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昭和時代⑦ 二・二六事件、そして日中戦争へ

犬養毅が暗殺されたあと、軍部内閣(斎藤実(まこっちゃん)や岡田啓介)となり、満州国承認、国際連盟脱退、ワシントン体制からも脱却・・となるのですが、

その一方で朝鮮へは日窒コンツェルン、満州へは日産コンツェルンが進出し、
どんどん景気はよくなっていきます。

今でもそうなのですが、世の中の景気がいいと、国民はそのときの政治は正しいと考える傾向にあります
軍部政権が国民に支持されれば、もはや歯止めとなる勢力はなくなります。005.gif

1920年代に恐慌が頻発していたのは「ワシントン体制」に縛られていたから・・
それならワシントン体制から外れてよかったやん、というのが財界、軍部、政界の一致した意見となっていくわけです。

ですが、軍部内部で派閥抗争がでてくるんですよね。

・官僚や財閥と結びつくことによって、軍部の力を強化しようとする 「統制派」

・直接行動を通して天皇を中心とした政治体制を実現しようとする「皇道派」


・・・こうした陸軍内部の派閥争いが外部に飛び火し1936年に皇道派の青年将校が中心となって起こしたクーデターが
「二・二六事件」です。

二・二六事件の背景には斎藤・岡田と二代続いて「海軍」それも「穏健派」と言われる人の内閣だったという事情もあります。当然、陸軍からは反発が出ます。

岡田内閣の時には「天皇機関説」が問題化します。
「国の統治権は法人である国家にあり、天皇は国家の最高機関である」という美濃部達吉の学説です。
この美濃部の学説は新しいものではなく、すでに一般化した学説でした。
しかし、これが陸軍や右翼勢力にとっては「天皇に対する反逆思想だ!」として攻撃を受けるようになりました。

さらに政党も巻き込んで大きな社会問題にまで発展します。
岡田内閣はこうした動きを抑えるために美濃部の著書を発禁処分とし、天皇機関説を内閣が否定することになりました。
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こうした背景の中「皇道派」が直接行動を起こしたのが「二・二六事件」です。
これは皇道派の青年将校が「昭和維新」を掲げ、高度官僚国家や一部の利権者が軍部と結びつくのは許せない、ということで行動を起こしたわけですが、やったことは「暗殺」なので反乱軍の汚名を着せられ失敗に終わります。
このときに斎藤実(まこっちゃん)、と高橋是清蔵相(だるまさん)と渡部錠太郎陸軍教育総監が暗殺されています。

この事件を機に岡田内閣は総辞職、陸軍内部では「統制派」の力が強まり、政治介入がいっそう激しくなっていきます。


「二・二六事件」で岡田啓介内閣が退陣したあと、意外にも文官の登場となります。
1936年に組閣した「広田弘毅」は外交官出身です。終戦後、軍人以外でただひとりA級戦犯に指定され死刑になった人です。

ではこの人が何をしたかということですが、問題とされたのは「軍部大臣現役武官制」の復活。
つまり陸軍大臣と海軍大臣は「現役の軍人」でなければならない、という規定が生き返ったのです。

そして以後、「軍部の承諾なしに内閣を組織できなく」なります。

広田のもうひとつの政策はソ連に対する「防共」だけでなく、アメリカやイギリスへの対策も練っておくという「国策の基準」を作ったこと。これはアメリカとの戦争の発端をつくったってことでA級戦犯になってしまうわけだよね。

外交では国際的孤立から脱するべくドイツとの連携を深めていきます。その結果結ばれたのが「日独防共協定」。
さらに翌年1937年にイタリアが加わり「日独伊三国防共協定」へと発展していきます。

結局広田内閣は軍部と対立し、退陣。その後、短命の「幻の内閣」、宇垣一成内閣、林銑十郎(はやしせんじゅろう)内閣と続きますが・・次に組閣するのがあの、「近衛文麿」内閣です。
これから先は陸軍統制派が納得しない内閣は成立しない、という状況になるわけです。
つまり、軍部が政権を握る状況が確立します。そして日中戦争へ、。