カテゴリ:よいことば集め( 82 )

よく、ビジネス本で経営者のリーダーシップが説かれていますが、どういう人がリーダーにふさわしいか、というのはなかなか一言では言い表しにくいですよね。

リーダー(君子)の資質について多くの言葉を残している孔子は、『論語』の中で「君子に九思あり」と説いています。
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孔子自身が立派なリーダーでありながらも、常にこの「九思」をもって自らを磨いていたと言います。

1.物事の本質を明確に見ること

2.人の話はちゃんと聞くこと

3.穏やかな表情を保つこと

4.謙虚にふるまうこと

5.言行一致で誠実に話すこと

6.仕事は慎重かつ尊敬の念を持って行うこと

7.疑問があったら質問すること

8.怒るときはしこりが残らぬようにすること

9.うまい話にはのらぬこと


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社長の人柄は多かれ少なかれ商売に影響を与えるようです。

上記はたったの9個かもしれませんが、どれもが非常に奥深く、歴史上でもリーダーと言われた多くの人が反感を買って失敗していることも少なくありません。

リーダーの器というのは日々の精神の鍛錬によってしか得られないということがわかります。
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時間に対する意識は年収と関係があるそうだ。「仕事や人生の目的や目標を常に意識してる」「グチを言わない」「迷ったら新しい選択肢を選ぶ」にYESと答える人ほど年収が高い傾向にあったという。
時間を大切に使い、挑戦し続ける人生の方が、きっといい人生だろう。失敗したっていいじゃない。

最近学んだ成功のキーワードは「メッセージ性」(顧客と対話する技術)、「シナジー」(仲間との対話、タイアップ)です。
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特に行き詰まりを感じた、中小企業の経営者の方に捧げたいことばです。
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備忘録として集めてみました。

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「みっともないお金の使い方」川北義則 の中の名言集。

タイトルの「稼ぐに追いつく・・」は真面目に働いていたら貧乏に困ることがない、という意味だが、ワーキングプアが社会問題化される中、異論はあるかもしれない。

でも、まじめに働くことの意義を教えてくれる。この本の中に出てきた名言を集めてみました。

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「みっともないお金の使い方」より

私が「みっともない稼ぎ方だ」と思うのは、サラリーマンでいえば、必要もないのにわざと残業するような稼ぎ方だ。残業手当ほしさにである。

勤務時間中はダラダラしていて、残業タイムまで仕事を引き延ばすタイプ。あるいは交通費や出張費をごまかすタイプ。


曽野綾子さんも、サラリーマンの話とは違うが、
「もらえるものはもらっときゃいい」という考え方の日本人が増えていて、品性の低下を感じてならない、というようなことを書いていた。

一方、先日「がっちりマンデー」という番組でヒット商品を生み出した味の素の社員に

「儲かりますか?」と聞いたところ、
「もうかっ・・いえ、『儲かる』と言うのはお客様から頂いたお金ですから、言えません」

それが本音なら、素晴らしいなあと思った。
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ほんとうに、よい本に出会いました。蛍光ペンで線を引きまくりました。
うまくまとめられないので、名言集としてご紹介します。
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理想像を持っていないと、そちらに向かっていくことはできないのです。
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優柔不断なのは、判断基準をもたず、信念がないからです。人物は信念があり、それを基準に物事をきめることができます。正しい信念を持つことが大切なのに加えて、さらに、ふだんから十分に勉強していることが大切です。
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ぶれない、といっても自分の誤りを認めないということではありません。むしろ、<人物>は驚くほど素直です。
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<人物>には、慢心というものがありません。だからこそ謙虚であり、常に学び続けているがゆえに、進歩があり、実力が上がり、ひいてはそれが、ゆとりになるのです。
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人物力のある人というのは、ケチではありません。たあし、見栄を張って実力以上の振る舞いやお金の使い方をするようなこともしません。
いい格好をするのわけではなく、これというときには、人のためにお金を使うのです。自分のためだけではなく、他人のためにもお金や時間を使えるのです。

『論語』でも孔子は
「周好の美があるとしても、奢りかつ吝(けち)であるならば、みるところはない」としています。
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人と人とのつながりが希薄になる時代・・・
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心の「よるべ」を求め「愛」「絆」にすがり、
「自分はひとりじゃないんだ」・・・そう思って自分を納得させようとする。005.gif
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でも、「愛」というのは「渇愛」という言葉もあるように、ときに
「なぜ愛してくれないんだ」「もっと愛してほしい」という「苦しみ」に変わることもある。
また、特に肉親や恋人など近しい人に対して「愛」が「憎しみ」に変わることもある。033.gif
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「絆」ももともと語源は「動物をつなぎとめる綱」、つまり束縛を意味する言葉だ。063.gif

どちらも、良い言葉のようで「陰」と「陽」、両面の側面をもっている。
しかし、人間は弱いので、自己都合で解釈し、すぐに「結果」を求めようとする。

「これだけ愛したのだから、もっと愛してほしい」
「絆を強くすれば、困難を乗り越えられる」


また、人間は「煩悩」ゆえ人と「比較」をしてしまう。
「あの人の方がもっと恋人から愛されている」、というように。
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しかし、現実の世の中は「無常」である。
つまり、川の流れのように世の中も人の心も移ろいゆく。

自分のことを昨日愛してくれた人が、今日も愛してくれているか分からない。
作り上げたと思っていた絆が、ふとしたところからほころんだり、またそれが窮屈になって自ら断ち切ってしまうこともあるかもしれない。057.gif
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住職にこんな質問をされた方がいた。

「自分の兄弟が両親をないがしろにするのが許せない。心を改めてもらうよう働き掛けるべきですか。それともそれも『執着』なので放っておくべきですか」

すると、住職はこのように答えられた。

「現在」彼が変わる、というのを「諦めなさい」、ただし
「未来」彼が変わることへの「希望」は捨てないでください。



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人間は弱いのですぐに「結果」を求めようとしてしまう。
「諦める」というのは「明らかに認める」つまり、「現在の彼」を「受容」してしまうのだ。

かといって「希望」を捨てない。希望の「希」というのは「まれ」ということ。

「彼」を「慈悲」の心で見つめれば、いつか「未来」に彼が心変わりするかもしれない。それはもしかしたら「来世」かもしれない。それでもいいではないですか、と。

また、人間はすぐに結果を求めたり、物事を単純化してしまう。
「彼は家族をないがしろにする男だ」という「物語」を作り上げてしまう。027.gif

しかし、自分が両親にとってよい子供で、兄弟が悪い子供だ、というのも本当かどうかわからない。実はその逆かもしれない。人間は、そもそも誰もが悪人なのだ。
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「絆」で縛りづけるのではなく、「縁」の中に生きる。
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「縁起」とは「因縁生起」の略
川の流れのように無常の流れる世の中だが、いかなる存在も因(原因)と縁(条件)がととのうことによって存在している。
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「愛」や「絆」の名のもとに、すぐに結果を求めるのではなく、この「縁起」にまかせて生きてみる。

「すぐに変わる」ことを単に祈るだけでは、それは「宗教」ではなく「まじない」の世界なのである。
仏教の「縁起」という言葉ほど誤解されて用いられている言葉はない、という。
以下は、大谷大学の教授の言葉。ご参考にされたい。


私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。 その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として縁起という言葉が用いられていることである。どうしてこのようになったのであろうか

仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。それを「無我」というのであるが、それをそのように正確に了解せず、この私がたくさんの因縁を頂いて生かされているという通俗的な意味で了解されてしまったからではなかろうか。
 いうまでもなく、仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。それがいつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人 間の本質が見えてくる。

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