■1159年 平治の乱 平氏の野望、そして滅亡■

保元とくれば平治ときたもんだ。
保元の乱(1156)の3年後に起ったのは「平治の乱」
これは一言で言うと、近臣間の争い。

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平清盛・信西 VS 源義朝と源頼朝・藤原信頼

ここでやっと、源頼朝の名前が出てきたね。

後白河天皇は29歳になってようやく即位し、それまでは今様(流行歌)の練習には熱心でしたが、まともな帝王学も勉強してはおられませんでした。保元の乱に勝利したとはいえ、そんな後白河天皇が政治を行えるわけもありませんでした。

信西、政治のことはすべてそちに一任するぞ」
「ははっ」


後白河天皇の下で実際に政治を行なったのが側近の信西です。

信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。中流貴族であり、学者の家柄でした。
頭脳明晰でしたが、家柄が悪いために出世できませんでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。おそらくこの段階では野心などほど遠かったでしょう。
(しょせん俺の家柄では学問をしてもたかが知れている。世を捨てて、坊主になろう)

しかし1155年近衛天皇が崩御し後白河天皇が即位すると、信西の運命は一転します。信西の妻朝子が後白河天皇の乳母を務めていた関係で、信西は後白河天皇に重用されるようになっていきます。

信西が行なった保元の乱の戦後処理は苛烈を極めました。信西は敵味方に別れて争った源平の武士に、身内同士で処刑を行わせました。義朝などは、敵対した実の父為義を斬らされました。想像するも無残な話です。

信西はこうして敵対勢力の弱体化をはかる一方、息子たちや一族を要職につけ権力の地盤を固めます。日に日に権力を高める信西に対して、反対勢力の恨みの声も大きくなっていきました。
後白河上皇に仕えるようになってから周囲から「あさましき程の寵愛あり」と言われるほどの寵愛を受けます。男色関係にあったとも見られています。(げっ!)
しかし時は信西の全盛期。後白河上皇は何かと信西を可愛がります。

おもしろくないのは藤原信頼。
「ふん、ふんっ、家柄は俺のほうが上なのに。信西の奴…上皇さまのご寵愛をいいことに、えらそうに」
一方、源義朝も保元の乱の戦後処理では信西によって実の父・為義を斬らされた恨みもありました。
信西に恨みを持つ義朝は、同じく信西に恨みを持つ信頼に結び付きます。
そこで、藤原信頼は源義朝と組んで信西を殺します。

これに対し自分たちの派閥の人間を殺された平清盛は激怒。平清盛は藤原信頼を倒し、さらに源義朝も倒します。

このとき源頼朝はまだ14歳。元服前の子供だったので、殺されずに伊豆に流されます。

島流しというのは、遣唐使までは伊豆、遣唐使以後は九州の大宰府というのが定石でしたが、瀬戸内海の貿易権を握っていた清盛にとって大宰府は重要な拠点でした。そんなところに反逆者を流すわけにはいかないので、頼朝は伊豆に流されたというわけです。
その結果、頼朝は東国武士との連携が生まれることになるのだから、皮肉なことです。
この乱の結果、当時の院の側近の有力者がどんどん消えて、仲間のうちであった信西までもが死に、平清盛たった一人が残るということになります。
当然、平清盛に権力が集中するということになりました。
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そして、1167年、平清盛は武士で初めて太政大臣に任ぜられるのです。
平時忠が「平氏にあらずんば、人にあらず」と言ったのもこの頃です。

ただ、出世するのにはワケがあった?使い古された説でよく大河ドラマなどでもその説を採用しているんですが「白河法皇の落胤説」
つまり、白河法皇の隠し子であった、つまり皇族の血を公然と引いていたという説があります。(またまた、あの好色の不倫男白河法皇ですよ。)

つまり、清盛の父は清盛の妻を腹の大きい状態(つまり既にお腹に清盛がいる状態)で朝廷からもらいうけたというんですね。これも真偽のほどはどうなのでしょうか・・。

さあ、そんな中、平清盛はかつて藤原氏が行ったように自分の娘徳子を高倉天皇に嫁がせ、二人の間に生まれた安徳天皇をわずか3歳で即位させます。

それにあたって、平氏は邪魔者をどんどん追い払っていきます。
有力な勢力を「鹿ケ谷の陰謀」で次々と処罰。(1177年)
実際には酒の席で「どうしたら平氏を倒せるんでしょうね」と冗談を言い合った言葉尻をとらえたと言われています。

問題はそのあと。1179年に後白河法皇を鳥羽殿(離宮)に幽閉して院政を停止させてしまったのですね。
・・・・・・なんたる暴挙。策にたけた藤原氏なら天皇と姻戚関係は結ぶけれど、こんな拙速なことはしなかったかもしれません!!!!

平清盛はそこまでやって、一気に権力を手中におさめようとしましたが、当然その後反発が起ります。
安徳天皇即位と同じ年、後白河法皇の子の以仁王平氏打倒の令旨を発し、それによって治承・寿永の乱、いわゆる源平の争乱がはじまるわけです。
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平氏政権はその後、大きく動揺します。
あまり知られていませんが、「福原京」の遷都を強行。福原京は摂津国(今の兵庫県)ですが、日宋貿易の拠点大輪田泊(いまの神戸港)から近いところを拠点にすれば兵糧攻めに合うことはないと考えたわけです。しかし、遷都に対する公家の反発は大きくすぐに平安京に戻ってきます。
また、1180年、「南都焼き討ち」、つまり平氏打倒に同調した東大寺・興福寺を焼き払ってその動きを封じ込めようとしたのですが、自社を焼くなんて日本人の感覚にそぐいませんよね。かえって人々の平氏への反発を招いてしまいました。

さらに平清盛が急死。これは原因不明の高熱で身体に水をかけてもすぐに蒸発してしまうほどの熱で、これもまた・・・・崇徳上皇の祟りだ!と言われています。

さらに、間が悪く「養和の飢饉」が発生。

これらにより、平氏の求心力は完全に地に落ち、都を追われた平氏は瀬戸内海を西に西に敗走。
1185年、源義経、範頼の軍勢によって壇ノ浦に滅び去ってしまいました。

平時子は幼い安徳天皇を抱いて、「波の下にも都がございます」といって、安徳天皇とともに海に身を投じたと言われています。
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