カテゴリ:雑感。( 72 )

■程を知る、分を知るということ(駄文長文)■
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先日大垣書店でベストセラー「京都ぎらい」のPOPに手書きで「本当は好きなくせに」と書いてあるのを見た。
「本当はすき」というのに妙に納得を覚えた感じがする。

その話をしたから、ではないが、実家の父が「『程』を知るってつくづく大事やし、難しいと思う」ということを言っていた。

「分を知る」というのは身の程をわきまえるということだが「程」というのは「程度」のこと。
物事は「有る程度」が大事なのであって、それを超えると「真逆の結果」を導くことがある、というのだ。
メーターが振り切ってしまうと、180度反転してしまう。

たとえば最近よくある、というかあってはいけないストーカー殺人。
あれなんて「大好き」が「大嫌い」に逆転した典型だ。ネガポジのように真っ白は一瞬にして真っ黒に変わりうる。

ストーカー殺人は極端な例にしても、恋愛でも結婚でも「大好き」が「大嫌い」に変わることがあるだろうし、
男女間だけでなく親子の確執とかだってそうだ。
ヤマアラシのジレンマのように、程よい距離感を保つというのが実はとても難しい。

父は今「保護観察司」という地域のご奉仕をさせて頂いており、罪を犯してしまい執行猶予中の若者などと面談しているのだが、中には「親にかわいがられすぎて」親に対する強い憎しみを持つようになり、それが自暴自棄につながって犯罪を犯してしまったという人もいたそうだ。

また、このほど世間をにぎわせ失脚した政治家も「極悪人」のような言われようをして引退している。
もともとは高い志があったかもしれない。でも「自分は偉くなった」という慢心におかされてしまい、分を超えてしまう。
極端に政治を私物化した結果、世間に顔向けできない形でやめていく。
残念だけれど、最近の「あるある」だ。

そして最近、怖いのは「極端な」ことを言った人が「偉い」「よく言った」という方向に日本のみならず世界全体が動いているということ。

「トランプ」さんや、「麻薬犯は即銃殺」とした国など、極端なことを言ったりやったりすることへの賛辞が止まらない。

「程を知る」ということがなければ「激しい憎しみ」につながり、とんでもない方向に行きかねない、そういったことを父が言っていた。


続けて父はこういっていた。
「京都人の京都大好き」だって有る意味危ない。「京都ぎらい」のように反転することもあるし「京都だからなにしてもいい」という欺瞞と傲慢につながることだってある。
「京都人の京都賛美」は人によっては不愉快極まりないことになりかねない。

このところテレビでは「日本ってスゴイ」っていう番組が多いけれど、ああいう日本賛美の表れも同じ。
そんなのは欺瞞ですよ、ということは「堕落論」で坂口安吾が50年以上前に喝破している。

「白」と「黒」は反対のように思えて実は「表裏一体」でオセロのようにいつでも裏返しになる。
「白黒つけるのがニガテ」で「程を知る」ことが得意であったハズの日本人が今ゆらいでいる。

わたしだってあぶない。
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by hito2653 | 2016-09-10 22:56 | 雑感。
「ひとのため」と書いて「偽善」になることもある?
―溺れる犬を見たら棒で叩けの真意―

先日ある人から「溺れる犬を見たら棒で叩け」という諺が韓国にある。あの国はひどい国だ、と言われちょっとびっくりしたことがありました。

普通ことわざというのは先人が生きる知恵として道徳的なことを後世に伝えているものなのに、そんな言葉ってあるんかな、と思って調べてみたら、韓国ではなくて中国のようですね。

「打落水狗」
韓国ではなくて、中国の魯迅の言葉のようです。直訳かどうかはわかりませんが。

にしてもひどいなあ、と思っていたら納得できる解釈があったので載せておきます。
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直接引用させて頂くのは「生田一舟」さんという元銀行員の禅僧の方の文章。
(また機会があれば本も紹介させて頂きます。)

「人のためは偽善になる場合がある」

よく「人のために生きよう」などという言葉を聞くことがありますが。これは正しいようで十分ではなく、場合によっては間違いです。「人」の「為」と書くと偽善の「偽」ですね。

「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人に教えよ。(中略)
自分をととのえた人こそ、他人をととのえるであろう」
(ダンマバダ第12章 ブッダのことば)

このことから、自分で自分のことが十分できていないのに、人助けをすることは、精神的に歪であり「おごり」の一種であると考えられます。人は支え合うのが天理にかなう態度ですが、そのため自己犠牲がすぎると無理が生じます。

こういう状態で人を助けると、往々にして「助けてあげたのに」という恩着せの心理が、自分の心に計上され、「私っていい人でしょ」「だから私のいうことを聞いてよ」などといった気持ちが生じ、やっていることが本心と乖離するのです。

本当に人助けをするときの鉄則は、相手に負担を感じさせないようなさりげなさが必須です。人助けをするのが人のため、でなく自分のために思える状態、つまり自分のためですから内にも外にも跡を残さないのです。

また、それが本当に相手のためになるのか。
例えばお金に困っている人にお金を貸したりあげたりするのも、場合によっては薬物中毒者に薬をあげているのと同じで実はその人のためになっていないこともあるのです。


先ほどの「溺れる犬」に戻りますが、犬っていっても小型犬の可愛らしい犬から、大型犬まで様々ですよね。この溺れる犬というの大きな犬、それも狂犬のことを想定しているようです。

確かに狂犬を助けると自分まで水辺に引きこまれるか、助けても襲われることもあります。

「棒でたたけ」というのは意訳のようですが、ここでいうのは安易な気持ちで「助ける」ことで得られるのは良い結果ばかりではない、ということを表しています。

そう聞くと納得しますね。

「助ける」=善 ということ自体が実は疑わしい。

ついでに言いますと、

仏教の価値観は「無常」だから、ずーっと相手が自分にとって都合がいい人とは限らない。逆にずーっと敵だとも限らない。 だから、あいつは◎◎だから◎◎だ、と決め付けるのは、意味がないこと。
自分は◎◎だ、と勝手に絶望するのも意味がないこと。


「善」とか「悪」とか決め付けずにしなやかに生きることがネット社会の今だからこそ必要なのかもしれません。
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by hito2653 | 2014-08-03 21:59 | 雑感。
多くの反論があることを想定して書きます。

「愛国」「売国」「反日」という言葉がここ最近急速に目に飛び込んでくるようになりましたが、
「軽々しく、このような言葉は使うべきでない」と大いに疑問に思います。

「靖国」だ「慰安婦」だ、と騒ぎ立てる人がいますが、それは隣国が騒ぎ立てているだけのこと。自国が好きだというのとちょっと違う。単に駆逐し排斥したいだけ、という感じがします。

たとえば、「私は韓国料理が嫌い、中華料理が嫌い、だから日本料理が好き」っていうのはちょっと違うと思うんです。本当に日本料理が好きな人は、ただ日本料理の奥深さを知ればいいんです。


私は朝夕欠かさず、お仏壇のご先祖様に手を合わせていますが、それはご先祖様がいないと自分がいない、という感謝の気持ちもありますが、正直なところを言いますと、生活の中に溶け込んだ単なる習慣であるとも言えます。

両親や祖父母がやってきたことを、ただ真似しているだけです。亡くなった祖父母は日本や日本文化への造詣が非常に深かったのですが、「愛国」なんて言葉を口にしたことは一度もありませんでした。
そんなに軽々しく口にするべきでない、ということもあったかもしれません。

「靖国」を先祖への感謝の気持ちで拝む気持ちは大切だと思いますが、その前にご自身の生活の中に、どれほど身近な人や先祖への感謝の気持ちを示せているのでしょうか。

菩提寺の本山に行ったこともない、下手すれば宗派も知らない、氏神様がどこかも知らない、そんな人が「靖国だ」「日本の先祖礼賛」とか言っているのを滑稽に思います。

たとえ、それをきちんと行っている人でも、声高に主張し「してやったり」気分でやっていたのでは、傍目から見ると、自分が満足するだけか、隣国への当てこすりのように見えてしまいます。

以前、「正義ほど胡散臭い言葉はない」というブログを書きましたが、
胡散臭い新興宗教の特徴は決まって独善排他的です。

宗教自体が悪いわけではないんです。

ちなみに宗教のことを書くと、

日本にキリスト教が伝来したのは1549年。韓国に伝来したのはその200年以上 後。なのに、日本にはほとんど浸透せず、韓国ではキリスト教が仏教を越える信者数となっているのはなぜか。それは、多神教、仏教でも多宗派の日本で「一神教」は相いれなかったからだ、とされています。

逆に、多神教・多宗派の日本では宗教戦争は殆ど起っていない。「私も正しいかもしれないが、あなたも正しいかもしれない」という曖昧さを認める柔軟さと鷹揚さがあったからではないでしょうか。決めつけ、相手を排除する価値観は日本人らしくない、と言えるかもしれません。


「愛は地球を救う」とテレビでは言うが、仏教では愛は執着と苦しみ、争いの根源だと言います。


「愛」国は要らない。「慈悲」深い日本の国民性を大切にしたいと思います。
「愛」国だとか言いながら、日本人らしい人が減っているこの国の現状を憂います。
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by hito2653 | 2014-06-25 00:33 | 雑感。
「論理力」と「他者意識」の関係

道にゴミをポイと捨てる人がいます。
「けしからん」というのは普通の感想。
今回は「論理力の欠乏」がふっと頭をよぎりました。

なぜ、道にゴミと、論理力が重なるのか。
先日、「論理力」について書かれた分かりやすいHOW TO本を買いました。

著者は出口汪。昔から有名な現代文のカリスマ講師で多くの著書も出版されていて有名ですよね。
同人は「論理力とはズバリ『他者意識』」と喝破しています。

例えば、Aという話題をふったとき、明らかに相手がAの情報を必要としていないのに、Aの話をひたすらし続ける人を論理的と言えるでしょうか。

つまり、相手の欲していることを、相手の立場になって情報提供することが論理の基礎の基礎だといいます。

しかしながら、世の中は勉強ができる人のなかでそれが出来ない人がたくさんいます。
勉強などが出来てもそれが出来ていないと、「この人はあまり賢い人ではないな」もしくは「もうこの人とは話したくない」と思われてしまいます。
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「他者意識」を持っている人は、「いつも街にごみが落ちていないのは、誰のおかげだろう?」ということに気づくことができます。

「他者意識」を強く意識するだけで、特別な勉強をしなくても論理的で人にちょっとだけ尊敬される日々を送ることができるでしょう。
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by hito2653 | 2014-06-24 23:58 | 雑感。
「明日ママ」・・・とうとうスポンサーが全部降り、CMが「AC」ばかりになる、という異常事態。

私も一度だけ見たのだが、まず感想は芦田愛菜ちゃんの卓越した演技がスゴイ。
ただ内容が実在する非常にセンシティブな内容を取り扱っているだけに、
「当事者性」という意味で単なるエンタメの域を超えているような気もするが・・・015.gif

・・・・・・・ドラマの内容の「是」か「非」かは置いておこう。

いずれにせよ「テレビ局側」もそれを潰しにかかる方も、どっちも関西弁で言う「えげつなさ」を感じたのは私だけだろうか。008.gif

ネット上で「激論」となっているのを興味本位で覗いてみたが、正直まともな議論になっているとは思えない。

「>〇〇さんは 日本語の読解力がなさすぎると思いますので」
とか、もうケンカ状態。031.gif

それもヒドイと思うが、最近はこの記事にも書かれているように、
「奇をてらったものを作ろうとする製作者側」と
それに対して「クレームをつけて潰しにかかる消費者側」の
「準備力や想像力のなさ」、「気に食わないものを潰しにかかる狭量さ」にへきえきしてしまう。008.gif

なんだか、斉藤茂太さんのいう
「ほがらかで品のある日本人」から遠ざかっているような感じだ。

両者の「品がある」とは思えない行動は「瞬間主義」から来ている。
この前テレビで見たが、若い子のストレスとして「10秒ルール」というのがあるそうだ。005.gif005.gif
10秒以内に落としたものを食べる!というには長すぎるだろ!と思ったら、

要はメールやSNS、ライン等への書き込みには10秒以内に返事を書かないとシカトしたことになる、という強迫観念をもっている若者が少なからずいるということだった。

一瞬にして炎上してしまうネット。
そしてそれが高じて発生するクレーム。
短い間にどんどんもたらされる意見はどこまで深く検討したものかも疑問である。
商品販売やCM放送の中止、なぜ続出?増大する視聴者・消費者の発言力、過剰な反応の企業


今回の件はドラマの内容以前に「テレビ局」の主催者側にも落ち度があると考える。(結果からすると明らかだが)

「当事者」に対して大人としての「根回し」が出来ていなかったがためにこんな滅茶苦茶な結果になってしまったこと。どうせ、反対するから施設側には黙って放映してしまえ、とでも思ったのだろうか。

「銀行員」をデフォルメした半沢直樹を題材にするのと、「自己責任」では片づけられない「こども」を題材にするのとではワケが違うことくらいは容易に想像つくだろう。

ある人に言わせると、本物の「当事者」はドラマみたいに明快ではなく、もっと複雑な感情をもっているし、ドラマ以上にある意味「えげつない」そうである・・「金持ちと貧乏人」などと、色々なことが「わかりやすく」デフォルメされすぎているのだ。

「瞬間主義」的にスポットライトがあてられ、
「瞬間」的にまた忘れ去られていく、
「遠回りをしない」大人たちの都合で振り回されている子ども、施設で働く人たち。

日本人としての奥ゆかしさはどこに行ってしまったのだろうか・・
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by hito2653 | 2014-02-03 00:10 | 雑感。
ある社長がぽつりと一言。

「コンサルってよく『無駄の排除』『削減』っていうけれど、その会社にとって本当に『無駄』っていうのは何か分かってるのかねえ」と。

よく、経営計画などを立てる場合は、無駄の排除から議論される。
経費削減にまず「交際費」が標的に上がる。その他経費、そして「人件費」の削減・・・。

でも考えても見れば、「経費」削減が至上目的なら、「人件費」なんて言ってみればすべて、無駄な費用だ。

なんていうと極論、と言われるかもしれないが、「費用」というのは何かを生み出すために消費しているのであって、単に無駄を作るだけのために存在しているわけではない。

一番の「敵」にされやすい「交際費」だって、使うことによって人間関係が円滑になり、それがプラスの効用をもたらすことだってあるのだ。

では、経費をじゃんじゃん使えばいいのか?それは違う。

コンサルの小宮一慶氏がおっしゃっているのは、無駄の排除ではなく
「資源の最適配分」
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「人」「モノ」「カネ」限られた「資源」を最適に配分することが大切であって、
「交際費」そのものが悪いのではなく、限られた「カネ」という経営資源を有効に生かすには本当に「交際費」に配分するべきなのか、という発想。

これは「なるほどなあ」と思った。

経営の一番の敵は「視野狭窄」になること。
目先の経費削減や売上追求にとらわれるのではなく、全体を見渡さなくてはいけない。
そのためにも、自分の現在持つ「資源」とそれをどう「配分」するかを見なくてはいけない。

それは、日常生活においても言えるのではないか。
例えばプライベートにおいても「お金」と「時間」という資源がある。

例えば、昼寝をして「時間」を食ってしまい、しまった、と思っても、その代わりにストレスを発散し、また元気に仕事をして「お金」を稼いだのならば、それば決して「無駄な」時間ではないのかもしれない。

また、女性の話にするとワーキングマザーにおいても専業主婦にしても、誰でも「時間」や「お金」という資源の最適配分という発想は当てはまってくる。
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昼寝をした自分へのなぐさめだったり、「最適」に配分せずさぼりまくる「自分に甘い自分」への戒めであったりする。

ダラダラとネットをする時間、という「資源」も、有効な「配分」の仕方があるかも?!

一方で小宮氏は「他人」のために「時間」や「お金」を出し惜しみするより、惜しみなく提供できる人の方が長期的に見て「信頼」という目に見えない「資源」を得ている、とも書いています。

つまりケチはイカンということです。
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by hito2653 | 2014-01-27 22:02 | 雑感。
もうすぐ節分ですね。神社では「福は内、鬼は外」と言いますが・・・・・・・・・
先日法話をお聞きした、法然院の貫主のお話では、

「仏道では、ほんらいは『福は内、鬼【も】内』なんです」とおっしゃっていました!!!

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そして、先日、和久傳さん(京都の一流料亭)の豆菓子を頂いたときに、缶に
「福は内、鬼も内」と書いてあったのでびっくりしました!(@_@)!!!

さすが、和久傳さん、センスが違うなぁと感服しました。(*^_^*)

なぜ「福は内、鬼『も』内」なのかというのは、以下のとおり。

長いですが、ご興味があったら読んでみてください。うまく説明できないので、文章は私のオリジナルではなくもちろん住職(法然院ではない)の言葉のコピペです。

■「縁起」で考える「鬼も内」
「縁起」
私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として「縁起」という言葉が用いられていることである。どうしてこのようになったのであろうか

仏道の基本の考え方は「無常」である。
そして「縁起」とは「因縁生起」の略。

川の流れのように無常の流れる世の中だが、いかなる存在も因(原因)と縁(条件)がととのうことによって存在している。仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。(無我・空の思想)

つまり、「良いこと」も「悪いこと」も私たちは「縁起」の中に「生かされている」

しかし、その「縁起」を自分の都合を願う言葉になっていているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人間の本質が見えてくる。

その意味においては「福も内、鬼も内」である。福も「私」であれば、鬼もまた「縁起」のなかに生かされている「私」なのである。
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by hito2653 | 2014-01-21 22:50 | 雑感。
「人は万をさしおいて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくは生きるかひなし」
(人は何事をさしおいても、一途に徳をつくるべきだ。貧しくては生きている甲斐がない)

「徒然草」に出てくる長者の金銭観をあらわした言葉である。
兼好法師があえて記したのは、同調する気持ちがあったからだろう。009.gif
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私自身も子供のころから、大人たちから
「金のないのは首のないのと同じ」(歌舞伎「恋飛脚往来」)というすさまじい言葉をよく聞かされた。それだけ「お金は大切だ」ということだ。005.gif
「みっともないお金の使い方」川北義則より
一方で「ボロを纏(まと)えど心は錦」という言葉も水前寺清子のさんの歌で有名なフレーズ。これはもともとは老子の言葉らしい。011.gif
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ただ他にも「貧すれば鈍する」「衣食足りて礼節を知る」という言葉もあるように、窮しながらも、品性・節度を保つのが容易でないことも分かる。


以前「清貧の思想に逃げ込むな」という回にも引用させて頂いた箇所。

現代人は、お金なしに生きることはできない。お金を得るのは、社会に役に立ったことの対価である。

よく「お金がすべてでない」という言い方がされる。たしかに、そのとおりなのだが、この言葉を安易につかってほしくない。

お金を得るために最大限の努力をした人間が、得たにしろ得なかったにしろ
「これが自分としての最終結論だな」という時期を迎えたとき、はからずも口をついて出る。そういう言葉であってほしい。
「みっともないお金の使い方」川北義則


お金が大事だと分かっているからこそ「お金がすべてではない」と言ってもいい人間になれるというのだ。
そしてお金の大切さを心底わかり、お金をいつくしむことができる人のみが使うべき言葉のようだ。070.gif
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by hito2653 | 2014-01-14 00:30 | 雑感。
前回のブログで「本来無一物」「生かされていること」について書かせて頂きました。

それについてもうひとつ、思い出したことがあります。

以前、たけしのテレビタックルで飲食店での不適切表示、偽装で議論されていたときのこと。

当然、「消費者を騙している」と全員が猛烈な批判をすると思いきや、ひとり瀬戸内寂聴さんが、
「おいしければいいじゃないの。」「おいしいおいしいって食べていたのでしょ」と言っていました・・・・が、
「何言ってんだ、この人」とばかりにあしらわれていました・・。
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が、この言葉に出家している方ならではの、「生かされている」ということへの恩恵を感じている心の在り方を感じました。
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つまり、芝エビであろうと、バナメイエビであろうと、同じひとつの「命」です。
その「お命」を「いただいて」私たちは、生きている。生かされている。

またそれを、「おいしい、おいしい」と言って食べていたのも事実。
それを後から、「芝エビじゃないじゃないか!騙された!」と目くじらたてるのも、なんだか人間としてさもしいような気もします。

もちろん、意図的に嘘をついていることは、悪いとしかいいようがありませんし、批判されるのも当然です。013.gif

でも、「芝エビだと思って食べたのに!騙された、金返せ」というよりかは、
「美味しいものを頂いた。今度はちゃんと嘘は書かないでね」くらいに思える人の方がよほど心が豊かだと思います。003.gif

香山リカは人間の狭量化が加速した、と著書に書いていましたが、
生かされていることを意識し、どっしり構えている人の方が幸せそうに見えます、ね。053.gif
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by hito2653 | 2014-01-07 23:28 | 雑感。
「本来無一物」~タトゥー批判への考察~

今年の書初めは、茶掛軸でよく使われる言葉、
「本来無一物」という言葉にしました。012.gif
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この言葉を選んだ理由は、本を読んで頭を殴られたかのような、気づきがあったからです。
「本来無一物」とは禅の言葉ですが、解説によっては単に、
「執着するものはなに一つない」とだけ書かれています。
 
これを見ても、まぁそうだよな、という感想しかないのですが、私が手に取った本の解説でこの言葉の深さを改めて知りました。

キーワードは・・・私たちは「生かされている存在」ということ。

私たちは、この世におぎゃーと生まれた瞬間から、すべては人様やいろいろな人の「おかげ」で生きています。
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実はこの世にはなにひとつ「自分のもの」なんてなくて、すべては誰かの手によって施されたものです。自分の体だって例外ではありません。

神様からの借り物であり、私たちは「生かされている」存在なのです。

また、自分の子供だって、「自分の子供であって、自分の子供でない」
どういうことかと言うと、子供も天から授かり、神様から「一人前にしなさい」と親が命(めい)を受けた「預かりもの」なのです。

まれに「自分の子供だから」「自分の子供まで不幸になる」と無理心中をする人がいますが、それは単に「かわいそうだから」とかではなく、神様からの預かりものを侵しているのと同じです。

人間は「自分のものだ」と思うから、執着心が出るのです。そして、その執着心がまた人間を苦しめるのです。「自分のものなんて何一つないんだ」というのが禅の心です。

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昨日、タトゥーを入れている人が切除するかしないか、みたいなテレビ番組がやっていましたが、タトゥーを入れるのにかかるのは10万円、消すのになんと400万円かかり、それも2年間という歳月と皮膚を切り接合するという痛みにも耐えなければならないというとてつもない覚悟がともなうという現実がつきつけられていました。

当然、ネットでは批判の嵐022.gif022.gif
以前、香山リカさんの「すぐに白黒つけない」-タトゥーを消したがる女たちへの手厳しいコメント-という記事を紹介しましたが、やはり大半は、
「後悔するなら最初からやるな」
「タトゥーを入れること自体がヤクザなことで下劣だ」
といった意見でした。

ここで、そういった視点以外で私の意見を言いたいと思います。

批判や誤解を恐れずに言います。
私は基本「タトゥー」も「レーシック」も「美容整形」もすべて同じだと思っています。
 なぜそう思うのか。特に「レーシック」なんて一般的にやってるし「タトゥー」なんかと一緒にしないで!と思う人もいるかもしれません。008.gif

 共通点は「自分の体を自分だけのものだと思っていること」
 よく「親からもらった体を傷つけるな」と言いますよね。それとも違います。
 
これらに共通していることは、日常生活に大きな支障をきたしているわけではないのに、わざわざ体をメスや針で傷つけ、何かしらの「リスク」を背負うということです。
失敗や術後不良の可能性がたとえ0.00何パーセントであってもリスクを背負っていることには変わりありません。

この世の中には、不幸にも何かしらの障害を持って生まれてきた人がたくさんいます。
一方、自分は五体満足で生まれてきている。なのに、なぜわざわざ健康な体に手を加えなければいけないのでしょうか。これは、「自分の体だから自分の勝手だ」という考えからきていると思います。

上にも書かせていただいたとおり、「本来無一物」
自分のことを心配してくれる人が一人でもいるなら、そしてなによりも自分が授かり生かされている命をわざわざ危険にさらす必要はないと思うのです。

「生きている」のではなく「生かされている」と考える人は、決して「刺青」「レーシック」「整形」これらのことはやらないのではないでしょうか。

ただ生きているだけでありがたい。生かされている日々に感謝したい・・・。

ただ一方で、タトゥーを入れている人の体も、当然「私のもの」でもなんでもないので、
「タトゥーをやっている人はダメだ」と一様に言えないのもまた事実です。
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タトゥーを入れるのもエゴ、それを消す際、再度体を傷つけるのも人間のエゴ。自分の体だから、と思っていること自体が不幸です。040.gif
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by hito2653 | 2014-01-07 21:14 | 雑感。