明治時代 ③-2  桂園時代もすっきり。

③-2 内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)

さあ、どんどん行きます。
はてさて、結局「薩長」モードのまま「日清戦争」に突入するわけですが、日清戦争がはじまると、それまでの藩閥政府に反対していた人(⇒民党)たちの態度が変わってゆきます。

「あんたらのせいで戦争に負けた」なんて言われたらカナワンわけですから。

そこでそこで、伊藤も「民党といつまでも対立しても平行線」と思い、民党の抱き込みをはかる。

1896年(明治29)に板垣退助を内務大臣として入閣させます。
内務省と言うのは地方と警察を担っている官僚で、これを渡しちゃうってのもすごいとこなんですが、その結果、板垣退助の自由党は懐柔させられた、というか、完全に伊藤の出す案に賛成するようになります

第二次松坂内閣では大隈重信を外務大臣として起用。

民党を手中に収めたかと勢いづいた第三次伊藤博文内閣は、やりたくてもできなかった増税、「地租増徴」を実施しようと考えるんですが、これにはさすがに反対されちゃいます。

そして考えてみてください。当時選挙権があったのは税金をいっぱい収めているお金持ちだけでしたよね。地租増税っていったら有権者からも反対合戦にあってしまう

ここで伊藤は内閣を投げ出してしまいます。
そんな中、誕生したのが日本最初の政党内閣、憲政党の「大隈重信内閣」が誕生するわけです。ちなみに大隈重信は肥前。
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だけども、実質は大隈重信と板垣退助の2人をトップとする内閣なので「隈板内閣」と俗に言われたりもします。

でもね、その日本最初の政党内閣、は、たったの4か月しか続かなかったわけよ。

もともと板垣退助と大隈重信は仲かがいいわけでなかった。
単に「土地課税の税率を増やされたくない」「薩長ばっかは嫌」というのが一致していただけで、考えは全く違ったのだから。

次に出てくるのは「山県有朋」内閣。山県は長州なんですがあ。。。
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山県内閣は「やりたいことはやっちゃうぞ」って内閣。かっこよいく言うと「超然主義」と呼ばれていて、ずっとできなかった「地租増税」をあっさりやっちゃいました。

でも軍人だから、労働運動、社会主義運動みたいな邪魔な運動は力で抑え込むというような「治安警察法」を制定。

ただね、藩閥体制も一枚岩ではなかったんですよ。
伊藤博文を中心とする派閥と山県有朋を中心とする派閥に分かれていた。

どっちも長州なんだけど、二人の性格の違いかな。

山県は軍人で官僚主義的、問答無用でビシバシものごとを決めていく人。
一方伊藤は政治主導で相手と妥協しながら自分のやりたいことを書く実に実行するタイプ。

たとえば、伊藤はさきほども言ったとおり。日清戦争以降は民党を抱き込もうとしましたよね。

伊藤博文は同じ長州ながら、山県有朋のことが嫌い。
そういう勢力を集めて作ったのが「立憲政友会」そして第四次伊藤内閣が誕生します。

しかし、この内閣は「貴族院」の反発を受けるんです。当時は多額の納税者のほか」、勅選議員といって、その多くが天皇さんから任命してもらうんですよね。

それがうまいこといかなくて、すぐにこの伊藤内閣が潰れてしまう。

伊藤博文は自分の後継者として公家の西園寺公望を指名します。西園寺は公家だから貴族院のバックがあるってわけですね。

そのあと、総理大臣は桂太郎と西園寺公望が交互にやります。だから「桂園時代」というわけですね。
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桂太郎は長州で陸軍、官僚閥だからいわば山県有朋の子分です。一方西園寺公望は伊藤博文の子分です。

つまり、この時期は代理戦争というか、伊藤と山県の対立がその後継者にまで移って行った段階と言えます。
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