応仁の乱と東山文化(歴史勉強メモ)

8代将軍足利義政のとき、応仁の乱が起ります。
c0190486_2127632.jpg

その主な原因は、将軍の跡継ぎ争いです。
義政の弟、義視(よしみ)を将軍にしようとする勢力と、義政の子、義尚(よしひさ)を将軍にしたい、母親・日野富子を中心とした勢力に、管領家などの後継争いが加わり、1467年から77年まで11年にわたって戦乱状態が続きます。
c0190486_21274712.jpg

ちなみに、京都には西陣という地区がありますが、応仁の乱の「西軍本陣」がその由来です。

結果的に義尚が次期将軍になりますが、その後も不安定な状態が続きます。
義尚の時代には大規模な一揆も起っています。

1485年に勃発した「山城の国一揆」(京都府南部)、
1488年に起った「加賀の一向一揆」(石川県南部)
で、加賀の一向一揆では、加賀の守護であった富樫政親を倒して、一向宗(浄土真宗)門徒衆ら連合政権を樹立、約1世紀にわたって本願寺の支配下におきました。

応仁の乱後はもはや日本を包括的に治める政権がなくなってしまった状態と言えるでしょう。

応仁の乱の後、将軍職を譲った足利義政は、政争や一気の頻発に嫌気がさし、今日の東山に山荘を立てて隠棲します。そこに建てたのがこの時代を象徴する銀閣(慈照寺銀閣)です。
c0190486_21273022.jpg

この頃は禅の精神を表現した「枯山水」がもてはやされました。
龍安寺石庭や、大徳寺大仙院庭園はその代表例です。

絵画では水墨画が雪舟により大成されました。また、土佐光信が創始した大和絵の流派である土佐派が生まれ、狩野正信・元信によって大和絵と水墨画を融合させた狩野派も生まれます。
[PR]