カテゴリ:歴史勉強ブログ( 56 )

はい、今度こそ明治時代の最後でございます。
最後は「韓国併合」で締めくくりたいと思います。

明治時代は1868年から1912年
明治維新にはじまり「富国強兵」の時代であったと言えます。

韓国併合は歴史年号の暗記では1910年になっていますが、1910年は「韓国併合条約」の年、つまり日本の領土にしちゃった年ですね。

韓国併合に行くまでの流れをおさらいしましょう。

まずは「日清戦争」は朝鮮半島での主導権をめぐって衝突した戦争でしたよね。

そして日露戦争<1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日>では朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立でしたよね。

どちらも優位のうちに終わったということで
日露戦争は日本も「列強」とみなされる、ある意味デビュー戦だったわけです。

その後、日本は積極的に韓国の支配・経営に乗り出します。

ちなみに、朝鮮は日清戦争以前は「清」が宗主国、つまり「親分」でしたよね。
でも「清」が衰えてからは「清」の属国ではもはやない!ということで「大韓帝国」と名前を変えていたんですが、実質的には「親分」を「ロシア」に変えていただけだったんですね。

日露戦争のときだって韓国は中立宣言をしていたんですが、戦前からロシア軍は駐在してたのですから、
ロシア側についていたに等しかったんです。

でも日露戦争後は日本は朝鮮半島からロシアを排除します。

日露戦争は1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日ですが、戦中の1904年に「第一次日韓協約」を締結し、韓国政府内に日本政府が選んだ財政、外交顧問を置きます。

そして1905年の「第二次日韓協約」で韓国を「保護国化」します。

「保護国」というと聞こえはいいですが、「外国権の剥奪」です。

つまり「朝鮮は今度は日本の属国になったんだよ」っていうこと。

てなことで、その韓国の外交権を統率する「総監府」を漢城(今のソウル)に設置し初代総監は「伊藤博文」が就任しました。

そんな日本をアメリカやイギリスはどう見てたの?アジア人の横暴って見なかったの?というと「日本よりもロシアの勢力が南下する方が嫌やし阻止したい」という思惑からどちらかと言うと協力的な立場やったんですね。

このような日本の進出に1907年、韓国の皇帝 高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議で韓国の外交権の回復を訴えます。

しかし、アメリカやイギリスの列強は日本をバックアップしていたため、相手にされず、それどころか激怒した伊藤博文に高宗は退位、息子の純宗に譲位させられました。

さらに1907年の第三次日韓協約では韓国総監の権限が強化され、韓国はない政権まで日本に握られることになりました。そして韓国の軍隊も解散させられてしまいました。

こうした露骨な植民地支配に対し、韓国内では「義兵運動」と呼ばれる抵抗運動が各地で起ります。

そうした中、1909年 伊藤博文は韓国の排日運動家 安思根に暗殺されてしまいます。

(韓国の完全な植民地化の最大の反対者が伊藤博文だったのに、殺されてしまったがためにかえって植民地化が実現されてしまったと書いている本もありますが、真相はどうでしょう)

こうして1910年(明治43)8月、韓国併合条約、つまり韓国の植民地化がなされてしまいます。
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そして京城(今のソウル、先の「漢城」から改称)に韓国の統治機関として「韓国総督府」が設置され、初代総督に「寺内正毅」が就任します。

また明治は「不平等条約」をなんとか解消するという時代でもあったんですね。
思い出してください。

岩倉使節団ももともと不平等条約を正すために1871年(明治4年)に派遣されたのに、
国力の違いに結局たんなる欧米視察になっちゃったんですよね。

そして韓国併合の次の年の1911年(明治44)、日本は小村寿太郎外務大臣のもと、日米商航海条約を結び、
やっとこさ半世紀かかって不平等条約を正したんです。

でも逆に言うと明治の半世紀の間に同列の国力の国に追いついたと見てもいいかもしれないですね。
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日露戦争②

北清事変の結果、またロシアのやられてもーた!031.gif

日本ではロシアに対する反感がどんどん高まっていきます。013.gif

このロシアに対する反感に対して日本では2つの動きが起ります。

・日英同盟論
・日露協商論


日英同盟論とは、イギリスと同盟を結んでロシアと対決していこう、というもの。
これを主張していたのは軍部を掌握していた山県有朋、桂太郎ら。
ロシアとの全面対決(結局日露戦争に進むわけですが)を示唆してしますね。

一方日露協調論は、簡単に言えば「満韓交換論」
満州の権益はロシアにやるかわりに、韓国における日本の権益をロシアに認めさせるというもの。
これを主張していたのは伊藤博文や井上馨

結果はパワーバランスによって決まります。1901年桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって1902年、日英同盟が締結され日露戦争に突入することになります。

よく教科書などで「開戦論」「非戦論」があったとされていますが、実は国民のほとんどが「開戦論」で「非戦論」はほとんどいませんでした。

なぜならこれは「侵略のための戦争」ではなく、「ロシアの目に余る侵略行為」に対する戦争ととらえられていたからです。

「非戦論」を唱えていたのは幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の社会主義者やキリスト教的考えを持つ内村鑑三くらい。

さあて、日露戦争が始まってしまいます。
1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日

この戦争で有名なのが日本海海戦。
ロシアのバルチック艦隊はイギリスの嫌がらせに消耗しながらも無事故で日本海にたどり着く。

東郷平八郎の率いる連合艦隊は、秋山真之(あきやまさねゆき)(⇒江川達也の「日露戦争物語」の主人公)の活躍によって完勝。秋山真之は正岡子規と幼なじみだったことでも有名ですよね。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』もこの2名を題材にしていますよね。

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日本圧勝!バルチック艦隊陥落!のイメージの強い日露戦争ですが、ロシアは白旗をかかげたわけではありませんでした。日本画軍事的勝利っていっても、致命的で国を揺るがすほどでもなかったので、長期戦も予想されたんです。

でも、ここで救われた、というかラッキーだったのは日本。005.gif

ロシアはロシアでお国の事情を抱えていたんです。
1905年、血の日曜日事件にはじまる「第一次ロシア革命」が起り、ロマノフ王朝そのものが危機に瀕する状態だったんですから。

そこで、セオドア・ローズベルト大統領が仲介に入り、日本の小村寿太郎とロシアのヴィッテの間で「ポーツマス条約が結ばれます。

ですがここでも誤解している人があるかもしれないですが、「ポーツマス条約」は決して日本の軍事的勝利に対する講和ではないんですね。

日清戦争の場合は、日本の軍事的勝利に対する講和でした。
ですが、「双方とも戦争の続行が不可能な状態になった」ということに対する講和なので、「痛み分け」といったところです。

ただし、講和条約では旅順・大連の租借権をロシアから奪い、ロシアのモノであったのちの南満州鉄道(満鉄)の権益も手に入れ、樺太の南半分の領有権も得ます。監督に対する監督権も取ります。

軍事的に「勝利」を公認されたわけでないのに、これだけの条件を引き出したのはすごいことなんですよ。

ところが、当時の日本国民は「日露戦争は日本の大勝利」と思っていますから、
「なんで賠償金がとれへんねん!」と反発が起ります。


「引き分け」という「講和」だったんだから、当然といえば当然なのですが、「血を流したのに一銭も取れないのか!」と日比谷公園で決起集会を行っていた民衆の一部が暴徒化し、内務大臣官邸や新聞社や交番などを襲って火を放つまでの事態に。(日比谷焼打ち事件)

じっさい、賠償金が取れないことは日本にとって痛手でした。
1907年(明治40年)に戦後恐慌が起ります。(明治40年恐慌ともいいます)

莫大なお金を戦争で使いながら賠償金が採れなかったんだから。

次は「韓国併合」(1910)の流れに行きます。
お疲れ様でした。(わたし^^;)061.gif
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明治時代⑤-1 日露戦争①

いよいよ日露戦争に入って行きたいと思います。

さて日清戦争の講和条約として結ばれたのが「下関条約」でしたよね。
伊藤博文内閣総理大臣、陸奥宗光外務大臣と清の李鴻章のあいだで結ばれた条約で、以下のような内容でした。
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ところがこの中の「遼東半島の権利」についていち早く異を唱えたのはロシア。
当時、南下政策を進めていたロシアにとって遼東半島は自分たちが領有を計画していた場所だったんです。

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そこでロシアはドイツとフランスを抱き込んで、日本に圧力をかけてきました。
これが「三国干渉」ですね。

三国干渉にはイギリスは入ってないんやけど、日清戦争に先立ってイギリスはなぜ日本を支援する側に立ってたのか。それはロシアの南進をイギリスは阻止したかったんですよね。
だってイギリスの植民地がおびやかされる脅威があるから。

ロシアはなんで南下政策をとっていたのか。それはロシアってめちゃくちゃ寒いやんね。
だから海まで凍ってしまうわけで「不凍港」(一年中凍らない港)がほしかったんです。当時飛行機がなかったので。船が最強の輸送手段だったので国力的に後れをとっていた。この劣勢を盛り返すためにロシアはなんとしても「不凍港」がほしかったんですよね。

「三国干渉」の具体的な内容は「3000万両と引き換えに遼東半島は清に返還しろ」というもの。日本もさすがに列強三国に迫られれば、要求をのまざるをえず、遼東半島を清に返還します。この悔しさを「臥薪嘗胆」という言葉で表現されたのは有名やんね。

結局遼東半島は返還させられた上、その遼東半島はロシアが租借、つまり実質的に「期限付き占領」を行うわけです。グググググくやしーーー

とは言いながらも、日本は賠償金はもらってるわけです。その賠償金により日本資本主義の象徴である八幡製鉄所もこの資金で設立しました。

一方朝鮮半島の情勢です。


清から一見「独立」したように見えたんですが、実質は「親分」を「清」から「ロシア」に乗り換えたような格好です。ロシアはいよいよ南下政策を本格化させます!

そんな情勢の中「閔妃暗殺事件」が1895年に起ります。
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朝鮮王妃 閔妃が親露的になってきた、ということに対し、駐韓 公使であった三浦梧楼(みうらごろう)が指示して暗殺した、というもの。

しかし、この暗殺事件をきっかけに朝鮮は余計にロシアへの接近を強め、「大韓帝国」(韓国)を宣言。李王朝には変わらないんだけど、清からの独立、そしてロシアを親分にする、という意志表示を明らかにしたものでした。

一方清は日清戦争の敗北により列強の草刈り場と化し、特に満州進出をうかがうロシアは清に急接近。1896年に「露清密約」を結んでいます。
これはロシアに満州の権益を与える代わりに、日本が侵略してきたときは盾になってね、というもの。

その一環としてロシアに旅順、大連を租借させます。

このように中国の国土が次々と租借されていく現状に「扶清滅洋」、すなわり西洋の排撃と清国の独立を掲げる暴動が頻発。

特に「義和団」という宗教をバックにした「義和団の乱」が最も激しく起ります。
彼らは「義和団」という拳法を身につければ弾丸にあたっても死ななくなる、という信仰を抱いていたので捨て身で激しい暴動を起こすわけですね。
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その義和団の乱に押されるようにいて起るのが「北清事変」です。本来、暴動を鎮圧すべき清政府なのに、これらに同調して諸外国に対して宣戦布告をしちゃうわけです。

義和団は民衆の反乱ですが、それに押された「清政府」VS「連合国軍」(日英米仏露独墺伊)

連合国は8か国あるわけですが、もっとも活躍したのは地理的に一番近い日本。ついでロシア

事変終結後に「北京議定書」が結ばれ、日本は治安維持のため「駐屯軍」を配置することになります。

でも、ここでも日本のロシアへの不満の種が。

満州駐兵権(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになっちゃったんですね。
もっとも活躍したのは日本なのに!という不満。

そしてこの事態をイギリスも警戒することとなり、これが日英同盟が結ばれる素地となっていくわけです。
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さあて、ようやく日清戦争の説明です。

日清戦争の説明に入る前に時代は戻りますが、西郷隆盛らによる征韓論のあと、
1875年(明治8)に「江華島事件」が発生します。
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今の韓国の仁川(インニョン)の近くに江華島という島があります。
ここに日本軍艦の「雲楊(うんよう)」が威嚇行為をしたのが始まり。
その挑発に対して朝鮮側が発砲してきたので、それを口実に無理やり開国させたのが
「日朝修好条規」。そう、開国ってのは朝鮮もきほんは鎖国路線をとってたんやんね。

(※ちなみに朝鮮通信使は例外的な行事です)

あとは無関税特権。よく「日米通商修好条約は関税自主権がないから不平等条約だ」とか小学校で習うんですが、自主権どころか「無関税」、日本からの輸出品にはいっさい関税をかけない、とか日本が領事裁判権を持たないとか、日本側に都合がいいことばかりにの不平等条約だったのです。

日本も不平等条約を結ばされて怒ってたのに、朝鮮に対して同じことをやっておったわけですな。

当時の朝鮮は李氏朝鮮といいますが、清の属国のような状態でした
清が宗主国、つまり親分やったわけです。

そんな中、李氏朝鮮内部ではこんな考え方も生まれてきます。

「最近、日本が伸びてきてるみたいや。ほんで、清は欧米によって上海や広東に租借地とか設定されてるけど、日本はないらしいし、清より日本について行った方がええんちゃうか」・・・と。

そして朝鮮内部に親日派の「閔妃」、親清派の「大院君」の対立関係がうまれてきます。
「大院君」は国王、「高宗」の「父親」、「閔妃」は国王の「妃」です。

1882年、大院君(親清派)の一派が反乱をお越し、閔妃(親日派)側の政治家や政治顧問をしていた人を襲撃、日本公使館を焼き討ちしたりします。
これを「壬午事変」と言います。

焼き討ち自体は大したことがなかったんだけど、日本は高圧的態度に出て事後処理のため「済物浦(さいもっぽ)条約」を締結させ、高額の見舞金や損害賠償を要求します。

その結果、閔妃は親日派をやめてしまいました・・・。

そのあと、1884年に清仏戦争が起る。
まずフランスがベトナムに侵攻したとき、ベトナムは宗主国の親分である清に助けを求めるわけです。それがため清とフランスが戦争になるんだけれども、結果、清は敗北。

ベトナムはフランスの保護国になってしまいます。

このことが朝鮮国内に衝撃を与えるんですよね。

「自分たちと同じ立場のベトナムが清をしたっていたばかりに侵攻されてしまった。こんな親分の清についていっていいものか。やっぱ日本について行った方がいいんじゃないの」

こんな考えを持つ人が出てきます。それは「独立党」と呼ばれる人で「金玉均(きんぎょくきん)」を中心にクーデターを起こしました。これを「甲甲事変(こうしんじへん)」といいます。
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このとき、独立党は日本公使館の支援を受けるんですが、先の「親日派をやめた」「閔妃」は清に助けを求めます。

ここで日本と清の軍隊が朝鮮半島で対峙する格好になっちゃったんですよね。

でも清も日本もお互い戦争は避けたかった。
だって、清は清仏戦争のさなか、日本なんかと戦っていく余力はないし、日本も内閣制度がやっとできる頃で、外国と戦争なんかやってる場合じゃありません。

だから「天津条約」を結んで和解をすることになりました。

・・・・・・・・・・・ところがところが。
日本国内で日本の清や朝鮮に対する対応に批判が出てくるわけなんですね。

有名なのが福沢諭吉の「脱亜論」

私の高校の先生も福沢諭吉は立派な人物だけれど、この脱亜論はちょっとなあ、と言っていたのが思い起こされます。

脱亜論と言うのは日本がアジアから脱して西欧列強の仲間入りをするべき、清に妥協なんかすんな、日本は西欧並みに強いんだぞー(脱亜入欧)というもんでした。

その後、朝鮮では日本に対する反発が強まって、日本に対する米や大豆のなどの穀類の輸出を禁止するんですね。(防穀令)

それに対して日本は激怒。防穀令を廃止して損害賠償までもぎ取ります。

1894年、そうした状況下で勃発したのが「東学党の乱」です。
農民たちが減税と排日を旗印にした乱なんですが。朝鮮独自の宗教の「東学」の信奉者が関与していたのでこの乱の名が付きました。

この「東学党の乱」を鎮圧するため朝鮮政府は清に助けを求め、これに応じて清は兵を送り込むんですね。それに対抗するかたちで日本も朝鮮に兵を出して、農民の反乱は鎮圧されます。

・・が日清両軍はその後も朝鮮に駐留し続けて、さらに朝鮮内政への介入をめぐって対立を激化させてゆきます。つまるところ、「日清戦争」は朝鮮半島での主導権をめぐって衝突した戦争なんやね。

同年、「日英通商航海条約」を締結。列強の一角を味方につけたところで、日本は清に宣戦布告し
日清戦争がはじまるわけです。
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日清戦争は1894年8月から翌3月まで繰り広げられましたが、近代化が遅れた清軍に対し、海軍で勝利した日本側が最終的に優勢のうちに終結。

そして講和条約として結ばれたのが「下関条約」ですね。
思い出したかな。

で、国際的に見た視点。
日清戦争をきっかけに列強の侵略の手が一斉に「清」に向かうのです。

だってそれまで「眠れる獅子」、つまり広大な土地と中華思想のもと2,000年にわたってアジアの国を無条件にしたがえてきた大国が、日本みたいな小国(と思われていた)に負けちゃうんですよ。

この1890年代から列強の本格的な「中国分割」がはじまってゆくのです。

ちなみに「台湾」はこの下関条約の結果、日本の植民地になります。
台湾の日本統治時代というのは台湾が清朝(当時の中国)から日本に割譲された1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された1945年(昭和20年)10月25日までの間です。半世紀ものあいだ、植民地であったということやね。

・・・いったん日清戦争のはなし、おわり。011.gif
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③-2 内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)

さあ、どんどん行きます。
はてさて、結局「薩長」モードのまま「日清戦争」に突入するわけですが、日清戦争がはじまると、それまでの藩閥政府に反対していた人(⇒民党)たちの態度が変わってゆきます。

「あんたらのせいで戦争に負けた」なんて言われたらカナワンわけですから。

そこでそこで、伊藤も「民党といつまでも対立しても平行線」と思い、民党の抱き込みをはかる。

1896年(明治29)に板垣退助を内務大臣として入閣させます。
内務省と言うのは地方と警察を担っている官僚で、これを渡しちゃうってのもすごいとこなんですが、その結果、板垣退助の自由党は懐柔させられた、というか、完全に伊藤の出す案に賛成するようになります

第二次松坂内閣では大隈重信を外務大臣として起用。

民党を手中に収めたかと勢いづいた第三次伊藤博文内閣は、やりたくてもできなかった増税、「地租増徴」を実施しようと考えるんですが、これにはさすがに反対されちゃいます。

そして考えてみてください。当時選挙権があったのは税金をいっぱい収めているお金持ちだけでしたよね。地租増税っていったら有権者からも反対合戦にあってしまう

ここで伊藤は内閣を投げ出してしまいます。
そんな中、誕生したのが日本最初の政党内閣、憲政党の「大隈重信内閣」が誕生するわけです。ちなみに大隈重信は肥前。
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だけども、実質は大隈重信と板垣退助の2人をトップとする内閣なので「隈板内閣」と俗に言われたりもします。

でもね、その日本最初の政党内閣、は、たったの4か月しか続かなかったわけよ。

もともと板垣退助と大隈重信は仲かがいいわけでなかった。
単に「土地課税の税率を増やされたくない」「薩長ばっかは嫌」というのが一致していただけで、考えは全く違ったのだから。

次に出てくるのは「山県有朋」内閣。山県は長州なんですがあ。。。
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山県内閣は「やりたいことはやっちゃうぞ」って内閣。かっこよいく言うと「超然主義」と呼ばれていて、ずっとできなかった「地租増税」をあっさりやっちゃいました。

でも軍人だから、労働運動、社会主義運動みたいな邪魔な運動は力で抑え込むというような「治安警察法」を制定。

ただね、藩閥体制も一枚岩ではなかったんですよ。
伊藤博文を中心とする派閥と山県有朋を中心とする派閥に分かれていた。

どっちも長州なんだけど、二人の性格の違いかな。

山県は軍人で官僚主義的、問答無用でビシバシものごとを決めていく人。
一方伊藤は政治主導で相手と妥協しながら自分のやりたいことを書く実に実行するタイプ。

たとえば、伊藤はさきほども言ったとおり。日清戦争以降は民党を抱き込もうとしましたよね。

伊藤博文は同じ長州ながら、山県有朋のことが嫌い。
そういう勢力を集めて作ったのが「立憲政友会」そして第四次伊藤内閣が誕生します。

しかし、この内閣は「貴族院」の反発を受けるんです。当時は多額の納税者のほか」、勅選議員といって、その多くが天皇さんから任命してもらうんですよね。

それがうまいこといかなくて、すぐにこの伊藤内閣が潰れてしまう。

伊藤博文は自分の後継者として公家の西園寺公望を指名します。西園寺は公家だから貴族院のバックがあるってわけですね。

そのあと、総理大臣は桂太郎と西園寺公望が交互にやります。だから「桂園時代」というわけですね。
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桂太郎は長州で陸軍、官僚閥だからいわば山県有朋の子分です。一方西園寺公望は伊藤博文の子分です。

つまり、この時期は代理戦争というか、伊藤と山県の対立がその後継者にまで移って行った段階と言えます。
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明治時代③
③-1 内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)

さあて、政府に対する批判も西南戦争後はこれで終わりかなあと思ったら、
ここに「大隈重信」という人物が登場しますよ。その頃の「大蔵卿」、今でいう財務大臣ですが、政府の人なのに政府への反発を盛り上げるようなことをしてしまう。
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当時の財政状況は、というと、確かに西南戦争には勝ったんだけれども、莫大なお金を使った。・・・使ったって言ってもジャンジャンお金を印刷した。

今の感覚で言うと・・・「インフレになるに決まってますやん」というとこですね。

大隈重信は早稲田大学の創始者ですよね。
大隈重信は頭のいい人だから、なんとかしようとしても何を言っても反対される。
なぜって?大隈重信は「肥前」の人で「薩長」ではなかったわけです。

そんなときに「薩摩」の「黒田清隆」が北海道の「開拓使官有物払下げ事件」を起こしてしまう。

北海道の土地や船舶鉱山などを安価な値段で同郷の薩摩の政商の経営する会社に売ろうとするわけです。2,000万円かけたものを39万円、しかも分割で、なアホな、という話ですが、黒田もワイロをもらうつもりだったかもしれない。
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が、爪に火をともす財政難をなんとかしようと思っていた大隈重信は当然反発します。

結果的に払下げは取り下げになるんですが、自由民権運動が結果的に盛り上がる。これが国会開設の勅諭、となり民権派に10年後に国会をつくることを約束させるわけです。

が、この騒動の後始末として大隈重信とそのブレーンは政界から一掃されてしまう

これを「明治十四年の政変」と言います。

え、、ワイロ疑惑の黒田清隆が罷免されるんとちゃうの?(ー_ー)!!と思いますが、黒田清隆は薩摩・・・
ここでも「薩長」かいな、って感じですな  そんな時代なんですよ。
黒田清隆って、榎本武揚助けたイケメンって思ってたんやけど、イメージダウンや。

ほんで、大隈重信が政界から去った後、大蔵卿に就任したのは「薩摩」の松方正義

「正義」は「せいぎ」でなく「まさよし」と読みますが、「松方デフレ」という不名誉な名前が代名詞となっています。

「西南戦争」の後、おカネがなくなって、おカネを印刷しまくってインフレになったって言いましたよね、

それをなんとかするために、増税と緊縮財政をとるわけです。

そして紙幣の回収とともに1882年(明治15)、「日本銀行」を設立します。
いわゆる国立銀行でなく、民間銀行なんですよ。ややこしいですね。
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そこまではいいんですが、松方デフレ対策の結果、物価は下がる。
物価が下がって人々は大喜び、といったらそうは行かない。

それは昨今の日本を見たら同じ問題に直面していてよーく分かりますよね。

地租改正があって、江戸時代みたいにコメで収めるわけでなくなった。
そのコメの価値が下がるんだから、生活できなくなった農民は土地を手放して小作になる。

そうするとみずから耕作しなくても小作農からの地代をもらって生活する人(寄生地主)が出てくるわけですよ。
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そうすると貧しい農民は土地を手放して没落する一方、豊かな地主はどんどん豊かになる。デフレによってこういうことが起る。

今の流行のピケティ理論が出てくる背景にも似てますよね。

そして貧しい農民によって「激化運動」(武力による直接行動)が頻発するようになる。
これに板垣退助によって結成された自由党の一部過激派も加わってくる。

何度も言いますが、板垣退助の自由民権運動は必ずしも「庶民のため」「貧しい人のため」の運動ではなかった。
薩摩・長州の横暴によってワリを食っている人たちが、土佐・肥前の板垣退助らと結びついて、なんとか自分たちも権力を持ちたい、という動きだったとも言えます。


いまでも「国民の生活が第一」とか言っている政党のトップがなんとか御殿に住んでますよね(笑)

ただね、この激化事件、武装事件とか農民一揆とかになって、単なる過激集団として政府に恨まれるようになるんですよね。

そうすると、自由民権運動も下火になってくる。そんな頃の1885年(明治18)に内閣制度が発足、ご存知のとおり、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。

政府は太政官制を廃止して内閣制度を成立したわけなんです。

この内閣制度を創設した目的は、行政府の簡素化と同時に宮廷と政治を切り離すことが目的だったんですね。ここで内閣ははじめて「政府」と呼ばれることになるんです。

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でもね、1885年(明治18)の内閣制度がはじまったときの総理大臣は伊藤博文(長州)、二代目は黒田清隆(薩摩)、三代目の山県有朋(長州)、四代目の松方正義(薩摩)・・・

自由民権運動が下火になり発足した政府だから、結局「薩長」が交互に総理大臣になってる感じですよね。

松方正義内閣のとき、余計にそれを意識させるような意見が起ってしまった。
薩摩出身の海軍大臣 樺山資紀(かばやますけのり)がこんなことを言います。

「君らは薩長政府とかなんとか言うが、今日の日本がここまで立派な国になったのは誰のおかげか」
これを「蛮勇演説」というんですが、こんなことを言うから国会はますます紛糾して、とうとう議会は解散になってしまいます。

それでも、伊藤博文が二度目の総理大臣なって第二次伊藤内閣が発足。
1894年、日清戦争がはじまりますが、それはのちほど・・。
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明治時代②です。
②自由民権運動(不平士族の反乱)

行ってみましょう。
岩倉使節団が帰国した後、「廃刀令」と「秩禄処分」が出たために、士族は刀を召し上げられ、武士の特権がすべて奪われた結果、不満をもつ武士たちの反乱があちこちで起るわけです。仮に慣れない商売に手を出しても「士族の商法」としてあざ笑われ、武士が一番大事にしている「顔」も潰されるわけです。

征韓論を唱えたのはね、武士たちのためでもあったわけです。外国を攻めることでかれらの権威を取り戻してあげたかった。

しかし征韓論も先に述べたごとく否決されてしまう。
それとともに「不平士族の反乱」が各地で起り、その最大のものが西郷隆盛が擁立した1877年(明治10)の「西南戦争」なんです。
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戊辰戦争が東日本平定の内戦なら、西南戦争は西日本の不満分子の鎮圧ですね。
この西南戦争の鎮圧によって、日本史最後の内戦が終わるってことになるんです。

西南戦争では西郷隆盛が自決し内戦は終了するんですが、西南戦争の最中に木戸孝允は乱の行方を案じながら病死、大久保利通も「紀伊井坂(きおいざか)の変」で暗殺されます。

維新の三傑は次々に去り大隈重信、伊藤博文、井上馨の三頭政治へと移っていくわけです。

そして武力蜂起の無意味を悟った士族不満層や地主なおの地方富裕層は板垣退助の主導する自由民権運動に合流していきます。

ただね、この「西南戦争」は日本中に大きな衝撃を与えるわけですよ。
なぜって、そのときの西南戦争に勝った政府軍というのは4年前に始まった徴兵令で集められた軍人でもなんでもない農家の子とかの寄せ集めの軍隊ですよ。

それが勝ってしまった。士族には衝撃だったわけです。武力で政府に反発しても絶対に勝ち目はない、思い知らされる。(ー_ー)!!


そこで武力では無理だから言論で行こう、ということで西南戦争中に土佐出身の片岡健吉が立志社建白、いわゆる国会開設を求める意見書を出そうとします。

そして板垣退助が結社したものの弾圧を受けていた「愛国社」が1878年(明治11)に復活。

そして帝国議会、いまでいう国会がいよいよできたのは1889年(明治22)の大日本帝国憲法の発布を待たなくてはいけないんですが、自由民権運動もその礎を作った功績ともいえますね。

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自由民権運動のもともとは板垣退助(土佐)が「なんで薩摩長州ばっかりやねん」で始まった運動、と書いている本もありましたが(笑)

そして板垣退助はもうひとつの誤解が。

「板垣死すとも自由は死せず」という、いわゆる暴漢に遅された「岐阜事件」(1882年)明治15

これにより「暗殺」された、と思っている人もいますが、「死んでいません」(笑)
しかも有名なこのセリフも「言っていない」というのが最近の見解のようです。

1919年に板垣は死去しますが、「一代華族論」という主張から、嫡男は家督相続をせず、孫も爵位を返上してその高潔な遺志を貫いたとのことです。(めいよばんかい。。^^;)

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すっかりご無沙汰となってしまった歴史勉強ブログですが、
明治維新からまたちょっと初めてみましょうか。鎌倉から明治に飛んだりして無茶苦茶ですが、気が向いたら更新致します。(近代史は色々な解釈があり、微妙なところはあるのですが・・)

明治時代、1868年から1912年。明治は45年あるから、明治時代と呼ばれた時代は50年近くあったわけだ。大正時代は短いけど昭和は60年以上あり、平成も既に20年以上たっているから、「昭和」の時点で今の子にとっては「歴史」になる。

さて明治期は長いので5つに分けてみる。


①明治維新

②自由民権運動(不平士族の反乱)

③内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)


そして

④日清戦争(江華島事件から下関条約まで)

⑤日露戦争


てな感じでございます。

①の明治維新ですが、明治政府において、今も流行の「維新」を行う上で必要な様々な体制作りはすべてこの時期(1868年から1873年)に行われます。

廃藩置県、版籍奉還、地租改正、徴兵令・・・歴史の授業で聞いたことあるのばっかりでしょ。(*^_^*)

で、で、で、1871年(明治4年)の有名な出来事。「岩倉使節団」
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しかーし、条約改正のために行ったに、結局条約改正はすぐには難しいということで、単なる欧米視察になったというわけですね。

岩倉使節団には伊藤博文、木戸孝允、大久保利通、など当時の政府の首脳のほとんどが顔をそろえています。
留守政府には西郷隆盛や板垣退助、三条実美、江藤新平らが残ります。

あ、津田塾大学の「津田梅子」(当時6歳)も随行するんですよ。6歳で、しかも女性がって当時としてもすごいことなんだろうな、って思います。(*^_^*)

そして約2年の視察後、1873年(明治6)に彼らを待ち受けていたのが「征韓論」でありました。
朝鮮は清国を「宗主国」とあおぎ、近代化を推し進めようとした日本をいいように思っていなかった。

そんな朝鮮を武力 をもって朝鮮を開国しようとする主張なんですよね。
征韓論=西郷隆盛(薩摩)、というイメージがありますが、留守政府ですから板垣退助(土佐)や江藤新平(肥前)とかもそうです。
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しかし、岩倉使節団はヨーロッパを視察した結果、内地の要を痛感して帰ってくるのですから、当然「ナニ言うてまんねん」となるわけです。

そしてこれらの人によって「征韓論」は否決されます。
しかしだね、「征韓論」の背景にあったのは、それだけではないんですよ。

たまたま西郷どんは「薩摩」ですが、板垣退助(後藤象二郎)は「土佐」、江藤新平(副島種臣)は肥前。

つまり征韓論の中心的論者は「土佐」「肥前」だったんです。

続に「薩長土肥」って言いますが、「薩摩」・「長州」の意見は通るけれど、「土佐」「肥前」の意見は通らない、というのが当時の明治政府なんですよ。

ちなみに初代総理大臣、伊藤博文は「薩摩」やんね。
二代目の黒田清隆も「薩摩」

・・・ふむふむ。

・・・・そのような中、「土佐」「肥前」が、「なんで薩摩長州ばっかりやねん」という反発が生じた、それが「自由民権運動」になっていくんですよ。

え、自由民権運動って「庶民のための運動じゃなかったの?」と思うんですが、

いっぽう「征韓論」に反対した人として「大久保利通(薩摩)」がいますが、
「朝鮮かわいそう」って思ういい人やって思ったらそうと違います。<(`^´)>



大久保利通は2年後の1875年(明治8)に「江華島事件」をきっかけに朝鮮に対して不平等条約である「日朝修好条規」を強要して無理やり開国させるんですよ。(後述)

征韓論に反対した人=朝鮮かわいそうっていういい人
自由民権運動=庶民のために運動したいい人
・・・っていう子供の頃の学習イメージは間違い。


色々な思惑があり、自分たちの権威を守るために当時の人は必死だったことが分かります。
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千家は千利休を流祖とするというのはご存知のとおり。

「千」という名まえは利休の祖父である、田中千阿弥の名から取ったと言われています。

利休の死後、本家である堺千家を千道安が継ぎますが、道安が亡くなると堺千家は断絶。

現在の千家は「三千家」といい、表千家、裏千家、武者小路千家からなります。

利休の後妻の連れ子で娘婿でもある、千少庵の系統です。

表千家の七代 如心斉が「千家を名乗るのは三千家のみ」と定めたことから、この三千家のみを千家と呼ぶようになりました。

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いまや歴史の教科書で鎌倉幕府の成立は1192(いい国)ではなく、1185
になっているそうですね。

では逆に1192はなんの年か。そう、源頼朝が征夷大将軍に任命された年ですね。
そして、1192年は後白河法皇が亡くなった年でもあります。

後白河法皇が生きている間は「右近衛大将」という低い地位でしかなかった。単なる朝廷の護衛です。
いわゆる近衛兵ですよ。たった10日で頼朝は辞任しています。
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恐らく、後白河法皇が生きている間は許してもらえなかったのではないかと言われています。
そして、後白河法皇が亡くなった1192年に後鳥羽法皇から征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立するのです。

ちなみに1185年は守護・地頭の設置。政治基盤(守護=御家人のまとめ役)と財政基盤(地頭=荘園の管理)が確立されたときをもって、鎌倉幕府の成立とみなすというわけです。

ここでふとした疑問。これまで政治の中心は京都でした。そしてその後の足利の室町幕府も京都ですよね。
なぜ「鎌倉」なのか。

それは、征夷大将軍の名目が「蝦夷討伐」のリーダーだったからなのですね。
のちの室町幕府のように、京都にいながら関東を支配するというのは実は大変なことなのです。また、頼朝自身は貴族化して朝廷の中で権力を握ろうという気はなく、また朝廷の権力を奪おうというつもりもありませんでした。
だって、平氏は貴族化して朝廷をも思いどおりにしようとして失敗したでしょ。(ー_ー)!!
むしろ、関東にいて朝廷の権威を借りながら全国の御家人を支配するという体制、朝廷と幕府との共存体制をつくりあげたのです。(^O^)

頼朝はとてもカリスマ性の高い人物で、周囲も頼朝だから言うことを聞くというところがありました。ところが、頼朝は53歳でその生涯を終えます

死因は落馬が原因だったと伝えられていますが、幕府の正史たる「吾妻鏡」」にはその死後の前後の部分だけが欠落しており、どうやら秘匿すべき最期だとも言われています。(@_@)

昔から暗殺説が根強くありますが、落馬が原因というのが一般的とされています。いずれにせよ、突然亡くなったということが言えそうです。(ー_ー)!!

頼朝の死後、2代将軍に就任したのは頼朝の子、頼家でした。しかし、位についてわずか3か月後、独断専横のふるまいが御家人の反感を買い、政治は有力御家人13人の合議制となってしまいました。

ここから北条氏への権力の移行が始まります。\(~o~)/

まず、有力御家人梶原景時を倒します。

梶原景時といえば、源平の争乱の最初の戦いの石橋山の戦いで、頼朝があわや殺されそうになったときに、頼朝を助けた人で頼朝の命の恩人、御家人の中でも最有力者だった人物です。

そして、そして、ニャンと!
時政は源頼家を伊豆修禅寺に幽閉して殺し、頼家の弟・実朝を将軍に据えます。

発端は、比企能員の乱
比企能員は自分の娘を頼家にとつがせており、そこに生まれたのが一幡(いちまん)と公暁(くぎょう)でした。

北条時政は頼朝と政子との間に生まれた頼家と実朝によって力を持つことになりますが、比企能員も同じことを考えていました。つまり比企能員の孫である一幡と公暁も将軍候補となりうるわけです。

そこで北条時政はまず比企能員だまし討ちにし、一幡を殺します。そして言うことを聞かない頼家を伊豆の修善寺に幽閉し、実朝を三代将軍に立てます。

▼鎌倉右大臣とは源実朝のこと。
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これをきっかけに北条時政は執権となり、北条家が代々世襲します。
そして、翌1204年、頼家は修善寺で殺されてしまいます。

北条時政のあとは、その子、北条義時が執権に就任。
義時は頼家の子、公暁にこう、そそのかします。
「あなたの兄、一幡も父の頼家も祖父の比企能員も実朝によって殺されたのだよ」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!なんと。

いずれの抹殺の首謀者も北条氏ですが、そんなことはおくびにも出さず、公暁は1219年鶴岡八幡宮にて将軍・実朝を暗殺。(享年28歳)
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鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を無事に終えた実朝が仲章を従えて雪の積もった石段を降りていると、実朝から向かって右側にある大銀杏の陰から若い山伏姿に頭巾を被った公暁が刀を持って飛び出してきて「親の敵はかく討つぞ」と叫び地面を引きずっている実朝の正装を踏みつけて駆け寄りそのまま斬り殺して首を刎ねたのです。 <`ヘ´>

「男は実朝の首を手に持って現場から逃走、楼門の外に居た公家や御家人は慌てふためいて蜘蛛の子を散らすように逃走し、鶴岡八幡宮の中には入れなかった殆どの随兵たちは事件の事も知らないままだった」と『愚管抄』は伝えて居ます。 (ー_ー)!!

本人にすれば仇討ちのつもりだったのでしょうが、これは将軍暗殺の重罪です。
公暁は討伐されてしまいます。(1219年)(享年20歳)

このようにして、源氏はことごとくいなくなってしまいました。

つまり、頼朝は「いい国」を作れなかった。北条が支配するための「いいハコ」を作ったにすぎなかったのですね。
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