明治時代③ ③-1 内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)

明治時代③
③-1 内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)

さあて、政府に対する批判も西南戦争後はこれで終わりかなあと思ったら、
ここに「大隈重信」という人物が登場しますよ。その頃の「大蔵卿」、今でいう財務大臣ですが、政府の人なのに政府への反発を盛り上げるようなことをしてしまう。
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当時の財政状況は、というと、確かに西南戦争には勝ったんだけれども、莫大なお金を使った。・・・使ったって言ってもジャンジャンお金を印刷した。

今の感覚で言うと・・・「インフレになるに決まってますやん」というとこですね。

大隈重信は早稲田大学の創始者ですよね。
大隈重信は頭のいい人だから、なんとかしようとしても何を言っても反対される。
なぜって?大隈重信は「肥前」の人で「薩長」ではなかったわけです。

そんなときに「薩摩」の「黒田清隆」が北海道の「開拓使官有物払下げ事件」を起こしてしまう。

北海道の土地や船舶鉱山などを安価な値段で同郷の薩摩の政商の経営する会社に売ろうとするわけです。2,000万円かけたものを39万円、しかも分割で、なアホな、という話ですが、黒田もワイロをもらうつもりだったかもしれない。
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が、爪に火をともす財政難をなんとかしようと思っていた大隈重信は当然反発します。

結果的に払下げは取り下げになるんですが、自由民権運動が結果的に盛り上がる。これが国会開設の勅諭、となり民権派に10年後に国会をつくることを約束させるわけです。

が、この騒動の後始末として大隈重信とそのブレーンは政界から一掃されてしまう

これを「明治十四年の政変」と言います。

え、、ワイロ疑惑の黒田清隆が罷免されるんとちゃうの?(ー_ー)!!と思いますが、黒田清隆は薩摩・・・
ここでも「薩長」かいな、って感じですな  そんな時代なんですよ。
黒田清隆って、榎本武揚助けたイケメンって思ってたんやけど、イメージダウンや。

ほんで、大隈重信が政界から去った後、大蔵卿に就任したのは「薩摩」の松方正義

「正義」は「せいぎ」でなく「まさよし」と読みますが、「松方デフレ」という不名誉な名前が代名詞となっています。

「西南戦争」の後、おカネがなくなって、おカネを印刷しまくってインフレになったって言いましたよね、

それをなんとかするために、増税と緊縮財政をとるわけです。

そして紙幣の回収とともに1882年(明治15)、「日本銀行」を設立します。
いわゆる国立銀行でなく、民間銀行なんですよ。ややこしいですね。
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そこまではいいんですが、松方デフレ対策の結果、物価は下がる。
物価が下がって人々は大喜び、といったらそうは行かない。

それは昨今の日本を見たら同じ問題に直面していてよーく分かりますよね。

地租改正があって、江戸時代みたいにコメで収めるわけでなくなった。
そのコメの価値が下がるんだから、生活できなくなった農民は土地を手放して小作になる。

そうするとみずから耕作しなくても小作農からの地代をもらって生活する人(寄生地主)が出てくるわけですよ。
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そうすると貧しい農民は土地を手放して没落する一方、豊かな地主はどんどん豊かになる。デフレによってこういうことが起る。

今の流行のピケティ理論が出てくる背景にも似てますよね。

そして貧しい農民によって「激化運動」(武力による直接行動)が頻発するようになる。
これに板垣退助によって結成された自由党の一部過激派も加わってくる。

何度も言いますが、板垣退助の自由民権運動は必ずしも「庶民のため」「貧しい人のため」の運動ではなかった。
薩摩・長州の横暴によってワリを食っている人たちが、土佐・肥前の板垣退助らと結びついて、なんとか自分たちも権力を持ちたい、という動きだったとも言えます。


いまでも「国民の生活が第一」とか言っている政党のトップがなんとか御殿に住んでますよね(笑)

ただね、この激化事件、武装事件とか農民一揆とかになって、単なる過激集団として政府に恨まれるようになるんですよね。

そうすると、自由民権運動も下火になってくる。そんな頃の1885年(明治18)に内閣制度が発足、ご存知のとおり、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。

政府は太政官制を廃止して内閣制度を成立したわけなんです。

この内閣制度を創設した目的は、行政府の簡素化と同時に宮廷と政治を切り離すことが目的だったんですね。ここで内閣ははじめて「政府」と呼ばれることになるんです。

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でもね、1885年(明治18)の内閣制度がはじまったときの総理大臣は伊藤博文(長州)、二代目は黒田清隆(薩摩)、三代目の山県有朋(長州)、四代目の松方正義(薩摩)・・・

自由民権運動が下火になり発足した政府だから、結局「薩長」が交互に総理大臣になってる感じですよね。

松方正義内閣のとき、余計にそれを意識させるような意見が起ってしまった。
薩摩出身の海軍大臣 樺山資紀(かばやますけのり)がこんなことを言います。

「君らは薩長政府とかなんとか言うが、今日の日本がここまで立派な国になったのは誰のおかげか」
これを「蛮勇演説」というんですが、こんなことを言うから国会はますます紛糾して、とうとう議会は解散になってしまいます。

それでも、伊藤博文が二度目の総理大臣なって第二次伊藤内閣が発足。
1894年、日清戦争がはじまりますが、それはのちほど・・。
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