大政奉還と坂本龍馬(歴史勉強メモ)

薩長ともに討幕になり、しかも薩長連合があるのだから、明日にでも幕府を倒すことができる、と思いきや、大事な人を忘れていませんか。

そう、孝明天皇です。
孝明天皇は公武合体論者ですから。

ここでどうなるかと言うと、ふっと孝明天皇が死にます。
これも1866年12月のことです。

体じゅうに紫色の斑点が出たと言いますから、硫黄系の毒の症状かと思われますが、とにかく亡くなります。

そのあと、1867年1月に明治天皇が即位すると、薩長連合は、朝廷内の討幕派である公家の岩倉具視と組んで、討幕の密勅を出させるように画策します。

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密勅の内容は「10月14日に討幕の行動を起こせ」というもの。

一方、討幕を何とか避けたいと思っていたのが坂本龍馬なんです。005.gif005.gif005.gif

龍馬というのは、新しい政府の骨格を作った人だから、幕府を倒した人だろうと思っている人が多いようですが、彼は「公儀政体論」者です。

龍馬の国家思想「船中八策」に出てきますが、将軍が議長になり、公家、諸大名、下級武士が構成員である議会を作り、議会政治により国家を運営していこうという考え方です。006.gif

龍馬がそれを考えたのは、日本が欧米列強の植民地になってしまうことを恐れたためです。討幕が起こると、日本は内紛状態になります。

列強は混乱に乗じて植民地化するか、なんらかの権益を得ようとし、相手国に内紛が起こるのを待っているわけです。008.gif

しかし、坂本龍馬は下級武士ですから、将軍に直接会って話ができる立場にはありません。
そこで、坂本は土佐藩の後藤象二郎という上級武士と結託して土佐藩主・山内容堂を動かし、
大政奉還をするように将軍を説得してもらったわけです。

山内容堂なら、将軍とサシで話ができますから。
大政奉還というのは、征夷大将軍として与えられていた権限を朝廷に返納するということです。その段階で幕府はなくなります。滅亡するのではありません。消えてなくなるのです。

前述したとおり、すでに「10月14日に幕府を倒せ」という討幕の密勅が出ています。
しかし、10月14日の段階で幕府が存在しなければ、倒すにも倒しようがありません。

つまり、討幕の密勅を有名無実化するのが大政奉還なのです。

京都の二条城は江戸時代、徳川将軍家の上洛時の居城でした。15代将軍慶喜は二の丸御殿の黒書院で大政奉還の意向を示しました。

その頃の明治天皇はまだ15歳。
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徳川慶喜は、山口容堂の説得を受けて公儀政体論に乗っていこうと決意しますが、それは議会で重要なポストにつけば、いずれまた幕府ができて将軍の地位に戻れるかもしれない、という腹づもりがあったことでしょう。

一方、討幕派はせっかく幕府をなくそうとしているわけですから、そんなことになっては意味がありません。それをやらせないようにするのが、12月9日の王政復古の大号令です。

さらに、新政府の首脳の最初の会議として京都の小御所で行われた小御所会議で、徳川慶喜に対し、朝廷内のすべての権限をはく奪する内容の要求がなされます。

徳川慶喜にしては、自分から引退したくて大政奉還したわけではないので、そんな要求は呑めません。

会議の決定を拒否し、大坂城にたてこもってしまいます。
こうして、坂本龍馬がもっともおそれていた内戦、戊辰戦争がはじまってしまうのです。008.gif

では当の坂本龍馬はどうしていたか。
王政復古の大号令の1カ月ほど前、11月15日、京都の近江屋で盟友・中岡慎太郎とともに暗殺されていたのです。

戊辰戦争・・・
つまり、龍馬がもっともおそれていたことが起こってしまったわけですが、イギリスやフランスにしてみれば、「待ってました」と大喜びです。

大坂城に引き返した旧幕府軍は、体制を整えて京都に攻め上がりますが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、徳川慶喜は逃げ帰ります。

新政府軍が慶喜を「朝敵」として追討することを決定したことで、江戸を舞台に全面戦争に発展しかねない重要な局面を迎えることになります。

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ここに登場するのが、坂本龍馬にそうした考え方を教えた勝海舟です。

1868年3月、江戸の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が会談。
4月に江戸城の無血開城となり、戊辰戦争の大勢が決します。

こうして、坂本龍馬がおそれていた最悪の事態は、師である勝海舟によって救われることになったわけです。072.gif
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