「清貧の思想に逃げ込むな」

「清貧の思想」というものがある。
生活を極限までに簡素化し、心の豊かさを求めた生き方をすることである。

「清く、貧しく、美しく」
わが国に昔からある伝統的な生き方のひとつだ。
先達には、西行、兼好法師、本阿弥光悦、松尾芭蕉、良寛などがいる。彼らは清貧の思想を生きた。
c0190486_1934653.png

豊かな現代でもそれは可能か。現代の清貧の思想は「知足安分」(ちそくあんぶん)としてとらえられている。知足安分とは、「高望みせず、自分の境遇に満足して生きる」ということだ。たしかにそういう生き方も悪くはない。

だが、モノが豊かな現代は、誘惑も多く、少し努力をすれば人並みの豊かさは手に入れられるのだから、何も好きこのんで「清貧」を志さなくてもよいのではないかと私は思う。005.gif

真に清貧に思想を生きるには、世俗の誘惑を押しのける強い意志と、孤独を恐れない強い心が必要だ。そうなるために、西行や芭蕉らは世捨て人の道を選んでいる。

「足るを知る」ことは大切だが、その先がなければ現代を生きている甲斐がない。
「清く、貧しく、美しく」の「貧しく」がいただけない。
「清く、正しく、美しく」こそが現代人の求めるべき生き方ではないか。

お金の話をするのは汚いとよく言われる。お金は、みんなが欲しがるわりに悪者になりやすい。だが、味方につければ無限の力を発揮してくれる。正しく使えば、正しく生きる。012.gif

現代人は、お金なしに生きることはできない。お金を得るのは、社会に役に立ったことの対価である。

よく「お金がすべてでない」という言い方がされる。たしかに、そのとおりなのだが、この言葉を安易につかってほしくない
お金を得るために最大限の努力をした人間が、得たにしろ得なかったにしろ
「これが自分としての最終結論だな」という時期を迎えたとき、はからずも口をついて出る。そういう言葉であってほしい。
c0190486_19343611.png

現代人にあって、「清貧の思想」信奉者は、せっかくノミネートされたのに不参加を表明する意気地なしに思える。結果なんかどうでもいい。オリンピック同様「参加することに意義がある」という気持ちで、この自由社会の人生オリンピックに積極的に参加してみればいい。
「みっともないお金の使い方」川北義則」より
c0190486_2073589.jpg

これを読んでフッと思い出したのが、かなり前のことだが、
京都に「京都迎賓館」を作るか否か、という議論がされていたとき、
京都で日本共産党が「京都に迎賓館はいりません」という立て看板や横断幕を持ってデモを行っていたことだ。
c0190486_208231.png

先日NHKで京都迎賓館の特集をやっていたが、その並々ならぬ「本物」をもちいて相手をもてなそうとする美への執念、こだわりのすごさに驚いた。

例えば、天井の木目調を合わせるため、一本何千万もする、立っている状態の木を森の中に買い付けに行く。それをものすごい手間をかけて木材として加工する。005.gif

壁に施された金細工は職人が3年かけてひとつひとつ手で張り付けていく・・・040.gif

気の遠くなるような作業だ。
もちろんお金もかかっているだろう。こんなところで泊まれるのは極上の贅沢だと思う。072.gif
こんな場所で、海外の要人が滞在したら「極上のおもてなし」を受け、さぞ日本という国に親交を深めたくなるだろう。

なのに迎賓館に反対していたのは「もっと別なところに税金使ってよ」という建前なんだろうけれど、、「反対」というのはVIPに対する嫉妬心に思えてならない。

迎賓館を作ることによって外交面で有形無形のプラスがあるだろうし、何よりも京都の職人さん達を支援することにもなる。もちろん、迎賓館は「清貧」の対極にあるのだが。

川北義則は別の章で次のように述べている。
共産党はよく「金持ちから税金を取れ」と言っている。庶民には痛快に感じられるが、これは「金持ちを優遇するな」という発想である。だが私の考えは逆だ。

金持ちの税金は逆に下げて、どんどん消費してもらえばいいのではないか。そうすれば世の中にお金が回り、景気がよくなる。生活必需品だけではなく、美術品などにも金が回れば芸術の振興にもなる。

「金持ちから税金をいっぱい取れ」というのは嫉妬心から来る愚策だと思う。


共産党を批判している感じで申し訳ないが、「貧しさ」=「美しさ」、「贅沢」=「醜さ、悪」ではない、ということを迎賓館の番組で見てフと思ったのでメモしておきたい。071.gif
[PR]