覚はなくやっていることは、「調整・調整・調整」。

日々充実感もなく、疲れたから辞めたい、というのだ。しかし、このご時世、辞めて今と同じ待遇の会社は見つからないだろうし、かといって今は彼氏がいなくて、「嫁き場」があるわけではない。行きづまり状態が彼女の精神状態を疲弊させている。

彼女は言う。公務員になろうか、公務員だと、残業もなくてアフターファイブが充実してそうだ。いや、カフェを開業してみようか。得意な料理でお客さんを喜ばせ、時間に縛られず気楽に仕事ができそうだ。うーん、それともやっぱり永久就職か。専業主婦にならせてくれるような、年収の高い男をつかまえるか。


私自身も優秀ではないけれど、30代となり職場で「中堅」となっているなかで、悩むところは多々あり、彼女に共感できるところもある。

でも、ふと考えてみた。本に書いてあった言葉が色々思い起こされた。
「清濁併せ飲む」「すべてのことに両面がある」「物事にはかならず光と影がある」

もしかすると、彼女は「青い鳥」を探しているのかもしれない、と。
でも、彼女は「青い鳥」の「光と影」のうち、「光」だけしか見ていない。隣の芝が「青く」見えるのだ。公務員が楽、なんていうのは、一昔前の話だし、カフェ経営だって固定客をつかむのは並大抵のことではない。永久就職だって、お互い何の不満もない結婚生活なんてありえない。
一方、今の会社の「光」は見ずに「影」だけには敏感で、絶望してしまっている。

苦しんでいる人に追い打ちをかけるわけではないが、10年も勤めたということは、いわゆる「ブラック企業」ではないと推察されるし、そのなかでできることはもっとあるのではないだろうか。現実逃避をしているにすぎないのではないかと思った。

現状に対する不満はたくさんあるかもしれないけれど、長く勤めた会社には多くの人に必ず恩義があるはず。もちろん仕事を続けられているのは両親や恩師など社外の人の協力もあってのことだと思う。今があるのは絶対に自分一人だけの力だけではないはずだ。私たちは、「生きている」以前に自分が「生かされている」ことの感謝しなければならない。

あくなき理想の追求をいくつになってもするのはいいことだ。
でも、それが「現状」から逃げるためのことなら、「青い鳥」はみんな逃げてしまうだろう。

自分の家の籠にいる青い鳥まで逃げてしまわないように・・・
私も青春の古傷が痛むことがある。自分自身にも言い聞かせたい。
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by hito2653 | 2012-12-27 22:22 | 雑感。
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なかなか面白いところがあったので引用しておきます。

職場で「虫が好かぬ」人間がいて、何とも不愉快なことがある。新しい職場に行って挨拶をし、初めて顔を合わしたときに、何となく虫が好かぬやつだなあと思ったが、まさにその通りで、表面的にはなるべく普通に付き合っているのだが、その人のすることなすこと、なんとなく腹にすえかねる感じがして、いらいらしてくる。こんなことを誰しも経験される出あろう。
日本語の「虫が好かぬ」という表現は、なかなか味のある言葉で、私とかあなたとかでなく、「虫」を主語にしているところが面白い。つまり、嫌いは嫌いだが、自分にとっては、もうひとつわけが解らないという感じがうまくでている。

30代の働きざかりの会社員Aさんは、虫の好かぬ同僚について、あれ思いめぐらしているうちに、その同僚が部長と話している態度が一番気に入らぬことに思い到った。
「なんだ、あいつのへつらった態度は」
と思った瞬間Aさんは笑い出してしまった。
「あれは実は俺の姿そのものではないか」と思ったからである。

虫の好かぬ相手は、自分があまり気づいていない影の部分を拡大して映してくれる鏡のようなものである。だから、相手をよくよく観察し、少し余裕をもった気持ちで見ていると、Aさんの経験のようにハッと気づくことがある。

虫が好かないと感じる上司を持ったときは、誰しも随分と苦労するが、こんなときも、自分の感情を押し殺して無理に気に入られようとしても無駄である。「虫が好かない」というような感情は、ほとんどの場合、相互的であり隠しても隠し切れないからである。そんなとき、無理に近づいていくよりかは、少し離れたところで観察し、いったい自分の盲点となっているのは何なのだろうと思ってみる方が得策である。

何のかの言っても、嫌いな人を好きになるのは大変難しい。だから、無理して好きになる努力をすることもないが、前述のような見方をすると、案外面白い発見があり、嫌いな人と少なくとも共存して楽しく生きていける率が高くなるようである。


「虫の好かぬ相手」は自分を映し出してくれる鏡。
なかなかこれも考えさせられます。
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by hito2653 | 2012-12-23 22:00 | 読書
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久しぶりに開いてみた本ですが、読まされる、考えさせられる文章なので引用しておきます。

「働きざかり」というのは、響きのよい言葉である。それぞれの人がそれぞれの職場において、自分の出しうる力を最大限に用いて仕事をしておられることであろう。
「働きざかり」というと、一般に何歳くらいの人を思い浮かべるだろうか。これはもちろん仕事の種類にもよるが、ここではだいたい30歳から40代前半くらいの人たちを念頭にかんがえてゆくことにしよう。

20代のころは、青年としての勢いをもつにしろ、無我夢中だったり、周囲に適応してゆくのが大変だったり、空回りの努力もあるし、「働きざかり」というわけにはいかない。孔子の「三十にして立つ」という言葉どおり、やはり一人前になるのは30歳くらいであろう。そして50歳に近づいていくと、自分では若い者と同じつもりでいたとしても、どこかに体力の衰えを感じ始めるものである。

日本が戦争をしていたころは、働きざかりはすなわち「死にざかり」であったのだ。
現代社会においてはどうだろう。

ある日、30歳すぎの会社員が相談に来られた。
会議中に急に動悸が高まってきて、冷や汗が出てくるし、大げさではなく、「死ぬかもしれぬ」と思うほどの状態になった。様子の激変に同僚も驚いて救急車を呼んでくれた。ところが、医者の診断では別に異常なところはないということで、ほっとすると元気になり、そのごは何事もなく仕事を続けた。ところが、その後しばらくして同様の発作が起こり、今度は以前と別の医者に行くと、「心臓神経症」と言われたのである。

ところで、この人と話し合ってみると、会社の経営方針についての批判が滔々(とうとう)と述べられた。それは、批判というより批難あるいは不満に近い方のものであった。会社への批判は世の中全般へと拡大され、世の中の人たちは利益ばかりを追求して大切なことを忘れている。自分のためばかりを考え、他人を蹴落とすことなどなんとも思っていない、などなど。その勢いのいい話し方に接していて、私はふと大学1,2年生の姿を思い浮かべてみた。われこそは正義の味方であり、世の中はすべてダメという勇ましい姿も、大学生あたりだとサマになるが、30歳の大人ではあまりぴったりこない。
自分の人生に責任を持ち、主体性をもつとき、人間はそれほど簡単に正義の旗ばかり振ってはおれないものだ。
働きざかりのひとは何らかの意味で責任を負わされる。それは会社においても、家庭においてもそうである。責任を持つということは、光と影の両面を背負うことになる。影のほうばかりをみて、世の中こんなものであると割り切るのも馬鹿げているが、矛盾を背負うことによって疲れてくる人もある。
心臓神経症というはっきりしたものでなくても、影を背負いながら心を患う「働きざかり」の人は案外多いものである。

これらの人は、働きざかり、つまり「大人」というものになる関門を越えられず、青年期の間に成し遂げておくべき課題をひきずったままにしているので、疲れてくるのである。あるいは大人という重荷をのせられて青年期の古傷が痛み出したと言ってよいのかもしれぬ。こういった人は過去をふりかえって、自分の弱点を補強し、大人の世界に参入する努力をなさねばならない。



今日、親戚で中堅会社の役員をしていたおじと話をしていたところ、おじの会社も日本法人の450人のうち6名はメンヘルで長期休職している、そうです。
それも、ご多分にもれず、30代―40代の「働きざかり」世代。

友人の会社もだいたい同じくらいの割合、全体の1-2%くらい、同じくらいの比率で休職している人がいるとか。
同じ働きざかり世代として大いに考えたい問題です。

おじによると、おじの会社でも、やはり人の手柄を自分の手柄にしたり、人を蹴落としたり、能力がないのにゴマすりで出世している人もあるみたいです。
おじは言っていました。
「組織とはそういうものだよ。自分の立ち位置は自分で決めたらいい」と。

清濁併せのむ、というのが社会人の常なのではないでしょうか。私は、ひねくれているのか、テレビのドキュメンタリー等でやっている、100%正義の美談も、何か裏があるんじゃないか、と疑ってしまいます。
光と影のなかで、本当の「大人への脱皮」をするのは30代なのかもしれません。

こういうことが社会的に問題になる以前15年以上前に書かれた本、ってところがすごいですね。
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by hito2653 | 2012-12-23 20:30 | 読書
魚三楼でおいしーい昼食を頂いた後は、伏見の大倉記念館という月桂冠の酒蔵見学ができる施設に行きました。

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300円の入館料が必要ですが、お土産に1合の缶の日本酒がもらえるし、色々見れて、利き酒とかもあって、日本酒好きも、そうでない人も行ってみる価値のある面白いところです。

日本酒の作り方とか、昔ながらの製法を学ぶのは興味がそそられます。
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帰りは、「伏見夢百衆」という大正時代に建築された月桂冠の旧本社を活用した喫茶室で利き酒OR酒カステラと水出しコーヒーで休憩。どことなく懐かしさを感じるレトロでおしゃれなお店でゆっくりさせて頂きました。
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会社の仲間と恒例の忘年会。今年は趣向を変えて、「有名料亭」へ
「お昼」に行きました!

それなりの年齢になったので、飲んで騒いでの宴会より、雰囲気とお料理重視で・・ということで今年はミシュラン二つ星★獲得の料亭へ。

しかし、夜となると、手が届かなくなるので、お昼に開催することに。

今回行ったのは、京阪「伏見桃山駅」もしくは近鉄「桃山御陵前駅」から歩いてすぐの
料亭「魚三楼」です。
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単に有名なだけでなく、とても歴史のある名店で、HPでも、
「幕末、新政府軍と幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いでは、魚三楼の前・京町通に布陣した新撰組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだといわれています。表の格子には当時の銃撃戦の弾痕が保存されています。」とあります。
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最初に通された部屋は、すごく広くて、落ち着いた和室。
今日はいいお天気で、あたたかな日差しがお部屋に差し込んでいました。
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お料理はお弁当だったのですが、お刺身とかすごく新鮮だし、丁寧に作られた煮物とか、ひとつひとつが、いちいち美味しい!(笑)
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お酒はここのオリジナルのものを注文。甘くてすっごく飲みやすかった。

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デザートもお芋のプディングと甘ーい梨ですごく美味しかったです。
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これだけのお料理で、おもてなしもよくて、サービス料込で一人8,500円くらいでした。
長時間ゆっくりさせて頂きました。
夜に何軒かつまらないお店をハシゴしたときもこれくらいかかるので、この値段でこれだけの内容なら大満足です。

帰りもお見送りを見えなくなるまでおかみさん達にして頂き、逆に恐縮してしまうくらいでした。

今回の主旨は大成功。
大人になって働いている喜びを感じました。

また今度は親を連れて行きたいな。
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最近たまたまテレビをつけたら、NHKで「オイコノミア」っていう若者向けの経済学番組がやっていて、それが結構面白い。

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ピースの又吉がレギュラーで、経済学者と一緒に経済を学ぶ番組。
なんで又吉がレギュラーなのかは分からないけれど、又吉は読書家ってことで「インテリ」に分類されるからなのかな。

前回は「余暇」がテーマになっていました。

そこでキーワードになるのが、「限界効用逓減の法則」
ミクロ経済学いう「限界」という言葉は、「もー我慢の限界!」とかの「限界」ではなくて、
「何かを追加的に1単位変化させた時に、それがどうなるか?」という意味。
「効用」の意味という言葉も、「この薬の効用が」とかではなくて、「人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準」を言います。

つまり、それが「逓減」する、というのは、例えば富士山頂でジュースを500円で売るボッタクリのお店があったとします。それがボッタクリであったとしても、ものすごく喉が渇いていて、そこでしか買うことができなかったら、買うわけですね。

しかし、2本目を500円では買わない。2本目でも300円くらいなら買おうかな、と。3本目は・・それはさすがに120円くらいしか出さないでしょ。
と、追加的に与えられるにつれて、それを受ける喜びが減っていくので、金額も減っていく・・。これが「限界効用逓減の法則」です。
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一方、「余暇」についても、すごく忙しい人が1日の休暇をもらえるのと、もともと時間がある学生とかが、一日自由時間をもらえるのと、意味が違うのです。
もともと持っている「余暇」の量が違うので、追加的にあたえられたときの満足の水準が違う。

又吉も暇な売れない芸人の頃は、ほしい本を何軒も古本屋を巡って安い値段で買っていましたが、売れっ子となった今は、本屋で新品を買っている。つまり、それを探している時間を時給換算すると、昔と今とでは今の方がずっと機会費用が高いので、高いけれど新品を買って時間を節約している、ということになるのですよね。

そうすると、忙しい人ほど、「有給休暇」の満足の水準が高い。と言えそうです。
しかし、日本人の有給休暇の消化率は世界的に見てもすごく低いとよく言いますよね。

そもそも有給休暇は、
「年次有給休暇は、労働者の疲労回復、健康の維持・増進、その他労働者の福祉向上を図る目的で利用される制度です使用者は、雇用する労働者に対し、所定休日以外に年間一定日数以上の「休暇」を与えなければなりません。 そして、その休暇となった日について一定の賃金を支払うことが義務付けられています。」
とされています。
労働の原則は「ノーワーク・ノーペイ」です。
つまり労務の提供がなされないのであれば、お給料は発生しないという考え方です。
しかしながら、労基法そのものが、この大原則を打ち破る規定、それが“年次有給休暇”で、労基法39条にその規定が設けられています。

労働者の「福祉目的」なので、付与することで労働者の会社への
「忠誠心」をはかる、という効果も期待しています。
ところが、実際のところはその逆で、ふだん全然取得せずに、「辞める前にまとめて取得」する人が多い。
最早「忠誠心」などいらなくなった人は積極的に取得している。これが大変な矛盾ですよね。
それなら、なんのための制度なんだ!と言いたくなります。

国も「休暇」を付与することで、「忙しい人にお金を使ってもらう」ため、新たな国民の休日を考えるなど、戦略的に経済政策として「休暇」を考えているようですが、多方面の団体からの意見があり、なかなか調整がうまくいかないそうです。

忙しい人ほど、「追加的にあたえられたときの満足の水準」が高い。したがって「所得が高いが時間がない人」に余暇を与え、お金をたくさん使ってもらう。そうすることで、ある程度の経済効果が期待できそうですね。

人的な余裕がない会社がほとんどだと思いますが、有給休暇と社会全体での経済効果について考えさせられました。
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