平安京遷都!歴史勉強ブログ

平安京遷都!

久しぶりの歴史勉強ブログですが、今度は平安時代に飛びます。

「鳴くよ ウグイス 平安京」は小学生でも知っている語呂合わせですが、

「平安『京』」の「京」って何かわかりますか。

「東京」「京都」・・にも京がつきますよね。

一方で「宮」という言葉もある。「宮」は近江や飛鳥にもありましたが、
あくまで政治を行う政庁のこと。大極殿やその周りに設けられた役所の部分だけをさします。

いま公園化している奈良の平城宮跡がそれにあたります。

それに対し、「京」は一般の人々が暮らしていた町並みも含む都全体のことを指します。
お城と城下町といったらイメージしやすいですね。

平安京遷都となると、政治組織だけでなくそれに関わる人たちすべてが移転しますから、平安京遷都後はそれまで平城京があった広大な土地は急速にさびれていきます。(´ε` )

ですが、寺院は移転しなかった。それは平安京遷都の目的の中に、仏教勢力の台頭を廃したかったということもあるからです。( *`ω´)

奈良時代、聖武天皇が仏教勢力に頼りすぎたこと、そして道鏡のように自分自身が天皇になろうとする僧侶も現れたことはご存知のとおりです。

道鏡は称徳天皇に(孝謙上皇の重祚、女帝)に重用されていましたが、称徳天皇が重い病を患ってしまった。

道鏡は加持祈祷で治そうとするのですが、称徳天皇の病は重くなるばかり。(´・_・`)

後ろ盾がなくなることを恐れた道鏡は宇佐八幡宮(大分県)の託宣があったと言って、自分自身が天皇のなろうとしたわけです。
(宇佐八幡宮神託事件)

うーーん僧侶なのに、神様?と疑問に思うのですが、実はこの頃から「神仏習合」の信仰の形ができてきて、
この傾向は奈良時代から明治維新後の廃仏毀釈運動の頃まで続くんですよね・・。

と、脇道にそれました。

そのように「道鏡」が「われこそが天皇」というなか、朝廷は和気清麻呂という人物に命じてこの「信託」が本物かどうかを調べさせます。

そのとき、道鏡はコッソリ清麻呂に「本物といえばおまえを登用してやるよ」とそそのかしたと言われています。

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しかし清麻呂の報告は「そんな神託はございませんでした」というものでした。

これに怒った道鏡は、和気清麻呂を大隅(鹿児島県)に配流してしまいます。

そうこうしている間に、称徳天皇は病死してしまった・・。

後ろ盾がなくなった道鏡は、急速に勢力を失っていきました。

ちなみに・・和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から和気氏ゆかりの護王神社(御所のとなり)の狛犬は、猪、つまり狛猪なんですぜ。昔のお札にも猪が描かれています。

なお、護王神社は和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られたものが移転。
神護寺もすごーーーくいいお寺なのでぜひ足を伸ばしてください。

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平城京から平安京に・・とその前に、

784年に桓武天皇は山城の「長岡京」に都を移しました。

これを忘れたら、京都府長岡京市の人は怒るよ(笑)

でも、ご存知のとおり794年、10年後に平安京に都を移した。
ちなみに、長岡京も今の京都府なので、784年から1869年まで日本の首都(天皇が住まわれていた場所)は京都府内にあったことになります

なぜ、長岡京はたったの10年だったの?

これはなぜかと言うと、どんな時でも大きなことを起こすときは反対が起こるもので、平城京から都を移す際、
遷都を主導していた藤原種継が暗殺されてしまうわけなんですね。

藤原種継が暗殺されたとたん、新しい都へのモチベーションがトーンダウンしてしまう。そして、また平城京に戻るのでは、という空気が高まってきたのです。(´ε` )

そんな中、平安京遷都を強く提唱したのが、先ほどの宇佐八幡宮神託事件で配流されていたが復権した
和気清麻呂だったのです。

通常なら下手に何か言うと暗殺されてしまいかねない状況だったのですが、旧弊を断ち切るため立ち上がったのがこの人物だったわけですね。

和気氏は実はもともと高い位の貴族ではなかったのですが、道鏡に逆うことにしても、平安遷都にしても臆せず推進することで、有力貴族の一角に名を連ねることになったのです。
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