カテゴリ:歴史勉強ブログ( 56 )

薩長ともに討幕になり、しかも薩長連合があるのだから、明日にでも幕府を倒すことができる、と思いきや、大事な人を忘れていませんか。

そう、孝明天皇です。
孝明天皇は公武合体論者ですから。

ここでどうなるかと言うと、ふっと孝明天皇が死にます。
これも1866年12月のことです。

体じゅうに紫色の斑点が出たと言いますから、硫黄系の毒の症状かと思われますが、とにかく亡くなります。

そのあと、1867年1月に明治天皇が即位すると、薩長連合は、朝廷内の討幕派である公家の岩倉具視と組んで、討幕の密勅を出させるように画策します。

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密勅の内容は「10月14日に討幕の行動を起こせ」というもの。

一方、討幕を何とか避けたいと思っていたのが坂本龍馬なんです。005.gif005.gif005.gif

龍馬というのは、新しい政府の骨格を作った人だから、幕府を倒した人だろうと思っている人が多いようですが、彼は「公儀政体論」者です。

龍馬の国家思想「船中八策」に出てきますが、将軍が議長になり、公家、諸大名、下級武士が構成員である議会を作り、議会政治により国家を運営していこうという考え方です。006.gif

龍馬がそれを考えたのは、日本が欧米列強の植民地になってしまうことを恐れたためです。討幕が起こると、日本は内紛状態になります。

列強は混乱に乗じて植民地化するか、なんらかの権益を得ようとし、相手国に内紛が起こるのを待っているわけです。008.gif

しかし、坂本龍馬は下級武士ですから、将軍に直接会って話ができる立場にはありません。
そこで、坂本は土佐藩の後藤象二郎という上級武士と結託して土佐藩主・山内容堂を動かし、
大政奉還をするように将軍を説得してもらったわけです。

山内容堂なら、将軍とサシで話ができますから。
大政奉還というのは、征夷大将軍として与えられていた権限を朝廷に返納するということです。その段階で幕府はなくなります。滅亡するのではありません。消えてなくなるのです。

前述したとおり、すでに「10月14日に幕府を倒せ」という討幕の密勅が出ています。
しかし、10月14日の段階で幕府が存在しなければ、倒すにも倒しようがありません。

つまり、討幕の密勅を有名無実化するのが大政奉還なのです。

京都の二条城は江戸時代、徳川将軍家の上洛時の居城でした。15代将軍慶喜は二の丸御殿の黒書院で大政奉還の意向を示しました。

その頃の明治天皇はまだ15歳。
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徳川慶喜は、山口容堂の説得を受けて公儀政体論に乗っていこうと決意しますが、それは議会で重要なポストにつけば、いずれまた幕府ができて将軍の地位に戻れるかもしれない、という腹づもりがあったことでしょう。

一方、討幕派はせっかく幕府をなくそうとしているわけですから、そんなことになっては意味がありません。それをやらせないようにするのが、12月9日の王政復古の大号令です。

さらに、新政府の首脳の最初の会議として京都の小御所で行われた小御所会議で、徳川慶喜に対し、朝廷内のすべての権限をはく奪する内容の要求がなされます。

徳川慶喜にしては、自分から引退したくて大政奉還したわけではないので、そんな要求は呑めません。

会議の決定を拒否し、大坂城にたてこもってしまいます。
こうして、坂本龍馬がもっともおそれていた内戦、戊辰戦争がはじまってしまうのです。008.gif

では当の坂本龍馬はどうしていたか。
王政復古の大号令の1カ月ほど前、11月15日、京都の近江屋で盟友・中岡慎太郎とともに暗殺されていたのです。

戊辰戦争・・・
つまり、龍馬がもっともおそれていたことが起こってしまったわけですが、イギリスやフランスにしてみれば、「待ってました」と大喜びです。

大坂城に引き返した旧幕府軍は、体制を整えて京都に攻め上がりますが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、徳川慶喜は逃げ帰ります。

新政府軍が慶喜を「朝敵」として追討することを決定したことで、江戸を舞台に全面戦争に発展しかねない重要な局面を迎えることになります。

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ここに登場するのが、坂本龍馬にそうした考え方を教えた勝海舟です。

1868年3月、江戸の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が会談。
4月に江戸城の無血開城となり、戊辰戦争の大勢が決します。

こうして、坂本龍馬がおそれていた最悪の事態は、師である勝海舟によって救われることになったわけです。072.gif
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▼整理図
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さて、池田屋事件⇒禁門の変⇒四国艦隊下関砲撃事件・・・
と続きますが・・・

1864年は長州にとって受難の年。007.gif007.gif007.gif
その結果、長州藩は尊王攘夷をやめて、幕府に恭順の姿勢を見せます。

これに反発するのは長州の下級武士
尊王攘夷だからこそ、それを実現するための鉄砲玉としての役割があるのに、それが恭順になってしまうと、またしがない下級武士に逆戻りになってしまいます。

そこで、1864年12月長州藩士高杉晋作を中心とする奇兵隊がクーデターを起こし、長州藩の実権を掌握します。

このころには、さすがに高杉や桂小五郎(木戸孝允)も攘夷は無理だとわかっていますから、「尊王」だけが残ります。

朝廷を中心にした国づくりをするには、このまま幕府に任せておくわけにはいかない、ということで「討幕」という考え方が生まれてくるわけです。

このあと、薩摩藩でも徐々に下級武士が実権を握っていきます。大久保利通や西郷隆盛らですよね。

こうして、長州藩と薩摩藩という力のある2つ藩で、いずれも下級武士が実権を握るようになると、そこに目をつけたのが土佐の坂本竜馬です。
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土佐藩というのは、上級武士と下級武士の身分差がすごく、厳しい差別があった藩です。
だから、下級武士というのは一人では弱い。

したがって、一つの藩で下級武士が実権を握ったところで、まだまだ弱い。
そこで坂本竜馬は下級武士による連合体を作り、多くの藩の下級武士たちが連帯すれば、一大勢力となり、幕府、朝廷、大名たちに対し、平等にものが言えるようになると考えたわけです。072.gif

坂本竜馬はまずそれを薩摩と長州にもちかけます。
薩摩や長州も、下級武士が実権をもったところで単体では弱いと考えていたため、坂本龍馬の要請に乗って、やがて薩長連合を結んでいくことになります。
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禁門の変の後、恭順の意を示していた長州ですが、下級武士に実権が移っていくにつれ、藩内世論も討幕に傾斜していきますから、当然に幕府の言うことを聞かなくなります。

そこで14代将軍家茂は、1865年4月、二度目の長州征討の命令を出します。033.gif

そのときに家茂があてにしていたのは薩摩藩の軍事力なのですが、そのころには下級武士たちの連合が出来ており、なかなか動こうとしません。また1866年1月には薩長連合が成立してしまいます。

薩長連合は秘密裏の連合なので当然、幕府には報告していません。

そうとも知らず家茂はしびれを切らし、1866年6月長州征討を決行。
しかし、その直後に総大将の家茂は大坂城中で病死します。007.gif

病死と言うことですが、暗殺説もあります。こうして、第二次長州征討は幕府方の大敗に終わったのでした。
この後の1866年12月、最後の将軍15代将軍徳川慶喜が就任します。
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徳川慶喜は非常に頭のいい人物であったことで知られています。
前の坊ちゃん育ちの家茂とは違い、幕府がダメになった要因もわかっています。
それは諸藩に意見を挟む余地を与えてしまったこと。

慶喜は徹底した中央集権体制を取ろうとする。つまり、すべてを幕府が決めていくということですね。またそれが自分でも出来ると思っていたのです。

慶喜がなんでも自分でやっていこうとしたときに、それを最も強く反発したのが、当時まだ表向きはまだ幕府に近い存在とされていた薩摩藩です。

中央集権体制と言えば、ペリー来航以前の幕藩体制に戻ること。すると薩摩はまたただの外様大名に逆戻りです。015.gif

その結果、薩摩藩は慶喜を見限ります。要するに、公武合体の「武」を見限るわけですから、「公」だけになり、ここで薩摩も討幕に傾斜していくわけです。ここで薩摩と長州のどちらも討幕で一致します。051.gif
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池田屋事件の跡地といえば、新撰組好きの人にとっては聖地みたいな場所、と言いたいところだが、場所は三条木屋町、という京都でもかなり賑やかな繁華街にあり、今は居酒屋になっている。聖地と言えば、もっと西の壬生寺の方になるのか。023.gif
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それでも、居酒屋の前はパチンコ屋だったのだから、まだ「マシ」とも言えるが、どうせ作るならもっと風情のあるお店にしてほしかった。経営しているのはチムニーという東京の大手居酒屋チェーンで、「池田屋」の名前をネオンに入れたに過ぎない。
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ちなみにこれは映画村のセット。こんな感じにすればよかったのに・・・なーんて。011.gif

ところで、恥ずかしながら池田屋事件について詳しく調べたことがなかったが、
調べて分かったことは
そのとき新撰組によって制圧された尊王攘夷派がかなり過激なことをやろうとしていたということ。

以下wikipediaより
土方歳三の拷問により炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)を自白させる。

自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものであった
(ただし、これは自白のみで裏付ける客観的な証拠がなく、新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪の可能性がある)

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋をたため難を逃れた。

作家の司馬遼太郎は、「この事件がなかったら薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」と解釈している。


すごい歴史が動いた事件だったんやね。
それにしても、池田屋事件、寺田屋事件、近江屋事件
ぜーんぶ京都でよく似た年代でもありややこしい・・・008.gif008.gif008.gif

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寺田屋は京都でも郊外の伏見の船宿だったそうで、今も「寺田屋」という建物が建物が建っているが、これは再建されたものらしい。

しかも、寺田屋事件は2つあるらしくて、またこれもややこしい。007.gif

1. 文久2年(1862年)に発生した薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件。
2. 慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。


ちなみに池田屋の変は1864年
1は、薩摩藩内の内ゲバというやつか。島津久光が制圧。
2.は京での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行が暗殺しようとした事件。
いち早く気付いた妻のお龍が風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた、というエピソードも有名である。012.gif

ちなみに龍馬と お龍「結婚式場」跡は(青蓮院塔頭金蔵寺跡)にあるそうだ。
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最後に近江屋事件
これは、本当に(?)坂本竜馬が暗殺された事件。
場所は河原町通蛸薬師下ルというこれまた街中。

1867年、王政復古の大号令の1カ月前に、京都の近江屋で盟友、中岡慎太郎とともに暗殺された事件。
ここも、街中ということもあって、跡地がコンビニ、というなんとも風情のない感じだったのが、ごく最近整備されたようだ。003.gif
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1862年、島田久光が改革を進言して薩摩に帰る途中、横浜で生麦事件を起こしてしまいます。
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これは島津の行列の前を横切ったイギリス人を、藩士が切り殺してしまうという事件です。

島津は幕府と同じ公武合体論だったはず。それなのに、なぜ外国人を切り殺すのか、と不思議に思う方もいるかと思いますが、薩摩藩は公武合体論ではあるけれど、あくまで攘夷目的の公武合体論推進論者でしたよね。

ここで考えなくてはいけないが、西洋人の発想には「やられたときは、やり返さなければ負けを認めてしまうことになる」という考えが根底にあるということです。今はやりの「倍返し」ですね。こういうことをすると、彼らは必ず報復を起こす。031.gif

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それが翌1863年の「薩英戦争」です。生麦事件への仕返しとしてイギリス軍が鹿児島湾に進撃してきます。
当時の薩摩藩は、日本でも有数の軍事力を誇る藩でした。
その絶対的な薩摩の軍事力も、イギリスのたった一隻の軍艦によってなすすべもなく、砲台も何もかもが壊滅状態になってしまう。

そこでやっと薩摩は、攘夷と言うのはどだい無理だとさとるわけです。008.gif
その後、考え方が変わって、攘夷からどちらかというと幕府に近い考えになります。幕府に近くなるということは、長州との距離が遠くなるということです。
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次に長州藩の動きです。
薩英戦争の2カ月ほど前、1863年5月10日 長州藩が下関の砲台から航行中の外国船に向けて砲撃するという出来事がありました。(長州藩外国船砲撃事件

それで「わが藩は攘夷を実現した」なんて喜んでいたわけですが、死者も出ず、単に小さなボートを沈没させただけです。

長州藩には、孝明天皇を担いで、攘夷運動を進めようという動きがり、朝廷の警備をする役職に就いていることもあって、京都では長州藩が実権をにぎっているようなところがありました。

これは、公武合体を推進していた幕府にとってまことに都合が悪いわけです。
幕府と考えが似てきた薩摩藩と会津藩も尊王攘夷運動に抵抗し、長州藩士や三条実美など尊王攘夷を唱えていた公家たちを京都から追放します。これを八月十八日の政変、もしくは有力な公家が七人いたことから七卿落ちといいます。

●第一次長州征討
翌1864年になると、6月に京都で、有名な池田屋の変が起こります。071.gif071.gif071.gif
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新撰組が池田屋という宿で密談をしていた尊王攘夷派を襲撃した事件です。

新撰組は幕府が作った組織で、隠密ではないけれど、文書には記されていない秘密組織です。

設立の主な目的は京都における尊王攘夷派の動きを阻止することと言われています。

池田屋事件の報を聞いた長州藩は、激怒して京都に攻め上がり、御所の蛤御門のあたりで薩摩・会津連合軍と交戦します。これが禁門の変蛤御門の変です。
長州藩の完敗に終わりますが、このときに長州藩の松下村塾出身の逸材、久坂玄瑞が自決してしまいます。

そして、8月に朝廷は幕府に対して長州征討を命じるわけです。
しかも、同じ8月におそらく幕府の長州征討を聞きつけてだと思いますが、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が前年5月10日に起こった外国船砲撃に対する報復をします。これが四国艦隊下関砲撃事件です。
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2つの公武合体論と尊王攘夷(歴史勉強メモ)

まず、幕府ですが、井伊大老暗殺後は、公武合体路線をとることになります。
文字通り、公家と武士が一つになってこの難局を乗り切ろう、という考え方です。

一方、孝明天皇の朝廷側も公武合体論路線をとるのですが、その目指すところは180度違います。

幕府の公武合体論は、開国和親、つまり
「外国とともに世界の一員としてやっていくには日本は一丸とならなくてはいけない」

それに対し、孝明天皇の公武合体論は攘夷目的
「外国を追い出すために日本が一丸とならなくてはいけない」というわけです。

目的は180度違いますが、どちらも公武合体を求めていたため、井伊直弼のあとの幕府の中心となっていた安藤信正の進言もあり、14代徳川家茂のもとへ皇女・和宮の降嫁がなされます。

このときの薩摩藩は朝廷とほぼ同じ考えで、攘夷目的の公武合体論で、
長州だけが尊王攘夷です。
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尊王攘夷というと、幕府を倒すことだと勘違いされがちですが、そういう意味ではありません。ペリーやハリスの圧力に屈する幕府なんてたよりにならない。あんなの放っておいて孝明天皇を中心に攘夷をやっていきたい、という考え方です。

尊王攘夷派は、幕府が絡むとろくなことがない、と和宮降嫁にも反対し、江戸城坂下門外で安藤信正を襲撃します。(坂下門外の変)

この変をきっかけに「公武合体」はトーンダウンします。
公武合体を声高に唱えると殺される可能性がありますからね。
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これに危機感を感じたのが薩摩の島津久光です。
島津は、将軍家茂に対し、幕府の改革をせまり、公武合体を主張。

幕府が島津の進言を容れて進めたのが文久の改革です。具体的には安政の大獄で弾圧されたり、窓際に追いやられた改革派の人たち、一橋慶喜らを政治の中心に戻します。

もうひとつは、江戸から遠い薩摩の藩主らしいものですが、参勤交代を3年に1回にしてしまう。後から考えると、これによって薩摩は財力を蓄えることができ、最終的に幕府を倒す大きなポイントとなってくるわけです。

また、この後島田久光が改革を進言して薩摩に帰る途中、横浜で起した生麦事件で今後の薩摩の立ち位置を大きく変えることになります。
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「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老・井伊直弼は文化12年(1815)10月25日に彦根藩第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。

▼これは「ひこにゃん」です・・・
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普通ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼もずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまった後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子となり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。
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井伊直弼といえば、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行し、また強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺・・・(桜田門外の変)と、あまりいいイメージをもっている人はいないかもしれません。

ちなみに、安政の大獄は「開国」以外にももう一つの伏線があります。
将軍継嗣問題です。13代将軍徳川家定には病弱なうえ子供がおらず、次の将軍をだれにするかで「一橋派」(改革派・一橋慶喜)と「南紀派」(家柄重視・徳川慶福)の派閥対立が生じていました。

南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで、一橋派を押し切り、徳川慶福が次の将軍に決定します。これが14代徳川家茂です。

井伊直弼の暗殺後は、幕府は公武合体路線をとるようになります。それについては後ほど。

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タイトルの話題に戻りますが、
井伊直弼は大変な文化人であったということでも知られています。
部屋住みの時代に儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯、能楽などの多数の趣味に没頭していました。

なかでも茶の湯では「宗観」の名を持ち、若い頃からさまざまな茶書を研究していた直弼は、石州流を経て31歳の頃に自分で茶の湯の流派を立てることを決意します。
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「一期一会」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。一期(一生)に一度だけしかない出会いを大切にしようとする茶の湯の名言として知られています。(飲み屋で使われたりもして、茶道が由来ということすら知らない人も多いと思いますが・・・^^;)

しかしこの言葉が井伊直弼の「茶湯一会集」から生まれたことはあまり知られていません。
また、「茶湯一会集」には「一期一会」の他にも「独座観念」という言葉も残しています。以下ご紹介いたしますが、これも日本の誇るもてなしの心の究極を語っているのではないかと考えます。

独座観念 —茶会の終わりに—

主客とも余情残心(よじょうざんしん)の中で別れの挨拶をする。客は露地を帰るその道すがら、どんなに感動が深かったとしても大声でしゃべるものではない。亭主は客が見えなくなるまで見送り、戻って一人炉の前に座る。二度と繰り返すことのできない貴重な一期一会であったと観念しながら、一人茶を点てて自己と向き合うのが一会の極意である。
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