平安時代③ 弘仁・貞観文化

「薬子の変」の平城天皇の次は「嵯峨天皇」

嵯峨天皇の時に「弘仁」格式、のちの清和天皇の時に「貞観格式」さらに「延喜格式」が編纂され、
法令の整備が勧められました。

また「検非違使(けびいし)」を設置して平安京内の治安維持や裁判を行うなど、安全な都作りが推進されました。

ちなみに京都府警のマスコットキャラは検非違使をモチーフにしていたり、葵祭の時も検非違使の仮装をした人がいますよー。
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この「嵯峨」「清和」の平安初期の文化を
「弘仁・貞観文化」といいます。

特徴としては、新しくもたらされた仏教、とくに密教がさかんになったことです。

平安時代の初期は、仏教勢力が強くなりすぎた奈良時代の反省もこめて、奈良の寺院の移築を禁止しました。

平城遷都のときは藤原京から有力寺院が移ってきましたが、これを固く禁じたわけです。

ただ、仏教は人々のあいだに深く浸透していましたから、仏教そのものを全面的に禁じるわけにはいきません。
むしろ、人心を政府批判の方に向けさせないためにも、為政者にとって宗教は必要だったわけです。

そこで朝廷は遣唐使とともに「最澄」など学問僧を中国に派遣し、新しい仏教学ばせました。

その結果、最澄は天台宗を、とき同じくして渡った空海は真言宗を持ち帰ります。
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平安初期の仏教は基本的に密教です。

密教の思想は基本的に加持祈祷ですが、大雑把に言えば秘密の呪文で奈良時代の仏教は取り扱わなかった分野です。

秘密の呪文を唱えれば「この世で幸せになれます」「もっと出世ができます」「お金持ちになれます」というわけで、
奈良時代の教理仏教から、現世利益を求める仏教に変貌していきます。


最澄がもたらした天台宗は比叡山延暦寺を本山とし、空海の真言宗は高野山の金剛峯寺を総本山とし、いずれも平安京の中に寺院を建てませんでした

ここもポイントで、平安初期の仏教は「政治と宗教の分離」が見られます。

ただし、空海は嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を賜り、高野山とともに布教の拠点にしました。

特に平安初期は、これまで力の弱かった和気氏が和気清麻呂の活躍によってにわかに力をもつようになったり、「家柄に関係なく頑張れば出世できる」時代でした。

そうしたことからも、現世利益の密教がもてはやされた要因の一因になったと言えるでしょう。

■神仏習合と仏教文化

新しい仏教のもうひとつの特徴は、山中に寺院を点てて、そこで修業をしたことでした。
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比叡山も高野山も、女人高野といわれた室生寺もそうですが、平地と違い山の地形に合わせてお堂や塔が配置されました。その密教が日本の古くからあった山岳信仰と結びついて「修験道」に発展していったのですね。
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また、奈良時代ごろから仏教は日本古来の神道とも融合していきます。
弘仁・貞観時代には、神社に隣接した神宮寺が建立されたり、寺の境内に鎮守様が祀られたり。

これを神仏習合と言い、この傾向は明治維新後の廃仏毀釈まで続きます。
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