安土桃山時代、桃山文化(歴史勉強ブログ)

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいいます。
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織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城※今はありません!(桃山)から、このように呼ばれ・・・
特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼びます。

ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではありません。
・・・・・・・・・・・!!

そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となりますが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張さえあり、近年は織豊時代という呼び方も広まっています。

後に説明する、豊臣秀吉の時代について簡単に見ておきましょう。
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本能寺の変に対し、羽柴秀吉はいち早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破ります。(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年1583年には大坂城の築城を開始。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本を統一し全国で検地と刀狩りを実施させ政権の安定に力を注ぎます。また、文禄1年(1592年)秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こすも、経由地であるはずの朝鮮で戦況は膠着してしまいます・・・
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「桃山文化」
「桃山文化」ば美術史に於いて重要な時代と位置付けられています。
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安土桃山時代には、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られます。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられます。
茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響しました。映画「利休にたずねよ」を見れば、その様子がうかがえますね。
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特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられます。まだ小規模ではありましたが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要です。

●絵画
狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた
濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
●水墨画
風俗画

主な絵師と代表作
●濃絵
狩野永徳:唐獅子図屏風
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狩野山楽:牡丹図、松鷹図
長谷川等伯:智積院襖絵楓図
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長谷川久蔵:智積院襖絵桜図
●水墨画
長谷川等伯:松林図屏風
海北友松:山水図屏風
●風俗画
狩野永徳:上杉本洛中洛外図屏風
狩野内膳:豊国大例祭図屏風
南蛮屏風

●漆器
高台寺蒔絵
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高台寺は京都市東山区の臨済宗のお寺ですが、豊臣秀吉の正室であるねね様<北政所(高台院)>が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院として有名ですね。
●陶器
楽焼
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織部焼

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●茶道
わび茶

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なお、桃山文化を代表する城のひとつといわれている姫路城は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張されたものです。

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!!!以前自分のブログでとある勉強会に参加し「桃山文化」について学んだ記録があるのでコピペしておきます。私のノートなので、正確性は保証できないかもしれませんが・・

日本芸術を見るにあたって、転換期として重要な時代は、
「桃山時代」だそうだ。

これまでの戦乱の世の中から、一応の「平和」が訪れ、平和的な題材が多くなっている。
「憂き世」から「浮き世」への転換しつつある時代。

そこで、庶民からの芸術家も多く現れる。
王朝文化への憧れから、源氏物語や伊勢物語を題材とした絵なども多く見られる。

町衆の中でも、先陣を切っていたのは、かの有名な「俵屋宗達」
ご存知のとおり、琳派の、尾形光琳も宗達の作品に大きな影響を受けたといわれている。

しかし、わかっているのは、「京都の扇屋であった」ということくらいで、生没年すら不詳の宗達。
ただ、町の絵師では異例の「法橋」の位が与えられていたことも分かっており、「法橋宗達」の名が残されている屏風もある。

そして尾形光琳も、もともとは京都の裕福な呉服屋の生まれであった。
しかし、時代が変わり、商売が傾いた際、せっかく集めた芸術品を質にいれなくてはいけなくなったそうだ。
その際、宗達の屏風を「寸分違わずトレース」したそうである。そののち、世界にも衝撃を与える芸術家になったということは言うまでもない。
つまり、京都の町衆が、日本芸術に、いや世界に大きな影響を与えていたのだ!!
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