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張作霖爆殺事件で田中義一首相が退陣した後は、
政権与党が交代。立憲民政党の
濱口雄幸内閣が誕生します。
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浜口は大蔵省の出身で経済畑の大臣。
1920年代というのは、20年(第一次世界大戦後の戦後恐慌)、23年(震災恐慌)、27年(取り付け騒ぎが起こった金融恐慌)とほぼ3年おきに恐慌がおこっていた時代。

高橋是清の政策によって金融恐慌はなんとか脱したものの、不景気には変わりありません。
そこで経済畑の浜口雄幸が行ったのは、金融財政・経済合理化に加え、「金本位制度の復活」でした。

日本は1897年、日清戦争の直後に金本位制になったんですが、第一次世界大戦後の混乱でヨーロッパ諸国はみーんな金本位制を辞めちゃったんですね。それにならって日本もやめたワケ。

でも日本って通貨に信頼をもってもらって、為替も安定させて日本のモノをバンバン外国に売り込んでいきたい、・・・そう思ったわけやね。

しかし、結果的に円高になってモノがうれなくなったうえに、さらに金本位制にして世界経済とつながったがために「世界恐慌」にもリンクしちゃい、こうして

1930年に「昭和恐慌」が発生してしまいました・・・

しかもこの年、お米が大豊作になって、米価が著しく下落。
消費者はお米が安くなってウレシイと思うかもしれんけど、生産農家は収入が減って大打撃。

また世界恐慌でアメリカに対する生糸の輸出量が激減。
農家の多くではお米だけでなくお蚕を飼ってたんですよね。
しかもこの頃欧米では「人絹」(いわゆる化学繊維)の製造がはじまり、ますます高価な絹は売れなくなります。

幾重にも悪い条件が重なり「農業恐慌」となり、地方では栄養失調の子供が続出、娘の身売りまで行われるようになりました。

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1930年に「昭和恐慌」が起こり、会社が次々潰れていくので、それを防止するため
「カルテルの結成」を助長するような法律、重要産業統制法1931年(昭和6年)が制定されます。

要するに、重要な産業が潰れるとこまるから大企業と合併しなさい、というのが主旨。
結果、政府にとって重要な産業を「四大財閥」が独占するようになるんですね。
そう、三井・三菱・住友・安田

2つの恐慌によって日本経済は財閥が独占するようになり、このあと日本の政治は軍部が独占するようになるのです。

日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、
「もっとも儲かる商売」に手を出します。

・・・それが「戦争」です。

日本がファシズムにいたる要因がここでひとつ完成するわけです。

外交の方なんですが、1930年(昭和5年)に「ロンドン海軍軍縮会議」が行われ、浜口内閣の外務大臣、幣原喜重郎が参加。

幣原喜重郎っていったら1921のワシントン会議でボコられた人ですね。

協調路線の浜口内閣は海軍の反対を押し切り、調印するんですが海軍や右翼勢力は反発するわけです。

浜口内閣はなんとか条約の批准にこぎつけたけれど、東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負うんですね。原内閣が暗殺されたのと同じ構図です。

さらにこの時期、「金解禁で不景気になった責任取れやーー」と「軍部政権」樹立をもくろむクーデターまで起こってしまいます。(3月事件)(1931年(昭和6年)年3月)

こうして浜口内閣は退陣し、与党は立憲民政党のまま、若槻礼次郎内閣が就任します。(第二次若槻内閣)
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さてさて、なんとか金融恐慌を高橋是清大蔵大臣の力で収束させた
田中義一首相

田中首相はもともと陸軍の出身で、このときは立憲政友会の総裁です。
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若槻内閣の頃(⇒昭和最初の首相。金融恐慌の責任をとって辞職)の外務大臣は幣原喜重郎(ワシントン会議でボコられ、第一次世界大戦で得た権益を吐き出されるとともに軍縮を求められた)ですが、ワシントン体制を受け入れたことでもわかるように協調外交路線をとっていました。

でも実は枢密院は不満であり、外相も兼務する田中義一は中国に対して強硬な政策を推進します。

その頃中国では反日派の蒋介石が率いる国民政府(南京)が支持を集め、全土統一を目指していましたが、各地には「軍閥」と呼ばれる人が割拠していて、日本でいう
「戦国大名」が天下一を目指す「戦国時代」みたいになっていたわけです。

日本が関心を示していた満州は親日派の軍閥・張作霖が支配していました。

当時は旅順・大連の租借権は日本にありましたし、長春より南側の南満州鉄道(満鉄)の権益も日本にあったので、張作霖としてもここで日本と組むことによってお互いの権益を拡張していった方が得策、と考えるわけです。

一方、反日をとなえる蒋介石は、親日派の張作霖が支配している華北や満州に
「国民革命軍」を派遣します。これが「北伐」というやつで、もちろん日本にとっても非常に邪魔な存在です。

そこで田中義一首相は外交官や軍人を集めて、対中国政策を検討する東方会議を開き、中国における権益は武力行使してでも守る、という姿勢を示し・・・・・・・

「蒋介石の北伐を食い止める」名のもと、「山東出兵」を行います。

ところがところが、南京の蒋介石だけでなく、北京や上海の勢力などが北伐に合流してきたため、張作霖は押され気味になってしまいます。

ここで関東軍(関東州[旅順・大連]と満州に駐留した日本の舞台)の参謀の河本大作は
「このままだと張作霖が蒋介石の側に寝返ってしまうのではないか」と気になり始めます。

それくらいなら、張作霖を守るより、むしろ抹殺して自分たちで直接満州を支配したほうがいいんじゃないか、と考えるわけです。

そこで行われたのが1928年6月の張作霖爆殺事件です。
張作霖が乗っていた列車を奉天で爆破し殺害したのです。
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・・・・・・・・・・・・!!!!!む・ごすぎる。

ところが人ひとりを殺すのは簡単かもしれないですが、満州を支配するのは、そう簡単ではありません。結局張作霖は殺したのだけれど、満州支配は失敗します。

それだけでなく、張作霖の子、張学良が日本を信用していた父親が殺される、ということで、蒋介石と手を組んでしまいます。その結果、国民政府による中国統一が達成されてしまいます。
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ところで満州を支配するために張作霖を殺したのは関東軍の「独断」でした。
それが「最悪」の結果におわってしまったわけです。
こうしてこの事件の処理をめぐって昭和天皇の信頼を失った田中義一首相は1929年7月、総理大臣を辞任します。

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たった15年でも激動の時代、大正。
大正天皇が死去し、引き続き激動の時代は昭和へと移ります。

昭和は昭和天皇の在位期間である
1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。
(覚え方 昭和に「行く風呂」平成に「行く約束」

昭和時代の最初の内閣総理大臣は誰ですか?という問いに意外と答えられない人が多いと思いますが、答えは「若槻礼次郎」です。彼は加藤高明内閣の死去により、その意思が引き継がれた内閣です。(憲政会)
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若槻内閣は昭和の時代になっても震災恐慌をひきづっており、深刻な経済問題に立たされていました。とくに「震災手形」の問題が未解決のままだったんです。

そんな中、とんでもない失言を大臣がしてしまうのです。
それが片岡直温(かたおかなおはる)
「本日、東京渡辺銀行が破たんしたが、まことに遺憾なことであります」

「・・・・・・・・!!?!!!!」

この銀行は一時支払いを中止していたけれど、破たんはしていなかったんですよ。
なのに、そんなことを言うから・・。そう「取り付け騒ぎ」で本当に倒産してしまったんですね。
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それだけではありません。取り付け騒ぎがほかの銀行まで波及し、つぶれるという最悪の事態を巻き起こしてしまったんです。これが昭和に入ってショッパナ起った「金融恐慌」です。

金融恐慌は全国に拡大し、特殊銀行(特定の政策のために設立された銀行)の台湾銀行までが休業に追いやられました。
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台湾で砂糖やバナナを扱っていた鈴木商店という第一世界大戦で巨額の融資をしていた、いわゆる成金の一種の会社があったんですが、その鈴木商店が金融恐慌によって倒産したので、台湾銀行は大打撃を受けます。

これに対して若槻内閣は日銀の特別貸し出しによって台湾銀行を救済しようと思ったんですが、これが枢密院(天皇の諮問機関)の反対を受けて廃案にされてしまいます。

こうして恐慌を抑えることができなかった若槻内閣は総辞職してしまいます。

昭和最初の内閣はあえなく総辞職。

次に就任したのは立憲政友会の田中義一内閣です。
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田中内閣は高橋是清を大蔵大臣に据えて恐慌対策に取り組み、緊急勅令によって、「モラトリアム(支払い猶予)」を実施しました。

でもモラトリアムっていっても、永久に預金者がお金を下せないのではなく3週間。
この3週間の間に日銀は各銀行に特別貸し出しをし、経営を改善させたんです。

ただ銀行に融資しても経営状態が悪くて潰れられたら元も子もないので、ここで銀行法を改正します。それは「資本金規制」などの改正。つまり中小の銀行を存在できないようにすれば、潰れなくなりますよね。

その結果、銀行は合併され、三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行に集約されました。
これによって、この後のファシズムにいたる道程で財閥による金融資本の独占が起ってくることになります。

ともあれ、高橋大蔵大臣のこうした政策によって、金融恐慌はひとまず収束に向かいました。

金融危機と収束は首相の違いというより大蔵大臣の違いかな。
しかしこれによって協調外交の若槻内閣から強硬外交の田中義一に内閣が交代しました・・。
アホ大臣のせいで内閣が総辞職しなくてはいけないことになる、っていうのは今も昔も一緒ですね・・。
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関東大震災と震災恐慌 、普通選挙法

ダルマさん内閣、居ぬき内閣こと高橋是清内閣。政友会の内紛により瓦解しちゃいます。
その後、内閣総理大臣になったのは「加藤友三郎」でした。

加藤友三郎とは幣原っちと一緒にワシントン会議で全権委任された人やったね。
でも「二人の加藤」っていうように、「加藤高明」とは別人やからね。注意してね。
東郷平八郎、山本権兵衛につづく「日本海軍の三祖」の一人である加藤友三郎は、とても聡明な人。「坂の上の雲」でも登場してきてるよ。

でも、この加藤友三郎内閣、現役のまま1923年8月に急死してしまい、その後、後任は「第二次山本権兵衛」内閣になります。

ところがところが、その矢先の1923年9月、文字通り激震が走ります。

関東大震災です。
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大規模な被害だったことは言うに及ばず。
これをきっかけに「震災恐慌」が起ります。
たとえば、震災によってみいんなが資産を失ってしまい、手形を現金化できなくなり、銀行の経営を圧迫し中小企業の倒産も相次ぎます。
この現金化できなくなった手形を「震災手形」といいます。

この恐慌から早く脱出しなくてはいけない、ということで行ったのが「支払い猶予」(モラトリアム)・・おや、どっかで聞いたことがある言葉!?

9月中にすぐに出されたのが「震災手形割引損失補償令」
これは、関東大震災の結果、不渡りになった手形を日銀が割り引いて買い取る、というものでした。

しかし、そーすると日銀が厳しい状況になりますよね。
結果として「恐慌」の回避にはならなかったわけです。

こんな感じで世情が混乱する中、1923年12月に東京虎ノ門で摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)が狙撃される、という事件が起こりました。

「虎ノ門事件」
お聞きになったことがあるのでは?
この責任を取って、山本権兵衛内閣は総辞職してしまいます。

その後を継いだのは1924年1月成立の「清浦奎吾内閣」です。
この人はマタ、貴族院と官僚の勢力をバックに政党から一人も入閣させない「超然内閣」を組織します。

ところが、これに対してやはり反発がでます。
憲政会(加藤高明)
立憲政友会(高橋是清)
革新倶楽部(犬養毅)

の三党は第二次護憲運動を展開し、内閣打倒を目指しました。

この三頭をまとめて護憲三派と言います。
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これに対抗して清浦内閣も解散総選挙に打って出ますが、大敗。
結果、第一次加藤高明内閣が発足します。

ところで、大正天皇が即位したとき、
元老は、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望の6人がいましたよね。

でも大正という短い期間に次々と亡くなり、1924年には西園寺公望1名になりました。

西園寺公望はもともと公家ですから、藩閥にとらわれることなく二大政党の党首が交互に総理大臣をつとめる、といういわゆる「憲政の常道」という慣例が始まります。

こういった動きは吉野作造を中心とした民主主義的改革を求める「大正デモクラシー」の影響もあるといえます。大正デモクラシーは世論の力も表面化させます。

こうした背景もあり、加藤高明内閣がまず手を付けたのが「普通選挙法」の制定でした。

これにより、資産に関係なく選挙に参加できるようになりました。
ただし、これは男性だけ。女性の参政権が認められたのは戦後になってからです。

それと見逃せないのが「治安維持法」の制定です。

日本はこの年、新しく建国したソヴィエト連邦と国交を樹立し、
「日ソ基本条約」を締結しましたが、これによって日本の社会主義、共産主義が拡大する懸念があります。

また普通選挙法の制定にともない「無産政党」から国会議員がでる可能性も考えられます。

つまり普通選挙法で一方で紐を緩めて、治安維持法という法律で取締りを厳しくした。

この治安維持法は、戦争へと驀進する政府によって都合よく利用されることになります。
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さて第一次世界大戦が終わったころ、原内閣が暗殺される前の頃に時間を戻します。
(つまり原内閣の時代)

1918年に第一次世界大戦が終わり、1919年に「パリ講和会議」が開かれ、戦勝国の一員として日本国も出席しました。(西園寺公望と牧野伸顕が出席)

1919年、年号を暗記しませんでした?締結された講和条約は「ヴェルサイユ条約」ですね。
この会議で定められた体制を「ヴェルサイユ体制」といいます。
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ここで唱えられたのは「民族自決」です。
この民族自決って言葉も聞いたことがあるやんね。民族の独立性、つまり植民地反対!と思いきや、そうじゃない。大きな落とし穴があるんですよ。(><)

民族自決とは「ある民族がある民族を支配する状況が植民地支配が起る。すべての民族は独立すべき」、とここまではいいんですがここでいう民族自決は「白色人種」に限定したもの

「これっておかしい!」と日本は「人種差別撤廃案」を提出するんですが、これは「世界で初めて」だそうなんですね。「人種差別撤廃」という考え自体が当時は画期的だった。まあ、日本人が「白色人種」でなくつまはじきにされたためと言えるかもしれないですが、「多数決でなく全会一致じゃないとそんな考え認められないよ」というアメリカのウィルソン議長の独断によりあえなく葬り去られます。

こんなこともあり、ウィルソン大統領(米)がとなえる「平和原則」なんて虚構なんじゃないか!というふうにも思っちゃいますよね。

パリ講和会議では、二度とあのような戦争はしないようにしよう、そのために世界平和の機関を作ろうっていうことで設立されたのが「国際連盟」です。(1919年6月28日)

■国際連盟の問題点

国際連盟の常任理事国は「イギリス、フランス、日本、イタリア」の四か国ですね。
ここで気づきません?
ロシアとアメリカが入ってませんやん!と。

ロシアはロシア革命の直後で、当時はほとんどの国が「ソヴィエト革命」政権を国家として認めていなかったので、国際連盟に入れてもらえなかったんです。

でほなアメリカは?国際連盟の設立を推進してた国やん?

これはアメリカが「モンロー主義」を唱えていたからなんですね。

モンロー主義?マリリンモンロー?ちゃいますがな。
アメリカの5代大統領モンローが提唱した、アメリカとヨーロッパ大国の相互不干渉主義に由来してるんです。

また国際連盟は「全会一致」が原則ですが、結局各国は自国の利害を優先させますから、抑止機能がない、という欠点もありました。なんじゃそれ・・
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原内閣が暗殺されちゃった、その後に内閣になったのが高橋是清内閣
1921年(大正10年)11月13日から1922年(大正11年)6月12日までの短い政権で閣僚もそのまま引き継いだので「居ぬき内閣」とかも言われちゃっていますが、その間に大きな出来事があります。
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それが「ワシントン会議」1921年の終わりから1922年にかけて。
このワシントン会議を端的にいうと第一次世界大戦後、国際政治の主導権を握ったアメリカが日本、英国の軍備縮小をねらったもの(と言えなくもない)

まず「日英同盟」は廃棄になります。

ほんで国際平和の名のもとに海軍主艦保有バランスがどうの、と言われて主力艦の割合が決められる。アメリカイギリス5・日本3・フランスイギリスが1.65
一見すると日本はフランスイギリスの倍やん!と思いますが、両国はヨーロッパ大陸にあるんやからもともと海軍はあまり要らないんですね。
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それより日本がアメリカやイギリスの6割ってのは結構な差異です。

また中国の「門戸開放」「主権尊重」「機会均等」の名のもとに日本が持っていた山東半島の旧ドイツ権益を返還することになりました。

え、他の国は租借地いっさい返してないやん!となるけれど、
「いや~私らのは前から持ってたけど、日本は第一次世界大戦のときにドイツから奪い取ったものでしょ」っていう理屈。

日本はこの会議で第一次世界大戦で飲み込んだものをすべて吐き出すように強制されたといわれています。

逆に呼ばれなかったソ連は自由にアジアを侵略することができたとも言われています。
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これらに日本も反発してもよかったかもしれんのですが、全権として参加した幣原喜重郎、加藤友三郎は受け入れます。
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米騒動(1918年)後の影響。

人気はなくなって政府への支持が落ちると、内閣総理大臣を決める元老たちは、とたんに政党や国民にコビを売るようになります。

政党内閣を徹底的に忌避した山県有朋元老も万策尽きたってトコでしょうかね。

遂に1918年に立憲政友会党首 原敬が総理大臣になります。

有名なのは「平民宰相」と呼ばれたことやね。

それまでの総理大臣はすべてが華族とか士族で貴族院議員だったわけよ。

でもこの原敬は岩手選出の衆議院議員で、藩閥もなかったわけ。だから平民宰相と呼ばれて国民から大いに支持されたのよね。
しかも軍部大臣と外務大臣以外はほとんど立憲政友会の党員という
「初の本格的な政党内閣」の誕生というわけです。
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原敬が立派なひとかどうかはわかりませんが、原敬の権力は一時頂点になったってこと。
そもそも選挙法を改正して納税資格を下げたんやけど、これによって増えた選挙権保有者は原さんのお蔭で投票できるようになったんやし、みーんな原さんに入れはりますわな。

原敬は第一次世界大戦にともなう好景気で増えた税収によって、教育、交通機関、貿易、国防の充実をはかります。(四大政綱)こりゃ圧勝しないわけはない。

しかし、第一次世界大戦が終わり、いわゆる戦後期に入ると様相がかわってきます。
戦争中は日本国内は大戦景気に沸きました。

しかし第一次世界大戦が終わるとヨーロッパはアジア市場に復帰します。
当時の日本のモノは安くて高品質の「いいモノ」だったから売れていたわけではありません。単に物資が不足していたので買われていただけだったんですよね。

戦後になり国際競争力の強いヨーロッパ商品がアジア市場に入ると日本の製品はたちまち売れなくなる。そしてこの結果、好況から一気に「恐慌」になってしまう。

1920年の戦後恐慌です。

その中で1921年に東京駅で原敬首相が刺殺されるという事件が起こり、原内閣は終わります。
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確かに人口が二倍になると市場も二倍になります。
でもそこでおしまい。アジアに輸出しようとしてもヨーロッパには太刀打ちできない。
これがその頃の日本の産業革命の限界でした。

一方全世界に植民地を持つイギリスは植民地をベースにした産業革命で生まれた大量生産品を売りさばき、原料も調達します。

そうすると、日本も「植民地が必要だ」と思うわけですね。

成熟していない世の中において、産業革命の行きつく先はどうしても「帝国主義」になってしまうんです。(ー_ー)!!
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国内の政治に目を戻しましょう。

第一次世界大戦ではよその国が戦っている「漁夫の利」的に色々な権益やお金を手に入れた日本だったんですが、当時の内閣は「寺内正毅」内閣。
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彼は長州閥陸軍閥、しかも政党の意向には頓着しない超然主義、てなことで民党にとっては三拍子そろって都合の悪い政権でした。

それでも彼は戦争にも勝ち、景気もイイってなことで国民の支持を得ることができておりました。ところが、それを変える思わぬ出来事が・・・

それは「米騒動」でした。
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米騒動の発端は「シベリア出兵」によるもの。「シベリア出兵」は「ロシア革命」が発端であります!

じつは「シベリア出兵」なんていう戦争は存在しないんですね。当時の日本人は何をやってるか分からんかって、目的不明に浪費だけを重ね撤退したという悲惨な事件だったんです。

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ほんでロシア革命によってロシアが連合国側から離脱するんですね。このとき連合国は日本にその抵抗としてシベリアへの出兵を要請されるわけです。

日本の戦争指導は迷走を極めたんですが、結局アメリカと仲良くせな!てなことで出兵方針となったのです。

アメリカ、イギリス、フランス、日本の4か国ね。

出兵の名目はチェコスロバキア軍の救援なんですが、実質的にはロシアに対する革命干渉です。


日本でもシベリア出兵が決まると、兵隊に米を持たせるためにお米が大量に必要になりますね。そのあたりを見越して米穀承認が米価のつり上げをはかったんです。
コメはあるのに不足しているふりをして売り惜しみをしたわけ。
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1918年、急速な米価高騰に対して富山県の漁村の主婦たちによる反発運動が表面化しました。これが「米騒動」といわれるやつで「越中女一揆」とも言います。

これがきっかけで全国に広がるわけだ。

これに対し寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧しようとするんですね。
悪いのは米価を釣り上げている承認なのに、それに対する規制や処罰をしないで、デモを直接強硬に鎮圧させるなんていかにも軍人的発想やね。

てなことで、好況と思われ、一時は盤石と思われた寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。

次に内閣になるのは・・そう、ご存知平民宰相やね。
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サラエヴォ事件を契機とした第一次世界大戦がはじまると、
三国同盟のイタリアに変化が。ドイツ主導の帝国主義に嫌気がさして、連合国側に寝返ってしまうんですね!

アメリカも当初中立の立場をとっていたんですが、参戦に転じたのはドイツが始めた「無制限潜水艦作戦」。戦争状態において、潜水艦が、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せず、無警告で攻撃する作戦で、関係ない商船とかも犠牲になる可能性があるんです。

これによってアメリカの船も国籍を確認されないまま被害にあっていて、アメリカも放置できなくなったんですよね。

こないなことで、世界のほとんどの国がドイツの敵になり、アメリカが連合国軍に加わったことで連合国側の圧勝に終わりました。

ここで日本はなんで参戦したんやろね、ていう疑問がでますね。
ヨーロッパ諸国同士の総力戦であって日本は関係あらへんやん、と思うんですが、
理由は、中国での利権の拡大をもくろむ日本にとって、ドイツから利権を奪う絶好のチャンスや!と思ったわけなんです。

そんなこんなで山東半島にあるドイツの租借地「青島(チンタオ)」などを占領することに成功します。

さらに1915年(大正4)、ヨーロッパ諸国がアジアから目を離しているすきに中国に対して高圧的な「二十一カ条の要求」をつきつけました。
袁世凱ひきいる「中華民国」はそのほとんどを引き受けます。これによって中国国内の反日運動を加速させることになります。中国の人はこれを屈辱として「国恥記念日」としたくらいですから。
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このあと日本は
1916年に第四次日露協約
1917年に日英覚書、アメリカとは石井・ランシング協定
をそれぞれ結んで日本が第一次世界大戦中にやったことをロシア、イギリス、アメリカに結果的に認めさせます。

アメリカは日本の中国進出には否定的でしたが、お互いの「門戸開放・機会均等」を認める代わりに日本の特殊権益を承認してもらったのでした。

この「門戸開放」とはアメリカも自由に進出していいよ!ってことです。
当時の世界三大国は、イギリス、アメリカ、ロシアですから、国際社会のパワーバランスで買っていくにはこれらの3国を味方に付けることが必要でした。

逆に言うとこれらが認めれれば、反発する国は世界中で存在しません。
こうして日本は第一次世界大戦で得た権益を確実なものにしていくのでした。

また日本は経済面においても巨利を獲得します。

いわゆる「大戦景気」といわれる空前の好景気。
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好況の原因は、戦争によって品不足に陥った欧州諸国への物品供給とアジアから撤退した欧州製品の穴埋めが輸出を急増させたってこと。

品物はいくら値段を釣り上げてもつくっただけ売れるし、特に戦争物資の輸出にともなう極度の船不足から海運業も発達。ここで思い浮かぶキーワードはあるかい??

そう「船成金」やね。こんな風刺画教科書で見たことあるでしょ。
この大戦景気に一獲千金を得た人ね。
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けれども一般庶民はたいして好景気の影響を受けず、むしろ輸出過剰による国内の品不足のため物価は上がりますます生計は苦しくなっちゃったんだ。

ちなみにこの風刺画は料亭を出るときの灯り代わりにお札を燃やしているんやけど100円札、現在だと20万円くらいの価値のお札のようです。
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それでは、大正という短い15年の間の大きな出来事、
第一次世界大戦について説明をします。

国際情勢からですよね。

日露戦争によりロシアの極東進出が失敗すると、イギリスはロシアとの対立関係を調整しはじめます。

というのも、ドイツが軍事力を強化してトルコに進出したため、イギリスとドイツの対立が更に深まっていったからです。

イギリスは南下政策をやめたロシアより、あまり植民地を持っていなかったドイツやイタリアが帝国主義化し植民地獲得に乗り出したことが脅威やったわけです。ということで1907年、英露協商を結びます。

でも、それが三国同盟側と三国協商側がにらみ合うきっかけになってしまったのですね。
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こうしてパワーバランスが変わることによってバルカン半島でいろいろな紛争が起って第一次世界大戦となるわけですが、直接の引き金になったのはなんといっても
「サラエヴォ事件」ですよね。

1914年、オーストリアの皇太子夫婦がセルビア人に暗殺されるという事件が起こりました。
ここでオーストリアとセルビアが戦争します。
セルビアはバルカン半島にある小さな1国ですよ。

そこにセルビアと親交があったロシアが参戦し、これにフランス、イギリスが加わります。

オーストリアにはドイツがつきます。

こうして、最終的にはヨーロッパ全土に広がり、世界を二分した第一次世界大戦に発展することになります。

日本は「日英同盟」を理由に「三国協商」(連合国)側としてドイツに宣戦布告しこれに参戦します。

つづく
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明治の次は大正時代です。
大正時代は1912年(明治45年/大正元年)から1926年の15年間の短い期間です。

なので時代をまたがって説明するところもあるのですが、
大正天皇って正直あんまりイメージってなかったです。

でもある本によると家族を大切にする親しみやすい天皇さんやったらしいね。
明治時代は維新から富国強兵、不平等条約改正、と激動の時代。明治天皇は非常に厳格で、近親者でさえ声も聞いたことがないというくらい、権威づけられ、遠い存在のような印象なのですが、大正天皇は子どもたちと鬼ごっこしたり、これまでの明治天皇のときでは考えられないくらい、人間味あふれた存在であったと言われています。

ただ時代の皮肉なのか、その即位されていたわずか15年の間に
第一次世界大戦の勃発(1914年から1918年)、関東大震災(1923年)という国難に見舞われることになります。
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大正時代は1912年7月の明治天皇の崩御により大正天皇が即位したところから始まります。

前述した桂太郎と西園寺公望が交互に組閣する「桂園時代」の第二次西園寺内閣時代の年でした。

この時、陸軍省から「二個師団増設請求」ってのが出ます。なんやこれ、と申しますと、

これは、朝鮮に陸軍師団を2つ増やしてほしい、「師団」っていうのは京都にも「師団街道」っていうのがありますが、軍隊の部隊編制単位を「師団」って言います。

2年前の1910年、明治時代の最後に日本は韓国を併合していますが、1911年に辛亥革命というのが起り、1912年に中華民国(臨時大統領は孫文)が建国されます。

つまりだね、中国国内が混乱しているときだから、日本が勢力を伸ばすチャンス!したがって、大陸進出の拠点である朝鮮に二個師団を増設してくれってわけです。

西園寺は日露戦争後の恐慌時に「こんな不況時になにゆうてまんねん」とこの要求を却下!

するとこれに怒った陸軍大将、上原勇作は単独で辞任してしまいます。

ここで困った西園寺。陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でなければならない、という規定があるんですが、陸軍省からプイッとされたがために大臣が決まらない。

結局、辞めた陸軍大臣の後任が決まらないっていう前代未聞の理由であえなく第二次西園寺内閣は瓦解。大臣が一人でも欠けると内閣は機能しませんからね。

次に出てくるのが第三次桂太郎内閣。

桂太郎は「山県有朋系」だから「超然主義」でしたよね。
議会無視でなんでもパッパと断行してしまう。

ここで「閥像打破」「憲政擁護」をスローガンにした「第一次護憲運動」が起るんです。
こうして政党政治家だけでなく民衆までも政治的な動きが活発となり政党の力がいっそう伸びていきます。

運動の中心人物は立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅。

この2名は大正、昭和を生きた政治家として非常に有名ですよね。
両名は「憲政の神様」と言われていました。

民衆の拡大する運動は次第に過激化し、政府系の国民新聞社を襲撃したり、国会を取り囲んだりします。そんな中、衆議院議長が「このままだと内乱が起る」と言って桂太郎に退陣を勧告。

第三次桂内閣は四面楚歌となり、組閣からわずか50日余りで退陣を余儀なくされます。そしてほどなく死去、その生涯を終えられました。
この護憲運動により桂内閣が倒された事件を「大正政変」(1913 年)と言います。

桂内閣の次は海軍出身の山本権兵衛内閣ですが、さすがに激化する護憲運動の要求を受け入れざるを得ず、陸軍海軍の大臣を現役の軍人でなくてもつけるようにしたり、高級官僚に政党員でなくてもつけるようにしました。

山本権兵衛は薩摩の人間ですが、穏健派なので立憲政友会を与党として、薩長閥族にとって都合の悪い政策をどんどん実行していきます。
当然、そういったやり方に反発し、山本を潰したいと思っている勢力もあるわけです。

・・・・・・・・・・そこで、起ったが1914年の「ジーメンス事件」
まあ言ってみたら汚職事件です。つまり「潰したい」側が「リーク」してばらすっていういつの時代にもよくあるパターンですな。

これはドイツのジーメンス社による日本海軍高官への軍艦や武器輸出をめぐっての贈賄事件です。

ここで海軍出身の山本権兵衛は総辞職するしかなかった。
つぎの内閣をさあどうするか。

困ったのは元老たち。藩閥族だとまた護憲運動が再燃するのは心配だし、政党におもねるのは都合が悪い。だって元老も閥族なんだから。

そこでぅ肉の策として決まったのは、政界から退いていたけれど、国民的人気の高かった大隈重信です。
大隈は1881年の明治十四年の政変で罷免された後、健全なる野党とジャーナリズムを育成しなければ日本はダメになる、という持論に基づいて「東京専門学校」(のちの早稲田大学)を創立していました。

1914年4月、第二次大隈重信内閣が発足します。

続いては第一次世界大戦への流れへ・・
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