織田信長 全国統一目前に!バトンを取った豊臣秀吉

織田信長 全国統一目前・・!

さて、大名のトップ、当時のナンバーワン大名は誰かというと、武将の数、軍事力、編成力、どれをとっても・・
武田氏に勝る大名はいません。004.gif

そこで、1575年、長篠の戦い(愛知県新城市長篠)で武田勝頼の騎馬隊と戦うことになります。
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当時、武田氏が強かった理由は騎馬隊にありました。馬で戦うには高いスキルが要求されますから、いい武将を集めないと騎馬隊では勝てません。013.gif

織田は騎馬隊能力では明らかに武田氏に劣っていました。そこで、身分の低い足軽を使って鉄砲隊を組織し、それで対抗して勝利します。つまり、まるっきり従来の戦法を変えることで勝ったのが長篠の合戦というわけです。005.gif

そして、翌1576年に安土城を造ります。これは、「武田を破った自分こそ、全国の大名の頂点なんだ」ということを知らしめるのが目的です。

戦いを目的にとするのではなく、みずからの権威の象徴として豪華な城を築くわけです。古墳時代の5世紀、権力者が競って巨大な古墳をつくったのと似ているかもしれませんね。003.gif

そして1582年、天目山の戦いで武田氏を滅亡させます。047.gif

これで、天下統一事業への道のり95パーセントくらいを終えたわけですが、完成を目前にした同年1582年6月、京都の本能寺で、家臣の明智光秀に攻められ死んでしまいます。これが本能寺の変です。
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当時は織田信長の後継者が羽柴秀吉だとはだれも思っていません。
備中(岡山県)高松城で水攻めをやっていた羽柴秀吉は。本能寺の変を聞くや、すぐさま相手方の毛利氏と和睦します。
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そして山﨑の合戦(京都府乙訓郡大山崎町)で織田信長を討った明智光秀を討ちとります。これでも、信長の後継者が秀吉だとはだれも思いません・・?!

では、重臣たちは信長の息子を後継者と考えていたかというとそうでもない。
まだ戦国時代の発想ですから親から子へ継いでいくのではなく「天下持ち回り」なのです。

それでいくと、信長の後継者としてもっとも力をもっていたのは越前の柴田勝家でした。

1582年7月に開かれたのが有名な清洲会議。信長の後継者を決める会議です。

清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられました。この時の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへ影響します。
そこで秀吉は1583年、その柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒します。

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ここで外せない人が、柴田勝家の正室、織田信長の妹のお市の方。
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この人は、もともと21歳で浅井長政と結婚しましたが・・・
お市の方が浅井の裏切りを察し、兄信長にいち早く知らせた、という逸話は有名ですね。

その後、柴田勝家と再婚するも・・秀吉との対立により賤ヶ岳の戦いが勃発する。
3人の娘たちと住まっていた、勝家の北ノ庄城は秀吉軍に包囲され、勝家はお市の方と娘たちを城から落とそうとしますが、お市の方は、3人の娘たちだけを城から落とし、自分は勝家の手にかかって死ぬ事を選びました。

お市の方の3人の娘は、その後秀吉に庇護され、長女茶々は秀吉の側室(淀殿)となり、秀頼の生母となります。(のち大坂の陣で自害。)二女初は、京極高次に嫁ぐ。三女、小督は佐治一成室となるが、秀吉の命で秀吉の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、徳川秀忠正室となり、お江与と呼ばれて、三代将軍家光、二男忠長を生みます。のち崇源院。

そして、柴田を倒したその年に、秀吉は大坂城の築城を開始します。織田信長が長篠の戦いで武田を倒した直後に安土城をつくりましたが、それとまったく同じです。
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しかも、その大坂城を当時の宗教勢力の頂点にあった、一向宗石山本願寺の跡地に、全国トップの証としてつくるわけです。

これは、大名勢力と宗教勢力の両方とも制圧したということを全国に示すことになります。

秀吉と言えば大坂のイメージがなんとなく強いですが、秀吉はほとんど大坂にはいなかったようで、重要なことはすべて京都で行いました。それなのにわざわざ大坂城を作ったのは、以上のような意味があったからといえます。
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