歴史勉強  明治時代① イメージだけで判断しちゃいかん。

すっかりご無沙汰となってしまった歴史勉強ブログですが、
明治維新からまたちょっと初めてみましょうか。鎌倉から明治に飛んだりして無茶苦茶ですが、気が向いたら更新致します。(近代史は色々な解釈があり、微妙なところはあるのですが・・)

明治時代、1868年から1912年。明治は45年あるから、明治時代と呼ばれた時代は50年近くあったわけだ。大正時代は短いけど昭和は60年以上あり、平成も既に20年以上たっているから、「昭和」の時点で今の子にとっては「歴史」になる。

さて明治期は長いので5つに分けてみる。


①明治維新

②自由民権運動(不平士族の反乱)

③内閣制度の創設から初期議会(桂園時代スタート)


そして

④日清戦争(江華島事件から下関条約まで)

⑤日露戦争


てな感じでございます。

①の明治維新ですが、明治政府において、今も流行の「維新」を行う上で必要な様々な体制作りはすべてこの時期(1868年から1873年)に行われます。

廃藩置県、版籍奉還、地租改正、徴兵令・・・歴史の授業で聞いたことあるのばっかりでしょ。(*^_^*)

で、で、で、1871年(明治4年)の有名な出来事。「岩倉使節団」
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しかーし、条約改正のために行ったに、結局条約改正はすぐには難しいということで、単なる欧米視察になったというわけですね。

岩倉使節団には伊藤博文、木戸孝允、大久保利通、など当時の政府の首脳のほとんどが顔をそろえています。
留守政府には西郷隆盛や板垣退助、三条実美、江藤新平らが残ります。

あ、津田塾大学の「津田梅子」(当時6歳)も随行するんですよ。6歳で、しかも女性がって当時としてもすごいことなんだろうな、って思います。(*^_^*)

そして約2年の視察後、1873年(明治6)に彼らを待ち受けていたのが「征韓論」でありました。
朝鮮は清国を「宗主国」とあおぎ、近代化を推し進めようとした日本をいいように思っていなかった。

そんな朝鮮を武力 をもって朝鮮を開国しようとする主張なんですよね。
征韓論=西郷隆盛(薩摩)、というイメージがありますが、留守政府ですから板垣退助(土佐)や江藤新平(肥前)とかもそうです。
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しかし、岩倉使節団はヨーロッパを視察した結果、内地の要を痛感して帰ってくるのですから、当然「ナニ言うてまんねん」となるわけです。

そしてこれらの人によって「征韓論」は否決されます。
しかしだね、「征韓論」の背景にあったのは、それだけではないんですよ。

たまたま西郷どんは「薩摩」ですが、板垣退助(後藤象二郎)は「土佐」、江藤新平(副島種臣)は肥前。

つまり征韓論の中心的論者は「土佐」「肥前」だったんです。

続に「薩長土肥」って言いますが、「薩摩」・「長州」の意見は通るけれど、「土佐」「肥前」の意見は通らない、というのが当時の明治政府なんですよ。

ちなみに初代総理大臣、伊藤博文は「薩摩」やんね。
二代目の黒田清隆も「薩摩」

・・・ふむふむ。

・・・・そのような中、「土佐」「肥前」が、「なんで薩摩長州ばっかりやねん」という反発が生じた、それが「自由民権運動」になっていくんですよ。

え、自由民権運動って「庶民のための運動じゃなかったの?」と思うんですが、

いっぽう「征韓論」に反対した人として「大久保利通(薩摩)」がいますが、
「朝鮮かわいそう」って思ういい人やって思ったらそうと違います。<(`^´)>



大久保利通は2年後の1875年(明治8)に「江華島事件」をきっかけに朝鮮に対して不平等条約である「日朝修好条規」を強要して無理やり開国させるんですよ。(後述)

征韓論に反対した人=朝鮮かわいそうっていういい人
自由民権運動=庶民のために運動したいい人
・・・っていう子供の頃の学習イメージは間違い。


色々な思惑があり、自分たちの権威を守るために当時の人は必死だったことが分かります。
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