薩摩・長州の動きと池田屋の変(歴史勉強メモ)

1862年、島田久光が改革を進言して薩摩に帰る途中、横浜で生麦事件を起こしてしまいます。
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これは島津の行列の前を横切ったイギリス人を、藩士が切り殺してしまうという事件です。

島津は幕府と同じ公武合体論だったはず。それなのに、なぜ外国人を切り殺すのか、と不思議に思う方もいるかと思いますが、薩摩藩は公武合体論ではあるけれど、あくまで攘夷目的の公武合体論推進論者でしたよね。

ここで考えなくてはいけないが、西洋人の発想には「やられたときは、やり返さなければ負けを認めてしまうことになる」という考えが根底にあるということです。今はやりの「倍返し」ですね。こういうことをすると、彼らは必ず報復を起こす。031.gif

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それが翌1863年の「薩英戦争」です。生麦事件への仕返しとしてイギリス軍が鹿児島湾に進撃してきます。
当時の薩摩藩は、日本でも有数の軍事力を誇る藩でした。
その絶対的な薩摩の軍事力も、イギリスのたった一隻の軍艦によってなすすべもなく、砲台も何もかもが壊滅状態になってしまう。

そこでやっと薩摩は、攘夷と言うのはどだい無理だとさとるわけです。008.gif
その後、考え方が変わって、攘夷からどちらかというと幕府に近い考えになります。幕府に近くなるということは、長州との距離が遠くなるということです。
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次に長州藩の動きです。
薩英戦争の2カ月ほど前、1863年5月10日 長州藩が下関の砲台から航行中の外国船に向けて砲撃するという出来事がありました。(長州藩外国船砲撃事件

それで「わが藩は攘夷を実現した」なんて喜んでいたわけですが、死者も出ず、単に小さなボートを沈没させただけです。

長州藩には、孝明天皇を担いで、攘夷運動を進めようという動きがり、朝廷の警備をする役職に就いていることもあって、京都では長州藩が実権をにぎっているようなところがありました。

これは、公武合体を推進していた幕府にとってまことに都合が悪いわけです。
幕府と考えが似てきた薩摩藩と会津藩も尊王攘夷運動に抵抗し、長州藩士や三条実美など尊王攘夷を唱えていた公家たちを京都から追放します。これを八月十八日の政変、もしくは有力な公家が七人いたことから七卿落ちといいます。

●第一次長州征討
翌1864年になると、6月に京都で、有名な池田屋の変が起こります。071.gif071.gif071.gif
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新撰組が池田屋という宿で密談をしていた尊王攘夷派を襲撃した事件です。

新撰組は幕府が作った組織で、隠密ではないけれど、文書には記されていない秘密組織です。

設立の主な目的は京都における尊王攘夷派の動きを阻止することと言われています。

池田屋事件の報を聞いた長州藩は、激怒して京都に攻め上がり、御所の蛤御門のあたりで薩摩・会津連合軍と交戦します。これが禁門の変蛤御門の変です。
長州藩の完敗に終わりますが、このときに長州藩の松下村塾出身の逸材、久坂玄瑞が自決してしまいます。

そして、8月に朝廷は幕府に対して長州征討を命じるわけです。
しかも、同じ8月におそらく幕府の長州征討を聞きつけてだと思いますが、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が前年5月10日に起こった外国船砲撃に対する報復をします。これが四国艦隊下関砲撃事件です。
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