大正時代 最終 関東大震災と震災恐慌 、普通選挙法

関東大震災と震災恐慌 、普通選挙法

ダルマさん内閣、居ぬき内閣こと高橋是清内閣。政友会の内紛により瓦解しちゃいます。
その後、内閣総理大臣になったのは「加藤友三郎」でした。

加藤友三郎とは幣原っちと一緒にワシントン会議で全権委任された人やったね。
でも「二人の加藤」っていうように、「加藤高明」とは別人やからね。注意してね。
東郷平八郎、山本権兵衛につづく「日本海軍の三祖」の一人である加藤友三郎は、とても聡明な人。「坂の上の雲」でも登場してきてるよ。

でも、この加藤友三郎内閣、現役のまま1923年8月に急死してしまい、その後、後任は「第二次山本権兵衛」内閣になります。

ところがところが、その矢先の1923年9月、文字通り激震が走ります。

関東大震災です。
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大規模な被害だったことは言うに及ばず。
これをきっかけに「震災恐慌」が起ります。
たとえば、震災によってみいんなが資産を失ってしまい、手形を現金化できなくなり、銀行の経営を圧迫し中小企業の倒産も相次ぎます。
この現金化できなくなった手形を「震災手形」といいます。

この恐慌から早く脱出しなくてはいけない、ということで行ったのが「支払い猶予」(モラトリアム)・・おや、どっかで聞いたことがある言葉!?

9月中にすぐに出されたのが「震災手形割引損失補償令」
これは、関東大震災の結果、不渡りになった手形を日銀が割り引いて買い取る、というものでした。

しかし、そーすると日銀が厳しい状況になりますよね。
結果として「恐慌」の回避にはならなかったわけです。

こんな感じで世情が混乱する中、1923年12月に東京虎ノ門で摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)が狙撃される、という事件が起こりました。

「虎ノ門事件」
お聞きになったことがあるのでは?
この責任を取って、山本権兵衛内閣は総辞職してしまいます。

その後を継いだのは1924年1月成立の「清浦奎吾内閣」です。
この人はマタ、貴族院と官僚の勢力をバックに政党から一人も入閣させない「超然内閣」を組織します。

ところが、これに対してやはり反発がでます。
憲政会(加藤高明)
立憲政友会(高橋是清)
革新倶楽部(犬養毅)

の三党は第二次護憲運動を展開し、内閣打倒を目指しました。

この三頭をまとめて護憲三派と言います。
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これに対抗して清浦内閣も解散総選挙に打って出ますが、大敗。
結果、第一次加藤高明内閣が発足します。

ところで、大正天皇が即位したとき、
元老は、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望の6人がいましたよね。

でも大正という短い期間に次々と亡くなり、1924年には西園寺公望1名になりました。

西園寺公望はもともと公家ですから、藩閥にとらわれることなく二大政党の党首が交互に総理大臣をつとめる、といういわゆる「憲政の常道」という慣例が始まります。

こういった動きは吉野作造を中心とした民主主義的改革を求める「大正デモクラシー」の影響もあるといえます。大正デモクラシーは世論の力も表面化させます。

こうした背景もあり、加藤高明内閣がまず手を付けたのが「普通選挙法」の制定でした。

これにより、資産に関係なく選挙に参加できるようになりました。
ただし、これは男性だけ。女性の参政権が認められたのは戦後になってからです。

それと見逃せないのが「治安維持法」の制定です。

日本はこの年、新しく建国したソヴィエト連邦と国交を樹立し、
「日ソ基本条約」を締結しましたが、これによって日本の社会主義、共産主義が拡大する懸念があります。

また普通選挙法の制定にともない「無産政党」から国会議員がでる可能性も考えられます。

つまり普通選挙法で一方で紐を緩めて、治安維持法という法律で取締りを厳しくした。

この治安維持法は、戦争へと驀進する政府によって都合よく利用されることになります。
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