昭和時代⑧ いよいよ日中戦争へ

いよいよあの「近衛文麿」が組閣します。
そしてこの第一次近衛文麿内閣の時に1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中の軍隊が衝突した「盧溝橋事件」がきっかけて「日中戦争」が勃発します。

これは日本軍側がしかけたものでした。
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1935年に満州と中国との国境沿いに非武装地帯、「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」をつくったことはすでに述べたかな。これは中国の共産党を阻止するための非武装地帯のこと。蒋介石の国民政府にとっては共産党との争いに注力できるし、日本にとっても満州経営の安定のため必要だったの。

しかし、日本は次第にこの非武装地帯の侵略を考えるようになったのです。
それをいち早くさちしたのが張学良

1936年に蒋介石が共産党討伐のため西安にきていたところを張がとらえて監禁し、八項目の要求を突きつけて迫ります。(西安事件)

「あなたたちは非武装地帯を作って安心だって思ってるようだけど、日本は非武装地区を破壊しようとしてるぜ」013.gif

蒋介石はこの説得に応じ、「今は共産党との内部争いをしている場合じゃない。共同で日本軍の南下を防ぐべきだ」047.gif
と気づき、国民政府と共産党は連結するわけだ。
(第二次国共合作)

■では日本はなぜ日中戦争に入っていったの?002.gif

日本の戦争を始めた大義名分は「防共」、つまりコミンテルン(国際共産党)対策です。
共産党の基本は国家の成立を認めないこと、つまり国家を破壊することが目的。
つまり「国家を破壊するテロリスト集団が共産党だ」というのが当初の共通認識でした。

そして世界から共産主義をなくしていかないと、国家テロが起こり、世界の平和のためにならない、ということなのです。

そういうときに「西安事件」が起こり、共産党と国民政府が接近し始めたということです。

そこで「中国政府がテロリストと手を組もうとしている。これをなんとか阻止しないと大変なことになるぞ」という認識が日本が日中戦争に入っていく大きなきっかけになる。
日中戦争に対して、当初近衛内閣は「不拡大方針」をとっていましたが、途中からむしろ推進するようになtります。

そのきっかけは第二次国共合作、によって中国が国民政府と共産党と一緒になって「抗日民族統一戦線」を唱えだした、ということです。これによって「日中戦争」の大義名分がさらに立ってしまうのです。007.gif
「自分たちは中国を侵略するために戦っているのではない!中国を共産主義という侵略の悪の手から救うために戦っているのだ!!」とね。

そして日本軍は1937年に国民政府の首都「南京」を占領しました。
このときに日本が大量の中国人を殺害するという「南京事件」が起こっています。033.gif

その結果、国民政府は内陸の奥の重慶(じゅうけい)へ逃げます。そして交渉による解決も断念した近衛内閣は
「国民政府(蒋介石)を対手(あいて)とせず」という声明を発しました。
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要するに、国民政府を中国の正式な政府とは認めない、ということです。

また近衛首相は東亜新秩序声明を出して、日本、満州、中国の3国が連携して強力なアジアを作っていこうと呼びかけたり、「国家総動員法」を定めて議会の承認がなくても国民を統制できる体制を作ります。

しかし、泥沼化する日中戦争は停戦ままならず、今後の見通しについて陸軍と対立、結局政権を維持できなくなり第一次近衛内閣は総辞職します。
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