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賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ったことよって、織田信長の後継者が秀吉であるとほとんどの人が認めるのですが、ただひとり難癖をつけた人がいます。048.gif

徳川家康です。そこで始まったのが1584年の「小牧・長久手の戦い」です。005.gif

「信長の後継者は、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)である」と。

家康自身は、織田信雄を後継者に立てて豊臣秀吉を倒そうなどとは、恐らく考えていなかったでしょう。むしろ、そういうことを言っておいて、落としどころを見つけてから退くという考え方だったのかもしれません。046.gif

もちろん来るべき秀吉の政権下でみずからのポジションを確立するためです。
危険な賭けではありますが、家康というのはそういうことをよくやる人です。

ここで両者が和睦し、その結果、秀吉が信長の後継者であるということを反対する者は誰もいなくなります。

明智光秀を倒した頃から、秀吉はいわゆる「太閤検地」をはじめています。056.gif
これにより、それまでの荘園制度は一気に崩壊していきました。070.gif

その後は、名目ではなく実質的に天下統一をする時期。
まず、1585年に長宗我部元親を降伏させて四国を平定。
南蛮貿易などで先進した地域である九州を制圧したら、あとは関東と東北だけです。

京都を都とする時代感覚からすると、残ったのは田舎の地域だけということですから、この時点で実質的には日本の支配者になったと言えます。
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そして1585年には関白に任じられます。
あれれ、いくら秀吉が全国を力で支配し「オレを関白にしろ」と共用しても、関白には五摂家(一条家・二条家・鷹司家・近衛家)からしかなれないので、そうかないません。

そこで、まずは近衛家の養子になり、一旦近衛秀吉になり・・・
さらに、当時の後陽成天皇に対し、五摂家よりも上位の格を要求します。そこで朝廷がつけたのが、秀吉のために特別に作った「豊臣」という姓。049.gif

ここで豊臣秀吉となり、そのうえで太政大臣になります・・・!

つまり、「関白太政大臣」
その立場で全国の大名に対して「惣無事令」を発します。

「豊臣秀吉が関白として天下の頂点に立ったのだから、もう戦いはやめなさい。これからは、戦闘でなく、私がすべての領土を決めていきます」ということです。

ここからは秀吉による全国統一の完成の後半!

1587年にバテレン追放令、1588年に海賊取締令を出します。
そして朱印状がないと貿易できないという朱印船貿易を始める・・・

1588年、秀吉は自分が京都に建てた聚楽第後陽成天皇を招待します。天皇だけではなく大名のほぼすべてを呼びます!
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まだ奥州や関東は平定していないので、伊達や北条はいませんが、服従した諸大名はみな顔をそろえます。

そして天皇の見ている前で秀吉への忠誠心を誓わせるのです。
戦国大名にしてみれば、天皇というのはみたこともない存在ですよ。彼らをその前に引き出して、ひとりひとりに忠誠を誓わせる、なんてことをするわけです。

1588年には天正大判を出します。通貨を発行するのは自分が支配者であることを人々にPRするためなんですね。
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そして1590年に小田原攻めで北条氏を倒し、同年の奥州平定で伊達氏を服従させ、これで名実ともに全国統一の完成です。

こうして秀吉は織田信長がなしえなかった全国の支配者となったわけですが、その信長が印判に書いた文字は「天下布武」
これは天下を武力で統一していくという考え方です。

つまり、信長がやったのは実質的なところばかりです。そこばかりに汲々として権威の後ろ盾をないがしろにしたところが謀反人を出す背景になったのかもしれません。022.gif

秀吉はつぶさにみていたのではないでしょうか。072.gif
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織田信長 全国統一目前・・!

さて、大名のトップ、当時のナンバーワン大名は誰かというと、武将の数、軍事力、編成力、どれをとっても・・
武田氏に勝る大名はいません。004.gif

そこで、1575年、長篠の戦い(愛知県新城市長篠)で武田勝頼の騎馬隊と戦うことになります。
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当時、武田氏が強かった理由は騎馬隊にありました。馬で戦うには高いスキルが要求されますから、いい武将を集めないと騎馬隊では勝てません。013.gif

織田は騎馬隊能力では明らかに武田氏に劣っていました。そこで、身分の低い足軽を使って鉄砲隊を組織し、それで対抗して勝利します。つまり、まるっきり従来の戦法を変えることで勝ったのが長篠の合戦というわけです。005.gif

そして、翌1576年に安土城を造ります。これは、「武田を破った自分こそ、全国の大名の頂点なんだ」ということを知らしめるのが目的です。

戦いを目的にとするのではなく、みずからの権威の象徴として豪華な城を築くわけです。古墳時代の5世紀、権力者が競って巨大な古墳をつくったのと似ているかもしれませんね。003.gif

そして1582年、天目山の戦いで武田氏を滅亡させます。047.gif

これで、天下統一事業への道のり95パーセントくらいを終えたわけですが、完成を目前にした同年1582年6月、京都の本能寺で、家臣の明智光秀に攻められ死んでしまいます。これが本能寺の変です。
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当時は織田信長の後継者が羽柴秀吉だとはだれも思っていません。
備中(岡山県)高松城で水攻めをやっていた羽柴秀吉は。本能寺の変を聞くや、すぐさま相手方の毛利氏と和睦します。
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そして山﨑の合戦(京都府乙訓郡大山崎町)で織田信長を討った明智光秀を討ちとります。これでも、信長の後継者が秀吉だとはだれも思いません・・?!

では、重臣たちは信長の息子を後継者と考えていたかというとそうでもない。
まだ戦国時代の発想ですから親から子へ継いでいくのではなく「天下持ち回り」なのです。

それでいくと、信長の後継者としてもっとも力をもっていたのは越前の柴田勝家でした。

1582年7月に開かれたのが有名な清洲会議。信長の後継者を決める会議です。

清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられました。この時の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへ影響します。
そこで秀吉は1583年、その柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒します。

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ここで外せない人が、柴田勝家の正室、織田信長の妹のお市の方。
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この人は、もともと21歳で浅井長政と結婚しましたが・・・
お市の方が浅井の裏切りを察し、兄信長にいち早く知らせた、という逸話は有名ですね。

その後、柴田勝家と再婚するも・・秀吉との対立により賤ヶ岳の戦いが勃発する。
3人の娘たちと住まっていた、勝家の北ノ庄城は秀吉軍に包囲され、勝家はお市の方と娘たちを城から落とそうとしますが、お市の方は、3人の娘たちだけを城から落とし、自分は勝家の手にかかって死ぬ事を選びました。

お市の方の3人の娘は、その後秀吉に庇護され、長女茶々は秀吉の側室(淀殿)となり、秀頼の生母となります。(のち大坂の陣で自害。)二女初は、京極高次に嫁ぐ。三女、小督は佐治一成室となるが、秀吉の命で秀吉の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、徳川秀忠正室となり、お江与と呼ばれて、三代将軍家光、二男忠長を生みます。のち崇源院。

そして、柴田を倒したその年に、秀吉は大坂城の築城を開始します。織田信長が長篠の戦いで武田を倒した直後に安土城をつくりましたが、それとまったく同じです。
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しかも、その大坂城を当時の宗教勢力の頂点にあった、一向宗石山本願寺の跡地に、全国トップの証としてつくるわけです。

これは、大名勢力と宗教勢力の両方とも制圧したということを全国に示すことになります。

秀吉と言えば大坂のイメージがなんとなく強いですが、秀吉はほとんど大坂にはいなかったようで、重要なことはすべて京都で行いました。それなのにわざわざ大坂城を作ったのは、以上のような意味があったからといえます。
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安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいいます。
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織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城※今はありません!(桃山)から、このように呼ばれ・・・
特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼びます。

ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではありません。
・・・・・・・・・・・!!

そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となりますが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張さえあり、近年は織豊時代という呼び方も広まっています。

後に説明する、豊臣秀吉の時代について簡単に見ておきましょう。
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本能寺の変に対し、羽柴秀吉はいち早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破ります。(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年1583年には大坂城の築城を開始。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本を統一し全国で検地と刀狩りを実施させ政権の安定に力を注ぎます。また、文禄1年(1592年)秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こすも、経由地であるはずの朝鮮で戦況は膠着してしまいます・・・
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「桃山文化」
「桃山文化」ば美術史に於いて重要な時代と位置付けられています。
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安土桃山時代には、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られます。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられます。
茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響しました。映画「利休にたずねよ」を見れば、その様子がうかがえますね。
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特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられます。まだ小規模ではありましたが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要です。

●絵画
狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた
濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
●水墨画
風俗画

主な絵師と代表作
●濃絵
狩野永徳:唐獅子図屏風
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狩野山楽:牡丹図、松鷹図
長谷川等伯:智積院襖絵楓図
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長谷川久蔵:智積院襖絵桜図
●水墨画
長谷川等伯:松林図屏風
海北友松:山水図屏風
●風俗画
狩野永徳:上杉本洛中洛外図屏風
狩野内膳:豊国大例祭図屏風
南蛮屏風

●漆器
高台寺蒔絵
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高台寺は京都市東山区の臨済宗のお寺ですが、豊臣秀吉の正室であるねね様<北政所(高台院)>が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院として有名ですね。
●陶器
楽焼
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織部焼

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●茶道
わび茶

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なお、桃山文化を代表する城のひとつといわれている姫路城は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張されたものです。

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!!!以前自分のブログでとある勉強会に参加し「桃山文化」について学んだ記録があるのでコピペしておきます。私のノートなので、正確性は保証できないかもしれませんが・・

日本芸術を見るにあたって、転換期として重要な時代は、
「桃山時代」だそうだ。

これまでの戦乱の世の中から、一応の「平和」が訪れ、平和的な題材が多くなっている。
「憂き世」から「浮き世」への転換しつつある時代。

そこで、庶民からの芸術家も多く現れる。
王朝文化への憧れから、源氏物語や伊勢物語を題材とした絵なども多く見られる。

町衆の中でも、先陣を切っていたのは、かの有名な「俵屋宗達」
ご存知のとおり、琳派の、尾形光琳も宗達の作品に大きな影響を受けたといわれている。

しかし、わかっているのは、「京都の扇屋であった」ということくらいで、生没年すら不詳の宗達。
ただ、町の絵師では異例の「法橋」の位が与えられていたことも分かっており、「法橋宗達」の名が残されている屏風もある。

そして尾形光琳も、もともとは京都の裕福な呉服屋の生まれであった。
しかし、時代が変わり、商売が傾いた際、せっかく集めた芸術品を質にいれなくてはいけなくなったそうだ。
その際、宗達の屏風を「寸分違わずトレース」したそうである。そののち、世界にも衝撃を与える芸術家になったということは言うまでもない。
つまり、京都の町衆が、日本芸術に、いや世界に大きな影響を与えていたのだ!!
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1560年 桶狭間の戦いで勝利し、スーパースターとなった織田信長。

しかし、ただ「おれは京都に言って支配者になるんだ」と言っても、まわりの支持は得られません。
そこで有名無実化しながらも、まだ細々と継承されていた将軍を利用します。
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ここが非常に日本的なところなのですが、朝廷とか幕府とか後ろ盾をつけないと、実質的な支配者としてなかなか周りからの支持は得られないんですね。

このときの将軍は13代足利義輝ですが、これが1565年、山城を支配していた松永久秀に暗殺されます。
松永久秀は歌舞伎でもいちばんの悪役として登場しますが、彼は細川晴元を三好長慶が下剋上し、さらにその三好を下剋上したのが松永久秀です。
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そして、足利義栄(よしひで)を14代将軍にしたのです。

しかし、織田信長はこのようなことを言いだします。

「本来、将軍になるべきは、義栄ではなく、直系である13代の弟君、足利義昭だ。松永久秀のせいでねじられた現状を正すため、おれは京都に行くぞ」
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こうした名目を立てて、京都に入ったが1568年の出来事です。

そうした思惑から織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は必ずしも信長の言いなりにはならない。

「自分は将軍であって、信長が偉いわけではない。なぜ信長の言うことを聞かなければならないんだ」ということで、足利義昭は信長と対立し始めますが、もちろん義昭ひとりでは信長とは対決できません。

そこで、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺を味方につけて信長と対抗しようとします。
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そうした状況の中で信長は1570年姉川の戦いで浅井と朝倉を倒し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまいます。

かつて平氏が滅んでいく大きな原因となったは、南都(興福寺、東大寺)の焼き討ちでした。だから義昭にしてみれは、信長が宗教勢力に対抗して延暦寺を焼き払うなどとは思ってもみなかったのでしょうね・・。

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ちなみに、浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城(滋賀県長浜市)を嫌い、1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました。(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。

あと残るのは足利義昭だけ。将軍としての権威はあっても力はまったくありませんから、信長は正親町(おおぎまち)天皇と結んで将軍職を廃位にして。義昭を京都から追い払います。ここで、室町幕府もついに滅亡を迎えることになりました。

当時の政治基盤が京都なら、経済基盤は大阪です。そこで1569年、信長は堺を制圧し、支配下に置きました。
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●一向宗の弾圧
当時もっとも力を持っていた宗教勢力は一向宗(浄土真宗)で、その本拠地は大阪の石山本願寺です。

これが寺内町といって、お寺の敷地の中に町がある。つまり、町全体がお寺という広大なものでした。しかし、そのすぐ南にある堺が信長の直轄となりましたから、一向宗にとっては脅威の存在となります。

そこで1570年、つまり信長が堺を支配した翌年に一向宗の信徒たちが信長に対して挙兵し、石山戦争を始めます。

それが収まった後、1574年に伊勢長島の一向一揆を制圧。伊勢長島は一向宗の力がすごく強いところです。

次に1575年の越前の一向一揆も閉廷。また、京都を拠点に法華一揆などを起こしていた、もうひとつの過激な宗教集団である日蓮宗も制圧します。
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織田信長の時代

群雄が割拠した戦国時代の流れを一気に変えるのが、海外から種子島にもたされた
「鉄砲」です。
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この武器を戦いでもっとも有効に活用し、大きな成果をあげたのが、織田信長でした。この時代のスーパースターの登場です。
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織田信長がほかの戦国大名たちと決定的に異なっていたのは、最初から「全国統一」という明確なビジョンを持っていたことです。全国を統一するという発想を最初からもって京都を目指した人は信長のほかにいなかったのではないでしょうか。

織田氏は尾張(名古屋)の守護代の家系ですが、東には三河や駿河の勢力がひかえています。信長の目的は京都に上ることですが、これがまた大変で、信長くらいの手勢であると、それこそ全力を傾けないとむずかしい。

かといって、京都に上るために自軍のすべてを傾けてしまうと、背後が手薄になります。

そこで信長が最初にやったことは、背後から攻められる可能性をゼロにすることでした。そのために不戦条約をむすんでいた甲斐の武田氏をバックして1560年桶狭間の戦いでまず、駿河の今川氏を倒します。

お隣の三河には松平元康(のちの徳川家康)がいますが、これとは清州同盟を結んで、背後から攻められる可能性をなくしました。

しかし、名古屋から京都は遠く、途中関ヶ原などの難所もあります。
もうワンステップまで先に進んでおけば非常に京都に上りやすくなります。

つまり、拠点を尾張にするのではなく、美濃(岐阜県)にした方が都合がいいわけです。

そのため美濃の斉藤龍興と戦って倒し、稲葉山を岐阜城と改め、ここを拠点にしたわけです。

ただ、「おれは京都に行って支配者になるんだ」と言っても周りの支持は得られません。そこで有名無実化されながらも、まだ細々と承継されていた将軍を利用します。
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いよいよ戦国時代のはじまりです。
各地に出現した戦国大名が分国を支配しつつ、周辺諸国との武力抗争を繰り広げます。

東北で有名なのは、伊達正宗です。伊達氏は国人出身で、守護大名からでなく、地元に土着していた武士が戦国大名になったものです。

小田原では北条氏が力を増大させていました。鎌倉時代の北条氏とは別で、北条早雲とその一族が急速に力をつけていました。

越後(新潟県)で上杉の守護代(関東管領の仕事を鎌倉でやっている間に地元の家臣を束ねる人)をやっていたのが、長尾景虎。彼は上杉憲正の養子になって家督を継承し、上杉を名乗って上杉謙信となっていきます。

上杉謙信と対立状態にあったのが、甲斐・信濃(山梨県・長野県)の武田信玄です。
信玄は守護出身で、謙信とは川中島の戦いで争うことになります。(長野県南郊)

武田信玄といえば「風林火山」の軍旗で有名ですよね。
ですが、これは通称であり、現代の創作だとされています。
正しくは「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
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「風林火山」はgoo辞書によると意味は、
「風のように素早く動いたり、林のように静かに構えたり、火のような激しい勢いで侵略したり、山のようにどっしりと構えて動かない意。」とのこと。

遠江(とうとうみ)・駿河(静岡県)を支配した今川氏も守護出身です。
尾張(愛知県)にはお出汁もいます。

越前(福井県)では朝倉氏が有力です。朝倉氏は一乗谷を拠点にしましたが、早くから家臣に城下町に住むことを強要したことで有名です。
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●相次ぐ下剋上
中部地方では周防(山口県)の大内氏が守護から戦国大名となり、日明貿易で権力を維持しますが、やはり貿易で栄えた細川氏と対立するようになります。

そして、1523年に起った「寧波の乱」(ニンポーの乱)で勝利した大内氏が日明貿易を独占するようになります。

ところがこの大内氏も1551年に陶晴賢(すえはるたか)という家老に倒されてしまいます。
このように、下の身分の者が上の者を倒して実力でのし上がるのを「下剋上」といいますね。

その陶晴賢もほどなく安芸(広島県)の毛利氏に滅ぼされてしまいます。

四国の長宗我部氏は土佐(高知県)の国人の出身です。
九州で勢力を張っていたのは、
豊後(大分県)の大友氏、薩摩(鹿児島県)の島津氏でともに守護出身です。

美濃、尾張、越前、近江、山城あたりは京都に近いためかなり身分の高い人が守護に任ぜられます。こういうところでは下剋上が頻発しています。

たとえば、尾張の守護の斯波氏は室町幕府の三管領のひとつでしたよね。
つまり、将軍をサポートする家柄でした。その斯波氏も守護代だった織田氏と朝倉氏に下剋上されてしまいます。

近江の浅井氏も侍所のトップだった京極氏を下剋上します。

山城では細川晴元を家来の三好長慶(ながよし)が倒し、その三好を家来の松永久秀が下剋上するというありさまです。

戦国時代というのは意外にも時間的に短く100年もありませんが、地域的に見ていくと、その土地土地によって特色があることが分かります。
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8代将軍足利義政のとき、応仁の乱が起ります。
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その主な原因は、将軍の跡継ぎ争いです。
義政の弟、義視(よしみ)を将軍にしようとする勢力と、義政の子、義尚(よしひさ)を将軍にしたい、母親・日野富子を中心とした勢力に、管領家などの後継争いが加わり、1467年から77年まで11年にわたって戦乱状態が続きます。
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ちなみに、京都には西陣という地区がありますが、応仁の乱の「西軍本陣」がその由来です。

結果的に義尚が次期将軍になりますが、その後も不安定な状態が続きます。
義尚の時代には大規模な一揆も起っています。

1485年に勃発した「山城の国一揆」(京都府南部)、
1488年に起った「加賀の一向一揆」(石川県南部)
で、加賀の一向一揆では、加賀の守護であった富樫政親を倒して、一向宗(浄土真宗)門徒衆ら連合政権を樹立、約1世紀にわたって本願寺の支配下におきました。

応仁の乱後はもはや日本を包括的に治める政権がなくなってしまった状態と言えるでしょう。

応仁の乱の後、将軍職を譲った足利義政は、政争や一気の頻発に嫌気がさし、今日の東山に山荘を立てて隠棲します。そこに建てたのがこの時代を象徴する銀閣(慈照寺銀閣)です。
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この頃は禅の精神を表現した「枯山水」がもてはやされました。
龍安寺石庭や、大徳寺大仙院庭園はその代表例です。

絵画では水墨画が雪舟により大成されました。また、土佐光信が創始した大和絵の流派である土佐派が生まれ、狩野正信・元信によって大和絵と水墨画を融合させた狩野派も生まれます。
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室町時代がもっとも華やかだったのは、足利義満の時代ですね。012.gif012.gif012.gif
この時代の文化を北山文化といいます。056.gif

北山文化を象徴する建築物は、そう、金閣寺(鹿苑寺金閣)ですね。
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北山文化の絵画の分野では、水墨画が流行します。もともと水墨画は禅宗の僧侶が禅の精神を表現したもので、明兆、如雪、周分らが名画を残しています。
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義満の保護のもと、観阿弥・世阿弥親子が猿楽能を完成させます。

この時代、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院を格付けするため、先の京都五山の制を設けました。最上位の五山を中心に様々な五山文学といいます。
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さて、その足利義満は何を行ったか。大きく3つ
南北朝合体、明との国交樹立と日明貿易(勘合貿易)、そして守護大名の勢力削減です。049.gif

まず、1つめの南北朝合体ですが、当時南朝は吉野、北朝は京都にありましたが、両者は別に戦闘状態というわけではありませんでした。009.gif

天皇の象徴である三種の神器は南朝のほうにありましたが、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に譲位するというかたちで二人の顔を立てながら1392年に南北朝合体を果たしました。
この南北朝合体のあと、1394年に義満は将軍を辞し、公家の最高の位である「太政大臣」に任ぜられます。
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2つめの日明貿易ですが、明との国交樹立(1401年)時、その翌年1402年に「日本国王源道義」、つまり、中国の王様に「あなたが唯一の日本の国王である」と認めさせています。005.gif

なお、室町幕府は将軍職につぐ最高の役職に「管領」があり、
足利氏一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称されていました。

幼少期の義満は管領・細川頼之に補佐されて将軍となるための帝王学を授与されていました。
細川氏は、日明貿易により支配力を強め、のちのち有力な守護大名になっていきます。

3つめの守護勢力の削減です。
室町幕府の財政は貧弱でしたから、守護大名の中には将軍家よりもお金持ちがいたくらいです。その勢力を削減しようというわけです。006.gif

まず対象になったのが、美濃、尾張、伊勢を支配していた守護大名の土岐康行でした。
1390年に土岐氏内部の対立に乗じて滅ぼしてしまいます。(土岐康行の乱

次のターゲットは山名氏清です。(明徳の乱)山名氏清は11カ国の守護大名で、全国の6ぶんの1を支配していたということで六分の一衆と呼ばれたくらいです。これも山名氏の内紛を利用し、討ち果たします。

さらに周防、長門、石見など六カ国の守護だった大内康弘が幕府に反乱を起こします。
1399年、幕府軍がこれを倒して大内氏の大幅な勢力を削減します。(応永の乱

将軍職を4代義持にゆずってからも、義満はこうして守護大名をコントロールできる確立を積極的に推進したわけです。
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室町時代の最初の将軍は、言うまでもなく足利尊氏です。
まず、室町幕府の成立から。

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は隠岐を脱出して京にもどります。
1333年からスタートした後醍醐天皇による新政を建武の新政といいます。
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ところが、問題は当時の武家社会の常識を無視した部分が少なくなく、じつはかなりの朝令暮改の政治であった。一気に改革をやらなくては、とスピードを重視するあまり、パッパと処理してしまうんです。008.gif

恩賞にしても公家に厚く、武士は冷遇されました。命がけで討幕のために戦った武士たちが不満を抱くのは当然です。

幕府を倒した中心人物の一人である足利尊氏も、建武政権では要職に就くこともできなかった。022.gif

足利尊氏は、当初新政権に従事していましたが、その後反旗を翻します。
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湊川の戦い(兵庫県)で楠木正成を撃破。その勢いに任せて京を制圧してしまいました。

後醍醐天皇は楠木正成を完全に頼り切っていましたから、その楠木が倒されてはなす術がなくなり、吉野(奈良)に逃げ込んでしまいます。

後醍醐天皇のいなくなった京では、持明院統の光明天皇が即位し(後醍醐天皇は大覚寺統)、1338年足利尊氏を征夷大将軍に任命します。003.gif

これが室町幕府の成立と、以後60年にわたって続く南北朝対立のはじまりです。

●裏切り者だった、足利尊氏?

ところで、足利尊氏は歴史上のヒーローと思われがちですが、日本史最大の「裏切り者」であったという人もいます。

なぜかって?
足利尊氏はもともと鎌倉幕府の家来だったんですよね。
この足利尊氏という人、もともとは御家人で、実のところ鎌倉幕府の討幕の動きを封じ込める命令を帯びて京に向かったんですよ。

ところが、京都で寝返って六波羅探題を攻め落としてしまう。
こうして鎌倉幕府は滅亡を迎えたのです。

そして、さらに後醍醐天皇の建武の新政にも反発し、湊川の戦いののち後醍醐天皇を吉野に追いやってしまい、南北朝時代を迎えることになるんですから。

●「ばさら」について
この、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす「ばさら」(婆娑羅)という言葉があります。

梵語(サンスクリット語)で「vajra ダイヤモンド」を意味し、全てのものを粉々に砕く金剛石のイメージが、派手な格好で遠慮をせずに振舞う者達のイメージに類似していたためこの名が定着しました。

身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となったと言えます。

足利直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた『建武式目』では、ばさらを禁止している。古典『太平記』には、足利氏筆頭執事の高師直や、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉などが有名です。


室町幕府では、当初尊氏は尊氏の弟、足利直義とともに政治を行っていました。
いわゆる二頭政治です。

ところが、二人は次第に対立するようになります。その対立が表面化したのが1350年に起こった観応の擾乱です。

直接のきっかけは、直義が尊氏の側近である執事 高師直(こうのもろなお)を殺害したこと。
高師直は、よく歌舞伎などに出てきますね。
尊氏が高師直をだんだん重用するようになったので、直義としてはおもしろくない。
それで、高師直を殺害してしまうわけです。

高師直が殺されたことに怒った尊氏は直義を毒殺してしまいます。005.gif

●守護大名の成立へ
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観応の擾乱の最中に、半済令というものが出されます。

国内の年貢の半分を武士たちに分配するというものですが、本来ならば将軍が家来たちの奉公に報いるために直接与えなければならないところ、その権限を守護に与えたのです。025.gif

将軍はすべての武士をいちいち見ているわけではないので、誰にどれだけ分配するなんかわかりません。その点、守護は国内の武士たちをよく見ているので、仕事を守護に任せてしまったというわけです。049.gif

そうなると、国内の武士たちは、将軍のためにいくら頑張っても意味がない。
むしろ、自分の仕事を実際に見ている守護の前で一生懸命頑張るわけです。

その結果、守護がしだいにその地域の支配者のようになり、守護の大名化、守護大名の成立へとつながっていきます。

鎌倉幕府では、その面倒な作業を将軍がやっていたからこそ、奉公と御恩の関係でうまくいきました。
それが室町幕府では、面倒な作業を守護に丸投げしてしまった。
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それでも守護をしっかり支配する体制があればいいのですが、それがなかったため、結局のところ末期では実態のない幕府となり、のちの戦国時代という混乱を招いたとも言えます。071.gif

「どうせ会社は自分の頑張りなんて見てくれていない」と従業員の士気が下がった会社に似ていますね・・
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地元京都のことをもっと知るためにお正月休み、歴史の勉強をしています。040.gif

時代は一気に戻って室町時代へ。

まず、室町幕府とは・・
足利尊氏が京都において創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した「花の御所」に由来する。
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ん、あれ「花の御所」、御所の中じゃなかったっけ?ちょっと西にズレてる?
ああーーー同志社(母校)の今出川キャンパスから新町キャンパスへの移動中に石碑があったって??知らなかった・・恥ずかしい・・008.gif008.gif008.gif

室町時代とは、足利尊氏が征夷大将軍に就任した1338年から15代将軍義昭が1573年に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間を指す、というのが一般的なのですが、

建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、、応仁の乱(1467年)以降の戦国時代と区別し、、南北朝合一(1392年)から応仁の乱勃発までの約75~100年間を「室町時代」と区分する場合もあるそうです。

この間は比較的政治が安定して室町時代がもっとも華やかで、さまざまな文化が京都を中心に勃興した時期であると言えます。

ちなみに、鎌倉五山・京都五山のお寺を大学受験時暗記しましたが、なかなか覚えられなかったことを覚えています。(京都五山といっても五山の送り火の五山ではありません、お寺です)ちなみに私は、京都五山を「天国のケニー君豆腐饅頭食べた」で覚えました(笑)
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京都五山って・・?
まず鎌倉時代に始まった鎌倉五山の話から入ります。
中国・南宋の五山十刹の制にならって、鎌倉時代に北条氏が各禅寺の寺格を決めました。これが鎌倉五山といわれます。
しかし武家中心の五山であったため、明確には制度化されませんでした。009.gif

一方、京都にも禅寺が相次いで開かれました。そうした中、鎌倉幕府が倒れ室町時代になると、京都を中心とした五山の順位が定められました。070.gif

具体的には、足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定されました。
数回の選定変更がありましたが、室町時代の1386年には3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革が行われました。
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今こうしてみると、京都五山は有名な観光地っと思ったら、万寿寺だけマイナー(?)夢窓疎石って、京都のお寺に行くと説明書きでちょくちょく見かけますね。003.gif

別格の南禅寺は日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつとな・・・071.gif
そして、こうしてみると、南禅寺ってすごいんだなーって思いますね。005.gif
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