明治時代⑤-3 日露戦争②

日露戦争②

北清事変の結果、またロシアのやられてもーた!031.gif

日本ではロシアに対する反感がどんどん高まっていきます。013.gif

このロシアに対する反感に対して日本では2つの動きが起ります。

・日英同盟論
・日露協商論


日英同盟論とは、イギリスと同盟を結んでロシアと対決していこう、というもの。
これを主張していたのは軍部を掌握していた山県有朋、桂太郎ら。
ロシアとの全面対決(結局日露戦争に進むわけですが)を示唆してしますね。

一方日露協調論は、簡単に言えば「満韓交換論」
満州の権益はロシアにやるかわりに、韓国における日本の権益をロシアに認めさせるというもの。
これを主張していたのは伊藤博文や井上馨

結果はパワーバランスによって決まります。1901年桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって1902年、日英同盟が締結され日露戦争に突入することになります。

よく教科書などで「開戦論」「非戦論」があったとされていますが、実は国民のほとんどが「開戦論」で「非戦論」はほとんどいませんでした。

なぜならこれは「侵略のための戦争」ではなく、「ロシアの目に余る侵略行為」に対する戦争ととらえられていたからです。

「非戦論」を唱えていたのは幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の社会主義者やキリスト教的考えを持つ内村鑑三くらい。

さあて、日露戦争が始まってしまいます。
1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日

この戦争で有名なのが日本海海戦。
ロシアのバルチック艦隊はイギリスの嫌がらせに消耗しながらも無事故で日本海にたどり着く。

東郷平八郎の率いる連合艦隊は、秋山真之(あきやまさねゆき)(⇒江川達也の「日露戦争物語」の主人公)の活躍によって完勝。秋山真之は正岡子規と幼なじみだったことでも有名ですよね。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』もこの2名を題材にしていますよね。

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日本圧勝!バルチック艦隊陥落!のイメージの強い日露戦争ですが、ロシアは白旗をかかげたわけではありませんでした。日本画軍事的勝利っていっても、致命的で国を揺るがすほどでもなかったので、長期戦も予想されたんです。

でも、ここで救われた、というかラッキーだったのは日本。005.gif

ロシアはロシアでお国の事情を抱えていたんです。
1905年、血の日曜日事件にはじまる「第一次ロシア革命」が起り、ロマノフ王朝そのものが危機に瀕する状態だったんですから。

そこで、セオドア・ローズベルト大統領が仲介に入り、日本の小村寿太郎とロシアのヴィッテの間で「ポーツマス条約が結ばれます。

ですがここでも誤解している人があるかもしれないですが、「ポーツマス条約」は決して日本の軍事的勝利に対する講和ではないんですね。

日清戦争の場合は、日本の軍事的勝利に対する講和でした。
ですが、「双方とも戦争の続行が不可能な状態になった」ということに対する講和なので、「痛み分け」といったところです。

ただし、講和条約では旅順・大連の租借権をロシアから奪い、ロシアのモノであったのちの南満州鉄道(満鉄)の権益も手に入れ、樺太の南半分の領有権も得ます。監督に対する監督権も取ります。

軍事的に「勝利」を公認されたわけでないのに、これだけの条件を引き出したのはすごいことなんですよ。

ところが、当時の日本国民は「日露戦争は日本の大勝利」と思っていますから、
「なんで賠償金がとれへんねん!」と反発が起ります。


「引き分け」という「講和」だったんだから、当然といえば当然なのですが、「血を流したのに一銭も取れないのか!」と日比谷公園で決起集会を行っていた民衆の一部が暴徒化し、内務大臣官邸や新聞社や交番などを襲って火を放つまでの事態に。(日比谷焼打ち事件)

じっさい、賠償金が取れないことは日本にとって痛手でした。
1907年(明治40年)に戦後恐慌が起ります。(明治40年恐慌ともいいます)

莫大なお金を戦争で使いながら賠償金が採れなかったんだから。

次は「韓国併合」(1910)の流れに行きます。
お疲れ様でした。(わたし^^;)061.gif
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