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約100ページの小説の4編から成り立っている文庫です。
どれも「家族」を描いていて、リアルな描写に引き込まれていきます。

「課長代理って偉いんですか」
受け取った名刺に目を落としたまま亜弥が訊いてきた。

なんか出だしから、リアル(笑)

卒業、というのは学校とかの「卒業」とかかなーと思っていたらそうじゃなくて、
「こころ」の中での「卒業」

それぞれの「卒業」

エンコーまがいのことをやっていたバカタレの中学生はもうバカやってられない、専門学校に行く、といって「卒業」していった。

「卒業すること」は「捨て去ること」や「逃げてしまうこと」とは違う。

生きていれば、いろいろな転機がやってくる。
転職、結婚、そして「死」などで愛することを失うこと。これも避けられないことかもしれない。

忘れ去ることや逃げることでなく、「卒業」

「卒業」しなくてはいけないときは、どこからともなくやってくる。
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by hito2653 | 2012-09-02 23:03 | 読書
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「背中の意識を蘇らせる」

紋付きというのは(ときどき時代劇漫画で間違って描いていることがありますが)家紋が5つついています。胸に2つ、袖の後ろに2つ、大きな紋が背中に1つ。
つまり家紋は3対2の比率で「後ろから見られるもの」なのです。家紋は、背中に背負う家格の象徴です。気安く触れられたり、泥をつけられてはいけない。非常に大切なものを背中の真ん中に背負っていたわけです。
人間が身につけている一番大切なものは、「自分で見ることができず、他人から見られる部位」に貼り付けられていたのです。

ご存知のとおり、武士がすれ違ったとき、刀の鞘を当てるのは無作法の極限です

自分の刀に鞘当てされた場合は、すれ違った瞬間に「無礼者」と言って切り捨てるもの「あり」、というほど無作法なのですから、刀を指している人間は必死です。絶対に他人に触れられてはいけないものを、自分の目から数十センチも突き出しているわけです。昔の侍が背中にどれほど意識を置いていたかは、このことを考えるとよくわかると思います。

そうやって昔の人は視野に入ってこない背面に対しても絶えず意識を張り巡らしていました。


本書ではこういう、見えないところを意識する日本人の感性、「他社意識」が「はしたない」、「さもしい」「下品」という規範を産み、そういったローカルルールが人倫をささえてきたと言っています。

たとえば、武士は人をかき分けて、誰かが落とした金を拾うようなことはしなかったはずです。「さもしい」とされ、それこそ「後ろ指」を差されてしまいます。

昔、中国で、バスで空いた席を我先に、と座る人たちを見て、閉口したことがあります。
自己中心的に対する怒り、というよりかは、「そこまでして座ったことによる、快適さ」と「周りの人の白い目」を天秤にかけたら、後者のほうがよほど大きいのに、そういう感覚はないのか、ということに対する違和感でした。

「背中の目を気にする文化」
私も鈍感な方です。気をつけたいと思いました。
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by hito2653 | 2012-09-02 22:48 | 読書
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「交換は楽しい」
ドフトエフスキーの「死の家の記録」に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しというような仕事に人間は耐えられません。

しかし、同じような労働であっても、そこに他者との「やりとり」さえあれば人間はいきてゆけます。たとえ、穴を掘って埋めるだけというような作業でも、人がいて、一緒にチームを組んで、プロセスの合理化とか、省力化についてあれこれ議論したり、工夫したりしながらやれば、そのような工夫そのものに人間はやりがいを見出すことができます。
後で埋めるだけの穴であっても、うまく掘ったり、手間をかけずに埋めるノウハウを開発して同僚から敬意を勝ち得るということがあれば、人間はそんな仕事にも喜びを見出すことができます。

仕事の話で忘れがちなのは、このことです。
仕事の目的は結果として価値あるものを作り出すことだけではないのです。
人間が仕事に求めているのは、突き詰めていば「コミュニケーション」です。

やったことに対して、ポジティブなリアクションがあると、どんな労働も楽しくなります。人にとって一番辛いのは、自分の行いがなんの評価も査定もされないことです。

要するに、「やりとり」をするのが人間の本質だというのです。
それさえ満たされば、人間はかなりの満足を得ることができます。
「やりとり」というのは「交換」のことです。
人間は交換がすきなのです。


「ビジネスとレイバーの違い」

マーケットのよいところは、原則としてクオリティーの高いものをリーズナブルな価格で提供すれば、評価してもらえるということです。
自分があるビジネスモデルを創り出したとき、そのモデルが正しいか、正しくないのかの検証が非常に速い。マーケットがすぐに答えを出してくれます。

「ビジネス」は、自分自身が変化したり工夫したりしたことの結果がすぐに評価される。自分自身の仕事のクオリティーがとりあえずすぐに検算できる世界です。
「ビジネス」というのは、そういうものです。

「レイバー」はそれとは違います。この二つは別物です。二つとも「仕事」と訳されますが、この二つは違うものです。

やることは決まっている。うまくやっても別に褒められまいし、決まった通りのことをしなかったら怒られる。そういうのがレイバーです。それはビジネスではありません。

人は自分が人間的な美質というものを持っていれば、必ず評価されるという、そういうマーケットの現場に身を置くべきです。自分がやったことがちゃんと反応として返ってくる環境です。


よく、「働き方」についての自己啓発本に、「レイバーかワークか」と書いてありますが、この本では「ワーク」ではなく、「ビジネス」と書いています。

自営業ではなく、たとえ人に雇われて働くサラリーマンでも自分の働きの対価に賃金をもらうなら、
「ビジネス」という考え方になりますね。

そこには、コミュニケーションがあり、反応(評価)がある。

しかし、会話がなく、評価もされないような職場であれば、ドフトエフスキーの「死の家の記録」の拷問にあるような、無言で穴を掘って埋める、そういう レイバーになっているのかもしれません。
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by hito2653 | 2012-09-02 22:00 | 読書