カテゴリ:歴史勉強ブログ( 56 )

保元とくれば平治ときたもんだ。
保元の乱(1156)の3年後に起ったのは「平治の乱」
これは一言で言うと、近臣間の争い。

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平清盛・信西 VS 源義朝と源頼朝・藤原信頼

ここでやっと、源頼朝の名前が出てきたね。

後白河天皇は29歳になってようやく即位し、それまでは今様(流行歌)の練習には熱心でしたが、まともな帝王学も勉強してはおられませんでした。保元の乱に勝利したとはいえ、そんな後白河天皇が政治を行えるわけもありませんでした。

信西、政治のことはすべてそちに一任するぞ」
「ははっ」


後白河天皇の下で実際に政治を行なったのが側近の信西です。

信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。中流貴族であり、学者の家柄でした。
頭脳明晰でしたが、家柄が悪いために出世できませんでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。おそらくこの段階では野心などほど遠かったでしょう。
(しょせん俺の家柄では学問をしてもたかが知れている。世を捨てて、坊主になろう)

しかし1155年近衛天皇が崩御し後白河天皇が即位すると、信西の運命は一転します。信西の妻朝子が後白河天皇の乳母を務めていた関係で、信西は後白河天皇に重用されるようになっていきます。

信西が行なった保元の乱の戦後処理は苛烈を極めました。信西は敵味方に別れて争った源平の武士に、身内同士で処刑を行わせました。義朝などは、敵対した実の父為義を斬らされました。想像するも無残な話です。

信西はこうして敵対勢力の弱体化をはかる一方、息子たちや一族を要職につけ権力の地盤を固めます。日に日に権力を高める信西に対して、反対勢力の恨みの声も大きくなっていきました。
後白河上皇に仕えるようになってから周囲から「あさましき程の寵愛あり」と言われるほどの寵愛を受けます。男色関係にあったとも見られています。(げっ!)
しかし時は信西の全盛期。後白河上皇は何かと信西を可愛がります。

おもしろくないのは藤原信頼。
「ふん、ふんっ、家柄は俺のほうが上なのに。信西の奴…上皇さまのご寵愛をいいことに、えらそうに」
一方、源義朝も保元の乱の戦後処理では信西によって実の父・為義を斬らされた恨みもありました。
信西に恨みを持つ義朝は、同じく信西に恨みを持つ信頼に結び付きます。
そこで、藤原信頼は源義朝と組んで信西を殺します。

これに対し自分たちの派閥の人間を殺された平清盛は激怒。平清盛は藤原信頼を倒し、さらに源義朝も倒します。

このとき源頼朝はまだ14歳。元服前の子供だったので、殺されずに伊豆に流されます。

島流しというのは、遣唐使までは伊豆、遣唐使以後は九州の大宰府というのが定石でしたが、瀬戸内海の貿易権を握っていた清盛にとって大宰府は重要な拠点でした。そんなところに反逆者を流すわけにはいかないので、頼朝は伊豆に流されたというわけです。
その結果、頼朝は東国武士との連携が生まれることになるのだから、皮肉なことです。
この乱の結果、当時の院の側近の有力者がどんどん消えて、仲間のうちであった信西までもが死に、平清盛たった一人が残るということになります。
当然、平清盛に権力が集中するということになりました。
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そして、1167年、平清盛は武士で初めて太政大臣に任ぜられるのです。
平時忠が「平氏にあらずんば、人にあらず」と言ったのもこの頃です。

ただ、出世するのにはワケがあった?使い古された説でよく大河ドラマなどでもその説を採用しているんですが「白河法皇の落胤説」
つまり、白河法皇の隠し子であった、つまり皇族の血を公然と引いていたという説があります。(またまた、あの好色の不倫男白河法皇ですよ。)

つまり、清盛の父は清盛の妻を腹の大きい状態(つまり既にお腹に清盛がいる状態)で朝廷からもらいうけたというんですね。これも真偽のほどはどうなのでしょうか・・。

さあ、そんな中、平清盛はかつて藤原氏が行ったように自分の娘徳子を高倉天皇に嫁がせ、二人の間に生まれた安徳天皇をわずか3歳で即位させます。

それにあたって、平氏は邪魔者をどんどん追い払っていきます。
有力な勢力を「鹿ケ谷の陰謀」で次々と処罰。(1177年)
実際には酒の席で「どうしたら平氏を倒せるんでしょうね」と冗談を言い合った言葉尻をとらえたと言われています。

問題はそのあと。1179年に後白河法皇を鳥羽殿(離宮)に幽閉して院政を停止させてしまったのですね。
・・・・・・なんたる暴挙。策にたけた藤原氏なら天皇と姻戚関係は結ぶけれど、こんな拙速なことはしなかったかもしれません!!!!

平清盛はそこまでやって、一気に権力を手中におさめようとしましたが、当然その後反発が起ります。
安徳天皇即位と同じ年、後白河法皇の子の以仁王平氏打倒の令旨を発し、それによって治承・寿永の乱、いわゆる源平の争乱がはじまるわけです。
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平氏政権はその後、大きく動揺します。
あまり知られていませんが、「福原京」の遷都を強行。福原京は摂津国(今の兵庫県)ですが、日宋貿易の拠点大輪田泊(いまの神戸港)から近いところを拠点にすれば兵糧攻めに合うことはないと考えたわけです。しかし、遷都に対する公家の反発は大きくすぐに平安京に戻ってきます。
また、1180年、「南都焼き討ち」、つまり平氏打倒に同調した東大寺・興福寺を焼き払ってその動きを封じ込めようとしたのですが、自社を焼くなんて日本人の感覚にそぐいませんよね。かえって人々の平氏への反発を招いてしまいました。

さらに平清盛が急死。これは原因不明の高熱で身体に水をかけてもすぐに蒸発してしまうほどの熱で、これもまた・・・・崇徳上皇の祟りだ!と言われています。

さらに、間が悪く「養和の飢饉」が発生。

これらにより、平氏の求心力は完全に地に落ち、都を追われた平氏は瀬戸内海を西に西に敗走。
1185年、源義経、範頼の軍勢によって壇ノ浦に滅び去ってしまいました。

平時子は幼い安徳天皇を抱いて、「波の下にも都がございます」といって、安徳天皇とともに海に身を投じたと言われています。
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崇徳上皇は、日本史に出てくる
「保元の乱」を起こした方ですね。

百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
切ない歌でも有名です。
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5歳で白河上皇により即位。
しかし、23歳の若さで突然父である鳥羽上皇からから弟(のちの近衛天皇)に譲位するように言われます。

・・なんで?実は疎まれているのにはわけがあった。
父親の鳥羽天皇からは「叔父子」(おじこ)と呼ばれていたんです。
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なななななんと、崇徳は我が子でなく、自分(鳥羽天皇)の妻が祖父の白河上皇と不倫してできたのが崇徳と考えていたらしい・・・!この時代はDNA鑑定なんてないし、真偽は定かでないけど。
いやいやーー、白河上皇もすごい人ですよ。だって、院政をしいて堀川・鳥羽・崇徳の三天皇の時代、43年間もの長期にわたって権力を掌握した人物。気に行った女性にはことごとく手を出したって言うのだから。

そうそう、思い通りにならないのは3つだけって言った人だよ。
鴨川の水,双六(すごろく)の賽,山法師 〈天下三不如意)


そして自分の寵愛する女(ことのほか美人だったらしい)の子、崇徳を5歳で即位させちゃった。
鳥羽天皇が憎む気持ちはわかるけど、生まれてきた崇徳天皇には何の罪もない。

白河上皇が亡くなると、鳥羽上皇は意趣返しとばかりに崇徳を譲位に追い込むわけだ。

天皇になったのは、鳥羽上皇の子の近衛天皇。
体が弱かった近衛天皇が亡くなると、崇徳天皇・・・いや譲位したんだから上皇なんですが、院政を振るうこともできなかった崇徳天皇は今度は自分の子が天皇になれると思ったのもつかの間、今度は自分の弟にあたる(ことになっている)、やはり鳥羽上皇の子・後白河天皇が天皇となるんです。

もともと後白河天皇は、天皇になる器じゃない、父の鳥羽上皇からいわれていたんですよね。なぜなら若いころから遊興にふけり、とりわけ現在の流行歌にあたる今様にのめりこんでいた。今様を歌いすぎて声がでなくなるほどの遊び人で、父である鳥羽法皇に「天皇になる器でない」と思われていました。


ですが、近衛天皇の急死、そして鳥羽法皇もその一年後に急死、それを受け、一気に崇徳方と(鳥羽上皇の遺志を継いだ)後白河方の主導権争いは激化。互いに懇意の武士を手元に集め、摂関家の内紛まで一緒になって激突するわけです。
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つまり、これが「貴族社会の崩壊」
ささいな不倫疑惑が結局は貴族社会を崩壊へと導き、武家社会への移行を許してしまうんです。

ちなみにこの戦いは非常に因縁めいており、崇徳のすさまじい「怨念」で有名。
負けた方の崇徳は捕えられ讃岐に流されるのですが、讃岐で隠遁生活を続けた崇徳は保元の乱の死者を弔うために膨大なお経を全巻写経し、都のお寺に収めて供養をしようとするも・・・

後白河天皇は「呪いが込められている」と言いがかりをつけてこれを拒絶。
激怒した崇徳上皇は、「この経文を魔道に回向する」と舌を噛み切り、滴る血でその経文に呪詛の言葉を書いて没したと言います(ぎええーーー!!!!)

ところが、しばらくすると、都に異変が!!
崇徳上皇がかつて愛したといわれる侍女の屋敷のある東山八坂に怪光があらわれ、
これがきっかけとなって二条天皇が崩御、都に疱瘡が大流行し大勢が病死

その後、事態を重く見た朝廷は怨霊を鎮めるため崇徳上皇に「崇徳院」の諡号(生前の徳を讃えながら)を送るも、その後も大火が起るなどの異変続き。

また、後鳥羽上皇が隠岐に流されるという前代未聞の承久の変(1221)も起る。
その後、何百年も朝廷から武士政権となり・・・

崇徳上皇の怨霊がようやく鎮まったのは明治元年(1868)、崇徳上皇を祀る京都市上京区
「白峯神社」が建立されてからのことと言われている・・。(何年先やねん)
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ちなみに、白峯神社は京都西陣にある、「サッカーの神様」(蹴鞠の宗家だったことから)と言われ多くのスポーツ選手が参拝しているが、こんな物凄い人(崇徳)を祀っているということを皆さんご存知だっただろうか。
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今日は美術鑑賞のお勉強として薬師寺、唐招提寺へ行ってきました。
興福寺、東大寺、奈良国立博物館、というコースは何度か行ったことがありますが、これらのある「奈良」駅と、薬師寺・唐招提寺のある「西ノ京」駅は微妙に離れているのですよね。

ちなみに、薬師寺と唐招提寺は目と鼻の先。時代も同じ奈良時代やーん?と思ったのですが・・

・薬師寺=白鳳時代

・唐招提寺=天平末期


と違ごうております。

仏様を仏教美術としてみるならば、美術史の勉強が必要。中国や朝鮮半島の歴史との対比も欠かせません。拡大してご覧になってください。
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奈良、天平の時代の流れを追っていきましょう。
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薬師寺は白鳳時代に天武天皇が皇后である後の持統天皇の病気平癒を願って発願し、建立されたお寺。当時の天皇さんが皇后さんのために、、っていうのは、トンデモない重責を担って国をあげて作ったお寺と言えるかもしれないね。

この薬師寺では「薬師如来像」、その隣にいらっしゃる「日光菩薩、月光菩薩」「聖観音像」がいらっしゃり、いずれも国宝。「薬師如来像」は鋳造の仏様の最高傑作とも言われています。光背は後から作られたそうですが、台座は当時からのものですごく特殊。
台座は四神(中国の霊獣:東⇒青竜 南⇒朱雀 西⇒白虎 北の玄武)を配した唯一の台座とか。古い時代のものなのに、外国的な不思議な感じがします。(高松塚古墳にも四神は見られます。)

日光月光菩薩は腰をくねらせ、非常に格好がいい立ち姿。

ちなみに、「聖」観音の「聖」の字は「千手観音」のように「変化」していない、観音様です。ちなみに、仏様というのは、色々な仏様がいらっしゃるのですが(もっと言うと一切衆生悉有仏性といい、生きとし生けるものはすべて仏になる可能性を有している)
「観音様」は「日本人」の仏様であると言われています。

だって、「螺髪」(天然パーマのような髪型)がないんだもの。インド人ではないよね。
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そして唐招提寺。まず国宝の金堂の均整のとれた美しいたたずまいにハッとし、中にいらっしゃる三体の美しい仏様にさらに心を奪われました。
「盧舎那仏坐像」「十一面千手観音」「薬師如来立像」

特に十一面千手観音様は、非常に大きくて子供のような童顔の御顔立ち、不思議な魅力に取りつかれてしまいました。

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ちなみに、唐招提寺のお額の字は女帝「孝謙天皇」の真筆だそうで。しっかりとした字をされています。
道鏡を寵愛したり、あまりよい印象はもっていなかったのですが、凛とした美しい字です。

奈良時代は仏教で国を治めようとした時代でした。それがため、仏教勢力が強くなりすぎて、平安遷都へと時代は動くわけですが。ただ、国を挙げて信仰で国を治めようとするのはすごいことだと思いました。

奈良の仏様は京都の仏様とはまた違う力強さがあります。

日本の仏教美術の素晴らしいところは、お隣の国のことを悪く言うわけでないですが、仏教を伝来した大陸の方では時代が変わるとすべてがリセットされ、「廃仏」でことごとく打ち砕かれ、素晴らしい仏教美術等がほとんど残っていない。それに対し日本は、色々な時代を経ながらも、それが信仰というよりむしろ芸術作品として次の時代にきちんと受け継がれているところです。

明治維新の頃、確かに「廃仏毀釈」はあったが、たかが知れている。日本人には古くから受け継いできた、美しいものを守っていこうというDNAがあったんでしょうね。

ちなみに当然ながら仏様は写真が禁止だったので、是非google画像検索等でご覧になって、是非足を運んでみてください。外国の方もたくさんおられて感動されていました。日本人なら絶対に行くべきだと思いました。
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さて、藤原家の隆盛の基礎を作った人は・・

藤原良房の登場です!
嵯峨天皇の時代、薬子の変が起った・・その次の天皇は淳和天皇です!
(ちなみに、藤原薬子は藤原式家)

そして、その子が藤原良房。
この秘書親子、けっこうな発言力を持つんだよなーー。

ところが、政敵がいるわけです。淳和天皇のバックには昔からの貴族である「伴氏」と「橘氏」がひかえてるんですよね。橘氏は有名な三筆のひとり橘逸勢の系統です。
薬子の変の教訓から天皇じきじきの秘書のような役職「蔵人頭」(くろうどうのとう)という役職が設けられましたが、その初代が藤原北家の藤原冬嗣。その息子が藤原良房

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良房の野望、第一弾。
「承和の変」842はよ逃げて伴ちゃん橘ちゃん
「伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢は仁明天皇を下そうとしてますぜ」という噂を意図的に流す。これは陰謀でした。

さらに良房の野望は、自分の娘の子供、つまり孫を天皇に即位させる。この子が清和天皇なるのですが、そのときまだ9歳。
こどもは天皇になれない、という慣例を無視して強引に即位させてしまうんですね。

当然、今でいう小学校2,3年生に政務はとれないため、「摂政」を行うわけです。
しかし、これに対してはやはり、反対勢力がでてくる。
「摂政」とはもともと皇族しかできなかったのですから。
その反対勢力が源信(みなもとのまこと)と伴善男(とものよしお)です。

でも、じつは敵同士も実は仲が悪くて、敵同士が潰しあってくれたため、
敵がいなくなった。

良房にしたら、ラッキ――!
といっても「応天門の変」という大変な放火事件が原因でした。(866年 やろうむかつく応天門 )

伴善男が自ら応天門に火を放ち、その罪を源信に負わせようとした。
でも、犯人が伴善男だってことを藤原良房はわかっていたんですよね。そして源信は良房から恩を着せられる格好になります。

こうして、応天門の変の後、良房は正式に摂政に就任し、名実ともに政治的実権を掌握していくのです。

この応天門の変の様子は「伴大納言絵巻」にリアルに描写されています。

ところで。この応天門って、どこにあったのか。
色々調べると、(前の)出世稲荷神社のあたりにあったようですね。(現在の出世稲荷神社は大原に移転)

ちなみに平安神宮の応天門は平安京の応天門の縮小レプリカだとか。
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「薬子の変」の平城天皇の次は「嵯峨天皇」

嵯峨天皇の時に「弘仁」格式、のちの清和天皇の時に「貞観格式」さらに「延喜格式」が編纂され、
法令の整備が勧められました。

また「検非違使(けびいし)」を設置して平安京内の治安維持や裁判を行うなど、安全な都作りが推進されました。

ちなみに京都府警のマスコットキャラは検非違使をモチーフにしていたり、葵祭の時も検非違使の仮装をした人がいますよー。
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この「嵯峨」「清和」の平安初期の文化を
「弘仁・貞観文化」といいます。

特徴としては、新しくもたらされた仏教、とくに密教がさかんになったことです。

平安時代の初期は、仏教勢力が強くなりすぎた奈良時代の反省もこめて、奈良の寺院の移築を禁止しました。

平城遷都のときは藤原京から有力寺院が移ってきましたが、これを固く禁じたわけです。

ただ、仏教は人々のあいだに深く浸透していましたから、仏教そのものを全面的に禁じるわけにはいきません。
むしろ、人心を政府批判の方に向けさせないためにも、為政者にとって宗教は必要だったわけです。

そこで朝廷は遣唐使とともに「最澄」など学問僧を中国に派遣し、新しい仏教学ばせました。

その結果、最澄は天台宗を、とき同じくして渡った空海は真言宗を持ち帰ります。
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平安初期の仏教は基本的に密教です。

密教の思想は基本的に加持祈祷ですが、大雑把に言えば秘密の呪文で奈良時代の仏教は取り扱わなかった分野です。

秘密の呪文を唱えれば「この世で幸せになれます」「もっと出世ができます」「お金持ちになれます」というわけで、
奈良時代の教理仏教から、現世利益を求める仏教に変貌していきます。


最澄がもたらした天台宗は比叡山延暦寺を本山とし、空海の真言宗は高野山の金剛峯寺を総本山とし、いずれも平安京の中に寺院を建てませんでした

ここもポイントで、平安初期の仏教は「政治と宗教の分離」が見られます。

ただし、空海は嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を賜り、高野山とともに布教の拠点にしました。

特に平安初期は、これまで力の弱かった和気氏が和気清麻呂の活躍によってにわかに力をもつようになったり、「家柄に関係なく頑張れば出世できる」時代でした。

そうしたことからも、現世利益の密教がもてはやされた要因の一因になったと言えるでしょう。

■神仏習合と仏教文化

新しい仏教のもうひとつの特徴は、山中に寺院を点てて、そこで修業をしたことでした。
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比叡山も高野山も、女人高野といわれた室生寺もそうですが、平地と違い山の地形に合わせてお堂や塔が配置されました。その密教が日本の古くからあった山岳信仰と結びついて「修験道」に発展していったのですね。
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また、奈良時代ごろから仏教は日本古来の神道とも融合していきます。
弘仁・貞観時代には、神社に隣接した神宮寺が建立されたり、寺の境内に鎮守様が祀られたり。

これを神仏習合と言い、この傾向は明治維新後の廃仏毀釈まで続きます。
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さて、平安京第二回目。

桓武天皇の次は平城天皇ですね。平城・・?平城京の平城・・?この秘密はあとにして

平城天皇は病気を理由にわずか3年で退位、809年には弟の嵯峨天皇が即位。

桓武、平城、嵯峨、と続くわけですね。


「薬子の変」
をきっかけに、藤原四家のうち藤原式家が没落し、代わりに北家が台頭。

「薬子の変」は小中の教科書には載っていませんが、高校の教科書には必ず載っていますね。049.gif


薬子は「パパがせっかく頑張って造営した長岡京をあっさりと捨てるだなんて!!」(`・ω・´)
もしかしたらこの後に起こる話の根本的な原因はこの辺にあったのかも知れません。

この平城天皇は皇太子のときから、長岡京遷都を主導したものの暗殺された「藤原種継」の娘薬子を寵愛していました。ところがこの藤原薬子、不行跡というか、身持ちが悪いいうか、とにかく醜聞がありまして、桓武天皇によって宮廷から追放されてしまいました。

醜聞とは・・・

桓武天皇の長男で皇太子であった安殿親王(あてしんのう)<のちの平城天皇>は藤原薬子の長女を妃として迎え入れます。

しかし長女はまだ幼い年齢だったので後見役として母親である藤原薬子も一緒に入内(天皇のお屋敷内に住むこと)します。

・・・が、ここでとんでもないことが起こります。

なんと安殿親王が妃である長女をそっちのけにして長女の母親で後見役として入内しただけの藤原薬子と愛し合うようになってしまたのです。( ̄□ ̄;)

何しとんねん…
って感じですね。(⌒_⌒;)

平城天皇がたったの3年でやめてしまったものだから、薬子にしてみればとうてい承服できない。( *`ω´)

そこでなんとかして平城上皇を再び天皇にしようとします。そのためには周りの協力を得なくてはいけない。

でも、なぜ?と聞かれた時に「だって、私や兄の藤原仲成も平常天皇に取り入ってもらって出世したいんだもん(´ε` )」なんて言っても誰もついていきませんよね。

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そこで「上皇を天皇に立てて、もう一度都を平城京に戻しましょう」と言い始めたのです。そうすれば。平城京に都を戻したいと思っていた人達が自分に味方してくれると思ったわけです。

ところが、810年といえば、平城京から長岡京に都が移ったのが784年ですから、すでに26年も経っているんですよ。それもまるで支持が得られません。(´・_・`)

それでも強引に奈良に宮殿を建造し始めたため、謀反として認定されてしまいます。

その結果、兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害を余儀なくされました。これが薬子の変です。

平城上皇は剃髪して出家。その後も奈良に住み続けたので「平城」と呼ばれたのでしょう。

ちなみに、「平城」天武とか聖武とか天皇の名称は死後に送られた諡号(しごう:高貴な人や高徳の人の死後におくる美称)です。
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平安京遷都!

久しぶりの歴史勉強ブログですが、今度は平安時代に飛びます。

「鳴くよ ウグイス 平安京」は小学生でも知っている語呂合わせですが、

「平安『京』」の「京」って何かわかりますか。

「東京」「京都」・・にも京がつきますよね。

一方で「宮」という言葉もある。「宮」は近江や飛鳥にもありましたが、
あくまで政治を行う政庁のこと。大極殿やその周りに設けられた役所の部分だけをさします。

いま公園化している奈良の平城宮跡がそれにあたります。

それに対し、「京」は一般の人々が暮らしていた町並みも含む都全体のことを指します。
お城と城下町といったらイメージしやすいですね。

平安京遷都となると、政治組織だけでなくそれに関わる人たちすべてが移転しますから、平安京遷都後はそれまで平城京があった広大な土地は急速にさびれていきます。(´ε` )

ですが、寺院は移転しなかった。それは平安京遷都の目的の中に、仏教勢力の台頭を廃したかったということもあるからです。( *`ω´)

奈良時代、聖武天皇が仏教勢力に頼りすぎたこと、そして道鏡のように自分自身が天皇になろうとする僧侶も現れたことはご存知のとおりです。

道鏡は称徳天皇に(孝謙上皇の重祚、女帝)に重用されていましたが、称徳天皇が重い病を患ってしまった。

道鏡は加持祈祷で治そうとするのですが、称徳天皇の病は重くなるばかり。(´・_・`)

後ろ盾がなくなることを恐れた道鏡は宇佐八幡宮(大分県)の託宣があったと言って、自分自身が天皇のなろうとしたわけです。
(宇佐八幡宮神託事件)

うーーん僧侶なのに、神様?と疑問に思うのですが、実はこの頃から「神仏習合」の信仰の形ができてきて、
この傾向は奈良時代から明治維新後の廃仏毀釈運動の頃まで続くんですよね・・。

と、脇道にそれました。

そのように「道鏡」が「われこそが天皇」というなか、朝廷は和気清麻呂という人物に命じてこの「信託」が本物かどうかを調べさせます。

そのとき、道鏡はコッソリ清麻呂に「本物といえばおまえを登用してやるよ」とそそのかしたと言われています。

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しかし清麻呂の報告は「そんな神託はございませんでした」というものでした。

これに怒った道鏡は、和気清麻呂を大隅(鹿児島県)に配流してしまいます。

そうこうしている間に、称徳天皇は病死してしまった・・。

後ろ盾がなくなった道鏡は、急速に勢力を失っていきました。

ちなみに・・和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から和気氏ゆかりの護王神社(御所のとなり)の狛犬は、猪、つまり狛猪なんですぜ。昔のお札にも猪が描かれています。

なお、護王神社は和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られたものが移転。
神護寺もすごーーーくいいお寺なのでぜひ足を伸ばしてください。

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平城京から平安京に・・とその前に、

784年に桓武天皇は山城の「長岡京」に都を移しました。

これを忘れたら、京都府長岡京市の人は怒るよ(笑)

でも、ご存知のとおり794年、10年後に平安京に都を移した。
ちなみに、長岡京も今の京都府なので、784年から1869年まで日本の首都(天皇が住まわれていた場所)は京都府内にあったことになります

なぜ、長岡京はたったの10年だったの?

これはなぜかと言うと、どんな時でも大きなことを起こすときは反対が起こるもので、平城京から都を移す際、
遷都を主導していた藤原種継が暗殺されてしまうわけなんですね。

藤原種継が暗殺されたとたん、新しい都へのモチベーションがトーンダウンしてしまう。そして、また平城京に戻るのでは、という空気が高まってきたのです。(´ε` )

そんな中、平安京遷都を強く提唱したのが、先ほどの宇佐八幡宮神託事件で配流されていたが復権した
和気清麻呂だったのです。

通常なら下手に何か言うと暗殺されてしまいかねない状況だったのですが、旧弊を断ち切るため立ち上がったのがこの人物だったわけですね。

和気氏は実はもともと高い位の貴族ではなかったのですが、道鏡に逆うことにしても、平安遷都にしても臆せず推進することで、有力貴族の一角に名を連ねることになったのです。
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天神さんの梅園に・・行くぞーー。
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・・・のつもりが16:00で終了・・・orz 
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くやしいから、梅園の外の梅をどあっぷで。下手な写真でごめんね。
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有名な門前のお店で粟餅を。
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おおー結構な量だね。美味しいね。早く食べなきゃいけないから、ここでしか買えへんのよ。
お茶があったかくておいしかったなあ。
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雨の上七軒を抜けていく。人はいない。京都で一番古い花街。室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店が建てられたのが「上七軒」の由来。
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桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めたと言います。
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もうひとつの目的はコレ。ミシュラン1つ星の御蕎麦屋さんで御蕎麦のアラカルトです。
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1598年に秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ5歳。
家康は、五大老の筆頭で最初は秀頼の後見人、という立場を取りますが、徐々に秀頼を無視して、伏見城で実権を握っていきました。

当然それに対する反発が起こります。
1600年の関ヶ原の戦いですね。実質的には石田三成と徳川家康の戦いです。

東軍は徳川家康、西軍は毛利輝元が中心となりますが、結局東軍の勝利に終わります。
西軍の石田三成や小西行長は処刑され、秀吉の息子の豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の60万石の1大名に落とされてしまいます。

その後、1603年に徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けて、江戸幕府を解説します。
そしてそれから2年後の1605年、家康は子供の秀忠に将軍職を譲ります。

これは、将軍は徳川家の世襲なんだ!ということの表明です。つまり、
「もはや戦国時代の慣習だった天下持ち回りはもう終わった」ということを示すのが目的です。

もちろん、家康が全く政権を取らなかったかというとそうではなく、「大御所」として背後から実権を握り続けています。

家康が来る前の江戸城は室町時代の中頃に太田道灌(おおたどうかん)が作ったものですが、そんなに大きな城ではありませんでした。

江戸城が大きくなっていくのは江戸時代になってから。それも段階的に大きくなっていきます。征夷大将軍になったあと、家康は全国の大名に対し、江戸城と江戸市街地の造成を命じます。
人夫を派遣させたり、お金を献上させたりするのです。それをお手伝い普請と言いますが、負担を強いられた大名の財政状態はどんどん苦しくなっていきます。

ここで家康の戦略の一端がうかがえます。
こうして有力大名の経済力を削いでいったという事情もあったと思われます。

そのようななかではありますが、
徳川幕府にとって前政権の豊臣家は、いつ逆襲されてもかぎらない、目の上のたんこぶ、目障りな存在です。

一大名に落としたとはいっても、豊臣秀頼の本拠地は摂津・河内・和泉、今の大阪府で居城は大阪城です。

当時の日本の商業の中心地は大阪でしたから、そのど真ん中に60万石の大名がいる、というのは家康にとってはこれをなんとかしたいわけですね。

そこで1614年、有名な方広寺鐘銘問題が怒る。

京都に豊臣秀吉が建立した方広寺というお寺があります。創建当時は東大寺の大仏に負けず劣らずの大仏がありましたが、1596年の近畿大震災で倒壊。
それを1614年に豊臣秀頼が再建するわけですね。
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そのときに鋳造された梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていた。
「家康を分断し、家康の首を取ることにより、国を安らかにし、豊臣を君主として楽しむ」
そういう呪いが込められている、といわゆる言いがかりを付けるわけです。

この「言いがかり」の入れ知恵をしたのは臨済宗大覚寺派の僧侶で家康の側近としても重用されたという金地院崇伝だと言われています。

それが単なる「言いがかり」であったことは今でも方広寺に金が存在していることで明らかですよね。そこに呪いがかかっていると思ったら、そうそうに潰してしまうはずですから。

そうやって豊臣方を挑発し、大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)を起こし、豊臣家を滅亡させました。

大坂城も外堀だけでなく、内堀まで埋めてしまいます。
豊臣家が滅んだのをきっかけにほかの大名たちへの統制も強めます。

まず出されたのが1615年の一国一城令と武家諸法度です。
武家諸法度は大名に対するもろもろの統制法令で、これも禅僧・金地院崇伝の起草によるものです。

武家諸法度は将軍が変わるたびに出されました。いわゆる将軍の所信表明演説です。
また、これも金地院崇伝の手になるものですが、公家に対する統制令「禁中並公家諸法度」も制定されました。
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1588年 秀吉は刀狩り令を出します。
これは、京都の方広寺の大仏鋳造に用いるという名目でしたが、実際は農民から武器を没収するのが目的でした。

全国を統一したあと、
1591年人掃令を出す。これは武士や農民が身分を移るのを禁じたものです。

秀吉晩年の時期は、いわゆる朝鮮出兵の時期。

日本を統一したあと、秀吉の目標は東アジアに行きました。
秀吉の政権にはどんどん土地を奪って家来たちに恩賞を与えないと維持できないというところがありました。

最初の出兵が1592年の文禄の役。この攻撃は紀州だったので、朝鮮側に準備の余裕がなく、漢城(今のソウル)から平壌(今のピョンヤン)を占領し、加藤清正軍に至っては朝鮮半島最北端のトマンガンあたりまで進軍していきます。
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しかし、時間が経つにつれ、李舜臣(りしゅんしん)の率いる水軍や民兵の活躍、さらに明からの援軍も加わって、戦況は豊臣軍の不利に転じていきます。そして、和平にもならず引き返すしかなかった・・。

諦めきれなかったのか、5年後の1597年、秀吉は二度目の出兵を試みます。
これが慶長の役ですが、今度は相手も十分用意をしていたので最初から苦戦を強いられ、最終的に秀吉が死んだことにより、撤退を余儀なくされます。
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ちなみに、京都市東山区の、豊国神社門前に「耳塚」という史跡がありますが、これは慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を持ち帰ったものを葬った塚とされていますね・・・

しかしながら、この朝鮮出兵が、豊臣政権の弱体化、そして朝鮮出兵をまぬがれた徳川家康が政権をとることになったひとつの契機になっていくのです。

なぜ徳川家康が朝鮮出兵をまぬがれたのか。
1590年、秀吉は北条氏を倒したと、関西仕置を設置し、その役に家康を命じました。
秀吉が三河の大名であった家康を関東に移したのは、できるだけ京都より遠ざけておきたかったから、といわれています。

やはり、京都から遠ざけたかったというのはそれだけ家康が有力な大名だったからなんですね。しかし、当時は重要な地方ではなくそんな場所に移すからにはそれ相応の見返りをしなくてはならない。

そこで秀吉は家康に250万石の領地を与えました。これは北条氏が所有していたものです。
家康が関西仕置に任じられて2年後に文禄の役がはじまります。

ここで家康は広大な関東の地を統括していかなければならない、という理由で朝鮮出兵を免除されているのです。

1598年に秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ5歳。
さて・・・ここから家康の天下取りの始まりです・・・(つづく)
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