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織田信長の戦略(歴史勉強ブログ)

1560年 桶狭間の戦いで勝利し、スーパースターとなった織田信長。

しかし、ただ「おれは京都に言って支配者になるんだ」と言っても、まわりの支持は得られません。
そこで有名無実化しながらも、まだ細々と継承されていた将軍を利用します。
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ここが非常に日本的なところなのですが、朝廷とか幕府とか後ろ盾をつけないと、実質的な支配者としてなかなか周りからの支持は得られないんですね。

このときの将軍は13代足利義輝ですが、これが1565年、山城を支配していた松永久秀に暗殺されます。
松永久秀は歌舞伎でもいちばんの悪役として登場しますが、彼は細川晴元を三好長慶が下剋上し、さらにその三好を下剋上したのが松永久秀です。
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そして、足利義栄(よしひで)を14代将軍にしたのです。

しかし、織田信長はこのようなことを言いだします。

「本来、将軍になるべきは、義栄ではなく、直系である13代の弟君、足利義昭だ。松永久秀のせいでねじられた現状を正すため、おれは京都に行くぞ」
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こうした名目を立てて、京都に入ったが1568年の出来事です。

そうした思惑から織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は必ずしも信長の言いなりにはならない。

「自分は将軍であって、信長が偉いわけではない。なぜ信長の言うことを聞かなければならないんだ」ということで、足利義昭は信長と対立し始めますが、もちろん義昭ひとりでは信長とは対決できません。

そこで、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺を味方につけて信長と対抗しようとします。
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そうした状況の中で信長は1570年姉川の戦いで浅井と朝倉を倒し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまいます。

かつて平氏が滅んでいく大きな原因となったは、南都(興福寺、東大寺)の焼き討ちでした。だから義昭にしてみれは、信長が宗教勢力に対抗して延暦寺を焼き払うなどとは思ってもみなかったのでしょうね・・。

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ちなみに、浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城(滋賀県長浜市)を嫌い、1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました。(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。

あと残るのは足利義昭だけ。将軍としての権威はあっても力はまったくありませんから、信長は正親町(おおぎまち)天皇と結んで将軍職を廃位にして。義昭を京都から追い払います。ここで、室町幕府もついに滅亡を迎えることになりました。

当時の政治基盤が京都なら、経済基盤は大阪です。そこで1569年、信長は堺を制圧し、支配下に置きました。
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●一向宗の弾圧
当時もっとも力を持っていた宗教勢力は一向宗(浄土真宗)で、その本拠地は大阪の石山本願寺です。

これが寺内町といって、お寺の敷地の中に町がある。つまり、町全体がお寺という広大なものでした。しかし、そのすぐ南にある堺が信長の直轄となりましたから、一向宗にとっては脅威の存在となります。

そこで1570年、つまり信長が堺を支配した翌年に一向宗の信徒たちが信長に対して挙兵し、石山戦争を始めます。

それが収まった後、1574年に伊勢長島の一向一揆を制圧。伊勢長島は一向宗の力がすごく強いところです。

次に1575年の越前の一向一揆も閉廷。また、京都を拠点に法華一揆などを起こしていた、もうひとつの過激な宗教集団である日蓮宗も制圧します。