秀吉による天下統一

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ったことよって、織田信長の後継者が秀吉であるとほとんどの人が認めるのですが、ただひとり難癖をつけた人がいます。048.gif

徳川家康です。そこで始まったのが1584年の「小牧・長久手の戦い」です。005.gif

「信長の後継者は、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)である」と。

家康自身は、織田信雄を後継者に立てて豊臣秀吉を倒そうなどとは、恐らく考えていなかったでしょう。むしろ、そういうことを言っておいて、落としどころを見つけてから退くという考え方だったのかもしれません。046.gif

もちろん来るべき秀吉の政権下でみずからのポジションを確立するためです。
危険な賭けではありますが、家康というのはそういうことをよくやる人です。

ここで両者が和睦し、その結果、秀吉が信長の後継者であるということを反対する者は誰もいなくなります。

明智光秀を倒した頃から、秀吉はいわゆる「太閤検地」をはじめています。056.gif
これにより、それまでの荘園制度は一気に崩壊していきました。070.gif

その後は、名目ではなく実質的に天下統一をする時期。
まず、1585年に長宗我部元親を降伏させて四国を平定。
南蛮貿易などで先進した地域である九州を制圧したら、あとは関東と東北だけです。

京都を都とする時代感覚からすると、残ったのは田舎の地域だけということですから、この時点で実質的には日本の支配者になったと言えます。
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そして1585年には関白に任じられます。
あれれ、いくら秀吉が全国を力で支配し「オレを関白にしろ」と共用しても、関白には五摂家(一条家・二条家・鷹司家・近衛家)からしかなれないので、そうかないません。

そこで、まずは近衛家の養子になり、一旦近衛秀吉になり・・・
さらに、当時の後陽成天皇に対し、五摂家よりも上位の格を要求します。そこで朝廷がつけたのが、秀吉のために特別に作った「豊臣」という姓。049.gif

ここで豊臣秀吉となり、そのうえで太政大臣になります・・・!

つまり、「関白太政大臣」
その立場で全国の大名に対して「惣無事令」を発します。

「豊臣秀吉が関白として天下の頂点に立ったのだから、もう戦いはやめなさい。これからは、戦闘でなく、私がすべての領土を決めていきます」ということです。

ここからは秀吉による全国統一の完成の後半!

1587年にバテレン追放令、1588年に海賊取締令を出します。
そして朱印状がないと貿易できないという朱印船貿易を始める・・・

1588年、秀吉は自分が京都に建てた聚楽第後陽成天皇を招待します。天皇だけではなく大名のほぼすべてを呼びます!
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まだ奥州や関東は平定していないので、伊達や北条はいませんが、服従した諸大名はみな顔をそろえます。

そして天皇の見ている前で秀吉への忠誠心を誓わせるのです。
戦国大名にしてみれば、天皇というのはみたこともない存在ですよ。彼らをその前に引き出して、ひとりひとりに忠誠を誓わせる、なんてことをするわけです。

1588年には天正大判を出します。通貨を発行するのは自分が支配者であることを人々にPRするためなんですね。
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そして1590年に小田原攻めで北条氏を倒し、同年の奥州平定で伊達氏を服従させ、これで名実ともに全国統一の完成です。

こうして秀吉は織田信長がなしえなかった全国の支配者となったわけですが、その信長が印判に書いた文字は「天下布武」
これは天下を武力で統一していくという考え方です。

つまり、信長がやったのは実質的なところばかりです。そこばかりに汲々として権威の後ろ盾をないがしろにしたところが謀反人を出す背景になったのかもしれません。022.gif

秀吉はつぶさにみていたのではないでしょうか。072.gif
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