■1156年 保元の乱 不倫が招いた貴族社会の崩壊と崇徳上皇の怨霊■

崇徳上皇は、日本史に出てくる
「保元の乱」を起こした方ですね。

百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
切ない歌でも有名です。
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5歳で白河上皇により即位。
しかし、23歳の若さで突然父である鳥羽上皇からから弟(のちの近衛天皇)に譲位するように言われます。

・・なんで?実は疎まれているのにはわけがあった。
父親の鳥羽天皇からは「叔父子」(おじこ)と呼ばれていたんです。
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なななななんと、崇徳は我が子でなく、自分(鳥羽天皇)の妻が祖父の白河上皇と不倫してできたのが崇徳と考えていたらしい・・・!この時代はDNA鑑定なんてないし、真偽は定かでないけど。
いやいやーー、白河上皇もすごい人ですよ。だって、院政をしいて堀川・鳥羽・崇徳の三天皇の時代、43年間もの長期にわたって権力を掌握した人物。気に行った女性にはことごとく手を出したって言うのだから。

そうそう、思い通りにならないのは3つだけって言った人だよ。
鴨川の水,双六(すごろく)の賽,山法師 〈天下三不如意)


そして自分の寵愛する女(ことのほか美人だったらしい)の子、崇徳を5歳で即位させちゃった。
鳥羽天皇が憎む気持ちはわかるけど、生まれてきた崇徳天皇には何の罪もない。

白河上皇が亡くなると、鳥羽上皇は意趣返しとばかりに崇徳を譲位に追い込むわけだ。

天皇になったのは、鳥羽上皇の子の近衛天皇。
体が弱かった近衛天皇が亡くなると、崇徳天皇・・・いや譲位したんだから上皇なんですが、院政を振るうこともできなかった崇徳天皇は今度は自分の子が天皇になれると思ったのもつかの間、今度は自分の弟にあたる(ことになっている)、やはり鳥羽上皇の子・後白河天皇が天皇となるんです。

もともと後白河天皇は、天皇になる器じゃない、父の鳥羽上皇からいわれていたんですよね。なぜなら若いころから遊興にふけり、とりわけ現在の流行歌にあたる今様にのめりこんでいた。今様を歌いすぎて声がでなくなるほどの遊び人で、父である鳥羽法皇に「天皇になる器でない」と思われていました。


ですが、近衛天皇の急死、そして鳥羽法皇もその一年後に急死、それを受け、一気に崇徳方と(鳥羽上皇の遺志を継いだ)後白河方の主導権争いは激化。互いに懇意の武士を手元に集め、摂関家の内紛まで一緒になって激突するわけです。
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つまり、これが「貴族社会の崩壊」
ささいな不倫疑惑が結局は貴族社会を崩壊へと導き、武家社会への移行を許してしまうんです。

ちなみにこの戦いは非常に因縁めいており、崇徳のすさまじい「怨念」で有名。
負けた方の崇徳は捕えられ讃岐に流されるのですが、讃岐で隠遁生活を続けた崇徳は保元の乱の死者を弔うために膨大なお経を全巻写経し、都のお寺に収めて供養をしようとするも・・・

後白河天皇は「呪いが込められている」と言いがかりをつけてこれを拒絶。
激怒した崇徳上皇は、「この経文を魔道に回向する」と舌を噛み切り、滴る血でその経文に呪詛の言葉を書いて没したと言います(ぎええーーー!!!!)

ところが、しばらくすると、都に異変が!!
崇徳上皇がかつて愛したといわれる侍女の屋敷のある東山八坂に怪光があらわれ、
これがきっかけとなって二条天皇が崩御、都に疱瘡が大流行し大勢が病死

その後、事態を重く見た朝廷は怨霊を鎮めるため崇徳上皇に「崇徳院」の諡号(生前の徳を讃えながら)を送るも、その後も大火が起るなどの異変続き。

また、後鳥羽上皇が隠岐に流されるという前代未聞の承久の変(1221)も起る。
その後、何百年も朝廷から武士政権となり・・・

崇徳上皇の怨霊がようやく鎮まったのは明治元年(1868)、崇徳上皇を祀る京都市上京区
「白峯神社」が建立されてからのことと言われている・・。(何年先やねん)
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ちなみに、白峯神社は京都西陣にある、「サッカーの神様」(蹴鞠の宗家だったことから)と言われ多くのスポーツ選手が参拝しているが、こんな物凄い人(崇徳)を祀っているということを皆さんご存知だっただろうか。
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