薩長同盟 ~尊王攘夷から討幕へ~(歴史勉強メモ)

▼整理図
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さて、池田屋事件⇒禁門の変⇒四国艦隊下関砲撃事件・・・
と続きますが・・・

1864年は長州にとって受難の年。007.gif007.gif007.gif
その結果、長州藩は尊王攘夷をやめて、幕府に恭順の姿勢を見せます。

これに反発するのは長州の下級武士
尊王攘夷だからこそ、それを実現するための鉄砲玉としての役割があるのに、それが恭順になってしまうと、またしがない下級武士に逆戻りになってしまいます。

そこで、1864年12月長州藩士高杉晋作を中心とする奇兵隊がクーデターを起こし、長州藩の実権を掌握します。

このころには、さすがに高杉や桂小五郎(木戸孝允)も攘夷は無理だとわかっていますから、「尊王」だけが残ります。

朝廷を中心にした国づくりをするには、このまま幕府に任せておくわけにはいかない、ということで「討幕」という考え方が生まれてくるわけです。

このあと、薩摩藩でも徐々に下級武士が実権を握っていきます。大久保利通や西郷隆盛らですよね。

こうして、長州藩と薩摩藩という力のある2つ藩で、いずれも下級武士が実権を握るようになると、そこに目をつけたのが土佐の坂本竜馬です。
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土佐藩というのは、上級武士と下級武士の身分差がすごく、厳しい差別があった藩です。
だから、下級武士というのは一人では弱い。

したがって、一つの藩で下級武士が実権を握ったところで、まだまだ弱い。
そこで坂本竜馬は下級武士による連合体を作り、多くの藩の下級武士たちが連帯すれば、一大勢力となり、幕府、朝廷、大名たちに対し、平等にものが言えるようになると考えたわけです。072.gif

坂本竜馬はまずそれを薩摩と長州にもちかけます。
薩摩や長州も、下級武士が実権をもったところで単体では弱いと考えていたため、坂本龍馬の要請に乗って、やがて薩長連合を結んでいくことになります。
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禁門の変の後、恭順の意を示していた長州ですが、下級武士に実権が移っていくにつれ、藩内世論も討幕に傾斜していきますから、当然に幕府の言うことを聞かなくなります。

そこで14代将軍家茂は、1865年4月、二度目の長州征討の命令を出します。033.gif

そのときに家茂があてにしていたのは薩摩藩の軍事力なのですが、そのころには下級武士たちの連合が出来ており、なかなか動こうとしません。また1866年1月には薩長連合が成立してしまいます。

薩長連合は秘密裏の連合なので当然、幕府には報告していません。

そうとも知らず家茂はしびれを切らし、1866年6月長州征討を決行。
しかし、その直後に総大将の家茂は大坂城中で病死します。007.gif

病死と言うことですが、暗殺説もあります。こうして、第二次長州征討は幕府方の大敗に終わったのでした。
この後の1866年12月、最後の将軍15代将軍徳川慶喜が就任します。
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徳川慶喜は非常に頭のいい人物であったことで知られています。
前の坊ちゃん育ちの家茂とは違い、幕府がダメになった要因もわかっています。
それは諸藩に意見を挟む余地を与えてしまったこと。

慶喜は徹底した中央集権体制を取ろうとする。つまり、すべてを幕府が決めていくということですね。またそれが自分でも出来ると思っていたのです。

慶喜がなんでも自分でやっていこうとしたときに、それを最も強く反発したのが、当時まだ表向きはまだ幕府に近い存在とされていた薩摩藩です。

中央集権体制と言えば、ペリー来航以前の幕藩体制に戻ること。すると薩摩はまたただの外様大名に逆戻りです。015.gif

その結果、薩摩藩は慶喜を見限ります。要するに、公武合体の「武」を見限るわけですから、「公」だけになり、ここで薩摩も討幕に傾斜していくわけです。ここで薩摩と長州のどちらも討幕で一致します。051.gif
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