明治時代② 自由民権運動(不平士族の反乱)  板垣死すとも・・は言ってない?!^^;

明治時代②です。
②自由民権運動(不平士族の反乱)

行ってみましょう。
岩倉使節団が帰国した後、「廃刀令」と「秩禄処分」が出たために、士族は刀を召し上げられ、武士の特権がすべて奪われた結果、不満をもつ武士たちの反乱があちこちで起るわけです。仮に慣れない商売に手を出しても「士族の商法」としてあざ笑われ、武士が一番大事にしている「顔」も潰されるわけです。

征韓論を唱えたのはね、武士たちのためでもあったわけです。外国を攻めることでかれらの権威を取り戻してあげたかった。

しかし征韓論も先に述べたごとく否決されてしまう。
それとともに「不平士族の反乱」が各地で起り、その最大のものが西郷隆盛が擁立した1877年(明治10)の「西南戦争」なんです。
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戊辰戦争が東日本平定の内戦なら、西南戦争は西日本の不満分子の鎮圧ですね。
この西南戦争の鎮圧によって、日本史最後の内戦が終わるってことになるんです。

西南戦争では西郷隆盛が自決し内戦は終了するんですが、西南戦争の最中に木戸孝允は乱の行方を案じながら病死、大久保利通も「紀伊井坂(きおいざか)の変」で暗殺されます。

維新の三傑は次々に去り大隈重信、伊藤博文、井上馨の三頭政治へと移っていくわけです。

そして武力蜂起の無意味を悟った士族不満層や地主なおの地方富裕層は板垣退助の主導する自由民権運動に合流していきます。

ただね、この「西南戦争」は日本中に大きな衝撃を与えるわけですよ。
なぜって、そのときの西南戦争に勝った政府軍というのは4年前に始まった徴兵令で集められた軍人でもなんでもない農家の子とかの寄せ集めの軍隊ですよ。

それが勝ってしまった。士族には衝撃だったわけです。武力で政府に反発しても絶対に勝ち目はない、思い知らされる。(ー_ー)!!


そこで武力では無理だから言論で行こう、ということで西南戦争中に土佐出身の片岡健吉が立志社建白、いわゆる国会開設を求める意見書を出そうとします。

そして板垣退助が結社したものの弾圧を受けていた「愛国社」が1878年(明治11)に復活。

そして帝国議会、いまでいう国会がいよいよできたのは1889年(明治22)の大日本帝国憲法の発布を待たなくてはいけないんですが、自由民権運動もその礎を作った功績ともいえますね。

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自由民権運動のもともとは板垣退助(土佐)が「なんで薩摩長州ばっかりやねん」で始まった運動、と書いている本もありましたが(笑)

そして板垣退助はもうひとつの誤解が。

「板垣死すとも自由は死せず」という、いわゆる暴漢に遅された「岐阜事件」(1882年)明治15

これにより「暗殺」された、と思っている人もいますが、「死んでいません」(笑)
しかも有名なこのセリフも「言っていない」というのが最近の見解のようです。

1919年に板垣は死去しますが、「一代華族論」という主張から、嫡男は家督相続をせず、孫も爵位を返上してその高潔な遺志を貫いたとのことです。(めいよばんかい。。^^;)

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